悔いのない人生を送りたい

エルサレムには聖墳墓教会という教会があります。そこはイエス・キリストが十字架につけられたゴルゴダの丘の上に建てられたと言われている教会です。その場所が当時のゴルゴダの丘だろうと裏づけられた理由は、その丘から十字架刑に使われたと思われる朽ちた木々、その中には人の手首の肉片がそのまま釘付けにされた木片が発見されたからだというのです。

十字架に磔にされる者達とは犯罪者ですから、その死体が丁重に扱われることはなく、まさしくその遺体は引きちぎられるようにして処理され、その手首の肉片はそのまま木につけられたまま放置されていたのでしょう。それが十字架という刑なのです。私達はこの十字架を信仰のシンボルとしているのです。

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壁越しではなく、垣根越しに

メキシコとの国境に行きますとそこには高い壁が建っています。その壁はとても高いもので、こちらからあちらをうかがうことができません。中にはその壁の上に痛々しい針金が巻いてあるところもあります。なぜなら、私達は観光に来ているわけではなく、向こう側を見る必要はありませんし、何よりもその壁は互いに行き来ができないようにという目的のために、そこに建てられているからです。

私の住んでいる家とお隣の家の間には、いわゆる塀というものはなく、腰ほどまでの垣根で互いが隔たれています。ですから、お隣が日向ぼっこしたり、芝を刈っている姿が見えます。そんな間柄ですから、私は時々、庭で垣根越しにお隣さんと会話をすることがあります。その時、私達は互いに顔の表情を見ながら、しかし、垣根が互いの間にあるので互いの土地に入ることなく、話すことができます。そして、必要であればしかるべき入り口を使って、互いの了承のもとに垣根を越えて行き来して、いつでも隣同士、助け合うことができるのです。

私達は互いを大切にするために、リスペクトするために境界(バウンデリー)が必要です。しかし、それはそびえたつ壁なのではなく、垣根なのです。

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与えましょう、与えられます

日本語には以心伝心という言葉があります。「言わなくても分かりあっている」のだから、口に出すなんて野暮なことなのだと私達は言います。「何も言わないけれど、心の中では喜んでいるんですよ、感謝しているんですよ」って、本人はそれで完結しているのでしょうが、そこで完結してしまうのは何ともったいないことなのかと思います。

そもそも私達は神様がその御心を内に込めているだけではなく、その御心を言葉によって私達に語りかけてくださいましたゆえに、救いにあずかり、このバイブルと共にこの人生を渡り歩いていくことができるのです。今を生きる意味とその指針を、そして神の愛というものを、私達は神の言葉によって知ることができるのです。

素直に嬉しい事があったり、ありがたいなと思うことがあるのなら、しんどさの中を生きている方が目の前にいるのなら、私達の思いを表情に、そして、その思いを言葉で言い表すことができるのなら、そのことがおよぼす祝福は、それこそ言葉では言い表せないほど大きいのです・・・。

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私が変わります

ジョン・ドレッシャーという牧師が「若い父親のための10章」という本を書いています(いのちのことば社)。その中で師は「家族のために祈るのをやめること」という一見、耳を疑うようなことを書いています。いったいドレッシャー牧師は何を言わんとしたのでしょうか。

師は「それまでの私の祈りはこんなふうでした」と自分の祈りについて告白しています。「主よ、どうか私の息子を良い子にしてください。彼の態度がよくなるように、あなたの愛を注いでください。息子が従順になり、それによって家族の関係がうまくいくようにしていください。娘がキリストの愛を知り、成長するにつれ、色々な人間関係の中で何が真の愛なのかを理解できる者としてくださるようにしてください。妻が子供達に忍耐し、彼女が家庭を穏やかに保つことができるように、主婦としての義務を果たすことが出来るように。忙しさに負けないように」。

ところが師はある夜、ひとりでいた時、突然、これまで祈っていたような祈りはやめねばならないと思ったというのです。このような祈りは意味がないと感じたというのです。当時、どういうわけか子供達は、幼い頃よりも、愛についてわからなくなってきており、思いやりや親切といった性格も以前より失われていたというのです。その時に、師は自分が見当違いの祈りをしていることに気がついたというのです。一体、師は何に気がついたのでしょうか・・・。

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