露が消える時

黄色いパッケージの「森永のキャラメル」を知らない日本人はいないと思います。その森永製菓の創業者は森永太一郎(たいちろう)という方で、彼は慶応元年、生家であった佐賀県伊万里市で陶器問屋の息子として生まれました。

24歳の時に商品を海外で販売することを目論見、妻子を日本に残して単身、渡米し、そこで出会ったクリスチャンのアメリカ人老夫婦からキリスト教に触れ、内村鑑三、新渡戸稲造を導いたメリマン・ハリス宣教師から洗礼を受けます。その後、一時、帰国しますが、再び渡米し、西洋菓子の製法を身につけ、帰国後、森永製菓を設立し、この会社は日本を代表する製菓会社となります。

森永製菓の商品の中に昭和5年に販売が始められた「マンナ・ビスケット」という幼児の離乳食があります。懐かしく思われる方がいるかもしません。このマンナの成り立ちと名前の由来が森永製菓のウエブサイトに掲載されています。

当時の日本は不況下にあり、世の中にはまだ乳離れした幼児が食べられるお菓子が何もない時代。そこで森永は子供が安心して食べられる栄養価の高いビスケットを開発しました。それがマンナであり、その名は太一郎が聖書に記されている神様がイスラエルの民に与えたマナという食物にちなんでつけられました・・・。

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心の断捨離

不思議なもので身の回りがすっきりすると心までもすっきりしたような気持ちになります。私はかつて「あなたの机の上の状態があなたの頭の中をあらわしています」と言われて「なるほど、そうかもな」と思わされ、以来、机の上を整えるようになり、確かに心も整理されているような気持ちになりました。

今日のタイトルは「心の断捨離」というタイトルです。その意図するところは文字通り、私達の心を整理しましょう。処分すべきものは処分しましょうということです。

「これは必要ないだろう」とゴミに出したものを、家族の者が見つけ、また元の場所に置かれていたなんてことを聞いたことがありますが、手放すことはなかなか簡単ではないことがあります。

それが靴とか雑誌なら私達の生活や人生に大きな影響を与えることはあまりないかもしれませんが、今日、私達が見ていきますことに関して言えば、それを私達が持ち続けていることは人生に影響があるだろうと思われることです。

結論から言いますと、そのことを解決することができなかったことがイスラエルの民、また彼らを率いたモーセすらも約束されていた土地、カナンに入ることをできなくしてしまいました。そう、そのことゆえに彼らの人生の目的は達成することができなかったのです・・・。

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それはあなたの戦いではない

私が小学生の頃、「巨人の星」というアニメがテレビで放映されていました。皆さんもご存知、星一徹を父にもつ星飛雄馬を主人公とした野球アニメです。あの時代、多くの子供達がジャイアンツの帽子をかぶり、自分が投げるボールは大リーグボールだ、消える魔球だと言っていました。

当時、この「巨人の星」を東の横綱としますと、西の横綱は「あしたのジョ-」というアニメでした。矢吹ジョーというボクサーが丹下段平というトレーナーと共にトレーニングを重ねてリングにあがる。宿命のライバル、力石徹との戦いは伝説となっています。

当時、私はこづかいを貯めてその主題歌、「美しき狼たち」というシングルレコードを買って、何度も聞いていたのを今でも覚えています。「男なら戦う時がくる。誇りを守るために、命をかけて。男なら旅立つ時が来る。愛する者達に別れを告げて。足をくじけば、膝で這い、指をくじけば、肘で這い、涙の粒だけたくましく、傷ついてしなやかに、あー、男は走り続ける、あー、人生という名のレールを・・・」。

「足をくじけば、膝で這い、指をくじけば、肘で這い」と小学生が口づさんでいたのですから、すごい時代でした。いったいあの時の私は「男なら戦う時がくる」と歌う時、どんな戦いを考えていたのでしょうか・・・。

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自由を右手に、左手に責任を

イスラエルの民は400年もの間、エジプトの奴隷となっており、まさしく彼らの心はエジプト化していました。それはそうでありましょう、彼らの祖父母、否、その先の先祖の代から彼らは奴隷の身分に甘んじていたのです。奴隷としての身分が彼らの骨身にしみわたっていたのです。

「奴隷根性」という言葉があります。その意味は「何でも人の言いなりになって頼りきり、自分自身の考えで行動しない」という意味です。そのようなものが彼らの魂にしみわたっているとするのなら、彼らは今一度、神と共に主体的に生きる生き方を確立しなければならなかったのです。

そのために神は彼らを荒野に導かれました。それは神から与えられた自由と共に、神の前に生きる彼ら本来の生き方を回復することを意味していました。

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