十分満足

アインシュタインは毎朝、何を着るかを決めるのは時間の無駄だと考え、同じスーツを複数持っていたといいます。オバマ大統領は自分がくださなければならない決断の数が減るからという理由で常にグレーか青色のスーツを着用しているそうです。マーク・ザッカーバーグも何を食べるか、何を着るかなどの小さな決断でも、繰り返し行っているとエネルギーを消費してしまうという理由で、毎日お決まりのシャツ、ジーンズを身にまとっています。そして、極めつけはやはりこの人です。まさしく彼は全てをアップルに注ぎこんだのでしょう。

jobs

若い時は彼らのような思いは持ちえなかったけれど、今はこの方々の気持ちがよく分かるようになりました。スーツに合わせる靴がほころんでしまい、先日、訪日した際には、あれこれ見比べるのが面倒で、同じ皮靴を二足、新調してきました。最近はジーンズとチノパンと黒いポロシャツがあれば残りの人生は事足りるだろうと思っています。髪の毛は毎週土曜日、主の御用を前に一新、一番短い長さにバリカンを合わせて自分で刈っています。三分で刈り終わり、さらにはシャワーを浴びて二分後に乾く髪は最高です(笑)。色々と塗りたくっていた若き日々が嘘のようです。しかし、今はこれで十分です。このようなことは片っ端から思い悩む必要のないルーティンにしてしまって、もっと力と思いを注がなければならないものに心を集中したいのです。

『だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである』(マタイ6章31節ー32節)。

マック

追伸:「な~んだ、ただ、おじさんになっただけだよ」なんて言わないでくださいな(笑)。

 

 

人の心は変わらない

human『今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、既にあったものである』(伝道の書3章15節)

ハーバード大学で長年、人間の行動を研究してきた心理学者のロバート・コール教授はこのように語っています。

私は人間の性質について様々なことを発見してきたが、その発見は聖書が人間について教えていることと何の矛盾もない。イザヤ、エレミヤ、アモスなどの預言者が語っていること、また、「伝道の書」が教えていることは、私の発見と一致する。さらにイエスやイエスに触れられた人々から学ばされる内容に関しても同じことが言える。したがって、私が人間行動を研究し、どのような発見をしようとも、それはすでに旧新約聖書に既に書かれている人間の生き方への補足説明にしかすぎないのだ (Robert Coles, Christinaity Today)。

私達の前には無数の生き方があり、私達には各々、それらの中から自分が望むものを選んで生きる自由があります。そして言うまでもなく、その生き方には多くの人間が関わっており、私達自身も人間です。人は真新しいことを望みますが、人間に関してはコール氏の言う通り、既にその基本となる人の心は聖書に記されていることなのです。この世の出来事や創作された人間のドラマは聖書の人間の姿に手を加えたものにすぎません。

去る日曜日はダビデの心から収穫を得ました。即日、生活に適応してお用いください。

2016年5月22日 礼拝プログラム 「落穂」より

マック

大切な発見

The『時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ』(マルコ1章15節)

米国の細菌学者であったロシア系ユダヤ人のジョナス・ソークはポリオのワクチンを発見した人として有名です(氏はラホヤにあるソーク研究所の創立者です)。しかし彼はそのワクチンを発明するまでに200回の実験に失敗しました。後に「200回もの失敗を繰り返していた時、あなたはどんな気持ちでしたか」という質問を氏は受け、こう答えました。

「私が200回の失敗をしたということは事実です。しかし私は両親から失敗という言葉を使わないように教えられました。私は失敗したのではなく、これではポリオワクチンができないという200の方法を発見したのです」。

去る日曜日の礼拝メッセージで私達はサウル王の過ちと失敗を見てまいりました。このサウル王の過ちと失敗をソークの観方で言い表すのならこうなるのでしょう。

「私が失敗した(過ちを犯した)ことにより、私は神の御心に叶っていないことをしていたということを発見しました」。

失敗や過ちは誰でも犯すものです。そして、その失敗と過ちが私達を神様のもとに導きます。「悔い改める」とはギリシア語で「メタノイア」と言い、その意味は「方向転換する」ということなのです。ですからこの発見をしたら神様に向かって方向を転換すればいいのです。どんな人の人生もイエス・キリストにあってやり直せます!

