米国西海岸と日本の間を飛ぶ時、気流により、行きと帰りでは飛行時間が異なり、行きは約12時間、帰りは10時間弱(この2時間の差はとても大きいものです)かかります。
一話で完結する映画とは異なり、テレビ・ドラマというのは連続して観なければならず、それが億劫で私は普段はほとんどドラマを観ないのですが、この度は話題になっている「半沢直樹」を、これはいい機会と離陸から着陸までの12時間の間に最初から最後まで全て観ました(対抗する相手に向けられる堺雅人の「鬼の形相」と妻に対する「への字笑顔」がしばらく頭から離れませんでした 笑)。
きっと多くの人達は日常生活の中であの人、この人の顔を思い浮かべながら半沢が自分に代わって臆することなく真実を語り、最後には「倍返しだ!」と叫んでくれることによって心の鬱憤をはらしたのではないでしょうか(笑)。
職業柄でしょうか、話題となっているドラマを見る時に、いつも心にある思いは「なぜこのドラマが多くの人を惹きつけたのか」ということで、人それぞれこのドラマに対して思い浮かぶ色々なテーマがあるでしょうが、私が思わされたことは「責任」ということでした。
すなわち半沢がしたことは単純に「さぁ、あなたがしてしまったことに対して、あなたが責任をとりましょう!」ということだったのではないかということです。 半沢はやっていないことを捏造して相手を追い詰めません。しかし、自分がしたことについて責任を取らずにいる人に対して、そのことを明るみにし、その責任を問うているのです(先にも書きましたように、このドラマが人気を得たということは、しかるべき責任をとらない人がこの世界には大勢いるということなのかもしれません)。
自分自身について、社会について、教会について、牧師について、「責任」ということを以後、思いめぐらしています。
マック
追伸:キリスト教界においてこの「責任」というものはどう取り扱われるものなのか、この辺りはけっこうあやふやで、聖書に照らし合わせて、これから注意深く検討しなければならない大切な課題なのではないかと思います。