私が変わります

ジョン・ドレッシャーという牧師が「若い父親のための10章」という本を書いています(いのちのことば社)。その中で師は「家族のために祈るのをやめること」という一見、耳を疑うようなことを書いています。いったいドレッシャー牧師は何を言わんとしたのでしょうか。

師は「それまでの私の祈りはこんなふうでした」と自分の祈りについて告白しています。「主よ、どうか私の息子を良い子にしてください。彼の態度がよくなるように、あなたの愛を注いでください。息子が従順になり、それによって家族の関係がうまくいくようにしていください。娘がキリストの愛を知り、成長するにつれ、色々な人間関係の中で何が真の愛なのかを理解できる者としてくださるようにしてください。妻が子供達に忍耐し、彼女が家庭を穏やかに保つことができるように、主婦としての義務を果たすことが出来るように。忙しさに負けないように」。

ところが師はある夜、ひとりでいた時、突然、これまで祈っていたような祈りはやめねばならないと思ったというのです。このような祈りは意味がないと感じたというのです。当時、どういうわけか子供達は、幼い頃よりも、愛についてわからなくなってきており、思いやりや親切といった性格も以前より失われていたというのです。その時に、師は自分が見当違いの祈りをしていることに気がついたというのです。一体、師は何に気がついたのでしょうか・・・。

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誰のために体を労わるのか

ある青年が牧師のもとに悩みを打ち明けに来ました。自分は毎日、生きていくのがつらい。頭にはもやがかかっており、毎日が息苦しい。ちゃんと聖書を読んでいるし、祈っているし、教会にも行っているのにと彼は言う。

しばし、青年の話を聞いていますと、この青年はとてもまじめな方で、確かに一生懸命に神に仕えようとしている。しかし、牧師には彼がオフィスに入って来た時から気になっていたことがありました。

そのことに触れるべきかどうか、ずっと心に収めていましたが、やはり、このことは彼が抱えている問題と関わっているのではないかと思い、彼が立ち去る時に一言、彼に語りかけました。「〇〇さん、外は猛暑、シャツの一番上のボタンは外しておいても、いいのではないですか」。

「祈りなさい」というアドバイスは大切です。しかし、そのことよりも「よく睡眠をとり、栄養あるものを食べて、体を動かしてください」というアドバイスの方が大切な時もあります。キリスト者は時々、「主よ、あの魂をお救い下さい」と祈りますが、「あの魂」という名の人はこの世界にはいません。その人は魂と共に肉体をもった「人間」であるということ、そのことに私達の目が届かなくなりますと、私達は人間を大切にすることができなくなります。

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私は奇しき足跡を信じる

今から30年前、神奈川県の藤沢市からテントと寝袋を持って、自転車で九州、宮崎県まで行ったことがありました。京都までは一号線をひたすらはしりました。自転車といえども結構、はしれるもので一泊目が静岡市の阿倍川の橋の下だったことを覚えています。二泊目は確か愛知県の岡崎市あたりで、三日目には三重県に入りました。

野宿の旅には少々、事情がありまして、日が暮れる前に、なるべく静かに目立たず、雨露をしのいで朝を迎えることができる場所を探さなければなりません。かといってそのような場所が簡単に見つかるわけもなく、そうこうしているうちに三日目の夕刻、私は三重県の鈴鹿峠に来ていました。

その時、既に陽は傾きかけ、薄暗くなっていました。昼の山はいいのですが、暗くなればそこは闇の世界であり、決してわくわくするような場所ではありません。その日に身を横たえる場所も決まらず、これからあそこに入っていくのかと、山々を見上げた時の心細さと不安さを今でも覚えています・・・。

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変化は祝福を運んでくる

季節が冬から春に変わりつつあり、一人一人の心がけ、ワクチンの効果がでているのでしょうか、サンディエゴのコロナ感染者は減少してきています。しかし、それにしましても、ほぼ一年、私達は戦争ではなく、天変地異の自然災害でもなく、目に見えないウイルスにより打ちのめされてしまうという経験をしました。

これらのことに基づき、現在もコロナ下にある今だからこそ、深く心探られる聖書のメッセージにこれからしばらく心を向けていきたいと思います。

この度のコロナ・パンデミックは私達の生活に静かな変化を強いています。子供達はかつてのように学校に行くことができず、私達も昨年の三月以来、教会での礼拝や集会を一度ももつことができずに今日にいたりました。レストランで食事をすることができず、スポーツ競技は中止、もしくは無観客でゲームをしています。これらは私達が今までに経験したことのない生活の変化でした。