2016年5月15日 礼拝プログラム「落穂」より

マック

高所には要注意

king-david-on-balconyどちらも王様のおはなし。

一人はイスラエル二代目の王、ダビデ。彼は聖書において特筆すべき偉大な王でありました。しかし、そんな彼もいくつかの失敗を犯しました。

『春になって、王たちが戦いに出るに及んで、ダビデはヨアブおよび自分と共にいる家来たち、並びにイスラエルの全軍をつかわした。彼らはアンモンの人々を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。さて、ある日の夕暮、ダビデは床から起き出て、王の家の屋上を歩いていたが、屋上から、ひとりの女がからだを洗っているのを見た。その女は非常に美しかった』(サムエル記下11章1節‐2節)。

その後、彼はこの部下の妻をとり、彼女はダビデの子を身ごもり、ダビデは策略をもってその部下を戦場の最前線に送り戦死させました。

もう一人はバビロンのネブカデネザル。

『十二か月を経て後、王がバビロンの王宮の屋上を歩いていたとき、王は自ら言った、「この大いなるバビロンは、わたしの大いなる力をもって建てた王城であって、わが威光を輝かすものではないか」』(ダニエル4章29節ー30節)。

その後、神はネブカデネザルを獣のような様に変え、彼は地に落ちて生きるようになります。

この二人に共通していることは彼らはその時、王宮の屋上にいたということであり、また国は安泰であったということです。この二つの条件が重なり合い、自分よりも高いものが何もなく、全てのものが眼下にある状況で、彼らは勘違いしてしまったのです。「勘違い」と書きましたのは、私達の上には全ての主権者がいるということを見失ってしまったということです。

それでは私達の模範となるお方について。

『キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた』(ピリピ2章5節‐8節)

マック

追伸1:Pledge of Allegiance:I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.

 

 

 

アメリカ人への手紙

bible神の御旨により、この国に導かれ、その良きものを受け、そのことに対する感謝に満ちている者から、愛するわが第二の母国、アメリカ合衆国へ。わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

あなたがたの選ぶ大統領が聖書に手を置いて宣誓を行うことを私達は知っている。はたしてその意味は何なのか。単なる慣習としてなされるパフォーマンスなのか。聖書に手を置いて、あなたは「グレートネーション」となることを神に誓うのか。

はたしてあなたが手を置いている聖書には何が書かれているのか。聖書には「グレートネーション」と呼ばれた国々が滅亡していく様が記録されている。それも一つや二つじゃない。なぜ「グレートネーション」が滅びていったのか。一言で言おう、そう彼らは傲慢となった、だから滅んだのだ。私達も彼らと同じ道を歩むのか。

アメリカよ、アメリカよ、本当にグレートネーションになりたいのか。あなたは本当のグレートネーションとなり得る遺産をもっていると私は思う。でもそれは今、巷で言われているグレートネスではない。本当のグレートネスはあなたのもとにある聖書の中にあますところなく書かれている。

『神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある』 (ヤコブ4章6節)

 

親愛なるアメリカよ、思い違いをしてはいけない。

マック

 

 

男もつらいよ

man男は怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、きよい手をあげて祈ってほしい (1テモテ2:8)

かつてアメリカにリバイバル(信仰復興・霊的覚醒)が起きたことがありました。そのただ中にいました牧師、ジョナサン・エドワーズが約800人の男性が集う祈祷会に参加していたところ、そこにある女性から参加者宛に「自分の夫のために祈ってほしい」という手紙が届きました。その手紙には彼女の夫が妻に対して威張り、愛情を示さず、気難しくなっていると書かれていました。

エドワーズはその手紙を読んだ時、祈祷会にその男性が出席しているかもしれないと思い、大胆な祈りのリクエストをしました。そうです、エドワーズは800名の男性を前に、その手紙を読み上げ、もしここにその男性がいるのなら手を挙げてほしい、皆でその人のために祈るからと言ったのです。そうしますと300人もの男性が手をあげました・・・。

