「感謝する心」が明日を拓く

小学生の頃、「もしお前の願いが一つ、かなえられるとしたら何が欲しい?」とよく友達の間で話しました。ある者は「ギアつきの自転車」が欲しいと言い、ある者は「野球チームのレギュラーポジション」を取りたいと言いました。私はそんな時、いつも答えました。「魔法のランプ!」。なぜ魔法のランプなのか。私は思ったのです。魔法のランプがあれば、一度限りではなく、いつでも何でも手に入ると。

ある時、同じ質問が大人達に投げかけられました。「もし、あなたの願いが一つ叶うとしたら何を願いますか」ある者は「マイホーム」と言い、ある者は「会社での昇進」と答えました。人が願い求めるものは幼い時も大人になっても、あまり変わりがありません。「自転車」が「マイホーム」になり、「レギュラー」が「部長」となりました。しかし、その中で一人の人がこう言いました。

「私が既に持っているもの、与えられているもの全てに対して、心からの感謝を捧げることができるようにと願います・・・」。

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聞かれない祈りについて

人生を50年も生きていますと、私にはいくつもの叶えられなかった祈りがあったことに気がつかされます。そして、それらを振り返ります時に、それらのことについて今、私は思いがけない、自分でも驚く思いを持っていることに気がつきます。何だか分かりますか?

「あぁーあの祈りがあのまま叶えられなくてよかったなー」という安堵の思いです。あの時にあの祈りが叶えられていたらと思うと、今頃・・・。

求めよ、そうすれば与えられるであろう」(マタイ7章7節)という言葉に従い、ある方は、我が子を願っている学校に進学することを祈っているかもしれません。しかし、その願っている学校に行く事はできずに、その子が全く願っていないような進路に歩み出すなんてことが人生にはあります。

祈っても、私達の祈りが聞かれない時があるということは、どういうことなのでしょうか。私達日本人には「本音と建前」というものがありますが、今日は建前ではなく、本音の部分からこの祈りについて見ていきたく願っています。

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天を相手に生きる喜び

「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロニケ5章16節)。

この言葉に内心、違和感を覚える方がいるのではないかと想像します。「そんなことはできない」という違和感です。そうです、私達は「いつも」という言葉に心が引っかかるのです。

ある日、車のオイル交換に行きました。「終わったら連絡するよ」と言われて帰宅したのですが、連絡はなく、取りに行けば、オイル交換は既に終わっており、代金を払って鍵さえもらえれば帰れるのに、目の前にいる私を前に店員は電話で長話をしていて、待てども暮らせども一向に電話が終わるようには思えません。私は思わず左手を彼の前に掲げ、右手で時計を指差したのです。明らかにその時に私の心から喜びは失われていました。

数年前、ホームレスの方が朝、教会を訪ねてきました。その方は常連の人で、いつも電話を貸してくれと言います。電話で話していると、その話し相手に大声で耳をふさぎたくなるような荒々しい言葉を怒鳴り散らしています。一日の始まりの朝だというのに、私の心から喜びが奪い去られていくのがよく分かりました・・・。

はたして「いつも喜びなさい」ということは私達に可能なのでしょうか。

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合同イースター礼拝

Happy Easter!

青空が広がるイースターの朝を迎えました!今日は英語部の本多一米牧師のメッセージと共に、日英合同のバイリンガル礼拝を主に捧げました。居る場所と言葉の違いを超えて、共にイースターの喜びを主に捧げましょう!

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