このことは多かれ少なかれ、私達にとりましてチャレンジとなっています。そこで、この機会に「私達の人生の中に起きる変化」について、今日は実際に人生に大きな変化を経験した三人の聖書中の人物を見ていきながら、私達もそこから指針をいただけたらと願っております。

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点はつながり、やがて線となる

私達が人生で経験する出来事は一つの点となり、私達の心に刻まれます。私達が後ろを振り返れば、そんな無数の点を過去に残しながら、私達は今日まで歩んできたことに気がつかされます。

目を凝らして、そんな点を見つめなおすと、幾つかの点は他の点と一本の線でつながっていることに気がつかされます。その時、私達はそこに神の御手のはたらきを感じ取ります。

しかし、全ての点が互いにつながっているわけではないということにも私達は気がつかされます。中にはとんでもないところに点在している点もあり、その時に私達は心の中で思います。この生涯で、私は全ての点のつながりを見届けることなどはできないだろうと。

私達が神の前に立つ時に、全ての点が私達の前に解き明かされ、それらが互いにつながり合い一本の線となる。あなたはこのことを信じますか。

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その日、遺す言葉がありますか。

コロナになり、家にいることが多くなりました。室内にいると息が詰まりますので、時々、外に出て草木や鳥を眺めるようになりました。時に主は聖書の言葉を通してお語りくださいますが、神が造られた被造物を通しても大切なことを教えてくれます。

自然界を見ています時に気がつかされます。それは自然界の諸々の生き物たちは自分に降りかかることを、そのまま受け入れているということです。生まれ落ちる事、生きる事、傷を受ける事、死ぬこと、すなわち、その最期がきましたら、彼らは抗うことなく、その最期を受け止め、大地に身を横たえ、次の命に全てを託して、土にかえっていくのです。

自然界の生き物の死がそのまま人間に当てはまることはないでしょう。人間は動植物とは異なり、豊かに、長く生きるためにできる限りのことをします。そのために私達は働き、心身のために最善を尽くします。それは私達にとりまして、とても大切なことです。

しかし一方で、これらの生き物たちの生き方に惹かれる自分がいます。神の御手の中で生を受け、神の御手の中でその生を精一杯生き、時が来たら、静かに目を閉じ、私達の魂をそっと、あちらの世界に置かせていただく。そこには神から命をいただいた者と神との静かな、そして厳かな信頼関係があります・・・。

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痛恨の失敗、されど・・・

今日はモーセの痛恨の失敗を見ていきたいと思います。モーセにとりまして、自分の失敗が後世の者に読まれるということは不名誉なことでありましょう。しかし、聖書は包み隠さずに、彼の失敗を記録しました。なぜ?私達がこのことを深く心にとめ、モーセと同じ轍を踏まぬためにです。

私達の心身のプレッシャーやストレスを考えるならば、働き盛りの時、仕事や子育てに追われている時は私達の感情も上下に揺れ動き、誘惑の力が大きくはたらく時かもしれません。かといって、これらのプレッシャーを通過すれば安泰かというと、決してそうではなく、残念なことですが「晩節を汚す」という言葉がありますように、その晩年、既にゴールのテープが見える直前に私達はとんでもないことをしかねない者なのです。

そんな私達が今、できることは何でしょうか。夕暮れの空の装いは、昼間の明るさが刻一刻と変化したものです。人生の黄昏は、それに先立つ真昼の時からその特徴を帯びていきます。今から私達は主への感謝と喜びを常として、ひたすら謙虚に、神を畏れ、与えられている日々を大切に、見つめ続けるべきお方から目を離さずに生きる者でありたいのです。

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人の分際を知る

ある時、キリストの弟子ペテロとその仲間達が捕らえられて人の裁きの前に立たされた時に、そこに居合わせた律法学者ガマリエルが声を上げました。

『そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。(使徒行伝5章38節―39節)

この言葉は、その場に居合わせた人達の心にも届いたのでしょう。ペテロとその仲間達は解放されました。ガマリエルは神を知り、神を畏れる人だったのでしょう、人間の分際をわきまえる人だったのでしょう。そう、彼は自分達の領分によって裁きをなさず、神にそれを委ねるということを知っていたのです。

この彼の姿勢は私達に大切なことを教えてくれます。あなたは誤り多き人間であることを忘れるな。あなたの企てや仕業はあなたの心から出ているものなのか、あなたは「自分の企て」を「神の御心」にすり替えようとしているのか、それをしかと吟味しなさい。神の前にひれ伏し、神に問いかけなさい。まかり間違えば、あなたは天地万物の主権者、神を敵に回すことになる。これだけは避けなければならない・・・。

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