この度、訪日して書店で目にとまった書物をいくつか仕入れてきました。その中の一つに、まだ読んでいませんが『男という名の絶望‐病としての夫・父・息子』(幻冬舎新書)というタイトルの本があります。分かっているつもりでいながら自分のことはよく分かっていないもので、男であるということにはどんなことが伴うのだろうかということを知りたいと思い、また著者が奥田祥子さんという女性のジャーナリストであるということにも興味をおぼえました。

「男が変われば家庭が変わる、家庭が変われば世界が変わる」。そんな言葉を思いめぐらしています。

2016年5月1日 礼拝プログラムの「落穂」より

ルール

桜『わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている』 (ヨハネ 10:14)
『ドラゴン桜』という漫画があり、ドラマにもなりました。元暴走族の弁護士・桜木建二が経営破綻状態となった落ちこぼれ高校の運営問題を請け負うこととなり、経営を回復するために進学実績を上げようと5年後に東大合格者100人を出す計画を考案するというドラマです。なぜこの異色の教師が生徒たちに「東大に行け」というのかといいますと「東大卒の人達が日本の官僚となり、この国のルールを作っているからだ」と彼はいいます。少々、無理のある論理ですが、まったく間違っているわけでもないのかもしれません。
そんなことを思いめぐらしていました時に思わされたことは、確かにルールを一番よく知っているものが、その場をとりまとめることができるということです。裁判は法律をもとに繰り広げられますゆえに、その法律に詳しい弁護士というのが、一番頼りになることでしょう。
それでは私達の人生の法則は誰が知り尽くしているのでしょう。人間の心と体と魂について、人が生きるべき道について、そのルールを最初に作ったのは誰なのでしょうか。どんな電気機器にもマニュアルがついてきますが、あのマニュアルはその電気機器の製作に関わった人達が作ったに違いありません。そして、その人たちこそが、その機器の構造を誰よりもよく知っているはずです。
そう考えます時に私達に命を与えられたお方こそが私達の生きるべき道を知り、私達の法則を知り尽くしているということになりましょう。そうであるのなら、私達はこのお方の指示を仰ぎ、それに従うべきではないでしょうか。与えられている生を存分に生きるためには、そのことが不可欠に思えるのですが、いかがでしょうか。私達が聖書を開いて読む時に、私達はこの指針を得ているのです。
マック

「見えない」と言われてもね・・・

6843962268_c405e07a97_b25年も昔、ニューヨークのマンハッタンに初めて行きました。おのぼりさんのように地図を片手にお決まりの自由の女神に行き、ストリートでピザを食べ、一日だけのニューヨーカーを気取りました。そして締めくくりにエンパイアーステイトビルディングに向かいました。広いマンハッタン、地図を頼りにどうやらこの辺りかと思われる所まで来たのですが、とにかくビルが林立していて、どれがエンパイヤステイトなのか分からず(キングコングはいませんでした 笑)、道を歩く人に聞きました「Where is Empire State Building?」その人は怪訝そうに言いました。「Here! You are standing in front of that」

コスコに行きますとメンバーカードを見せなければなりません。その日もさっそうと財布からカードを抜き、刑事があのバッジを見せるように堂々とカードを見せてコスコに入りました。買い物をしてレジに向かい、いつものお決まりのように、またさっそうとレジの人にカードを見せました。いつもなら、すぐにカードをスキャンしてくれるのに、キャッシャーはカードを見ながら私に目配せしました。私が差し出したカードは実はトリプルAのカードだったのです。恥ずかしい告白になるが、このようなことを私は何度かしています。

私達は言います。「見えないものは信じられない」と。しかし、本当に信じられないのは、エンパイヤーステイトビルディングの前で、それを見過ごした私の目であり、コスコカードとトリプルAのカードを取り違える私の目のほうが信じられないのではないでしょうか。

「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」 (イエス・キリスト:ヨハネ20章29節)

マック

追伸:今、こうしてスクリーンに向かい、これを打っていますが、そのスクリーンと私の間の空間には無数の埃が漂っているはずです。それらを一切、見ることができない、そんな視力に限界がある者が「見えない、見えない」と言い張るのは、これまたおかしなことです。