まず人間を大切に!

時々、私達の人生がおかしくなることがあります。経済的には豊かになっているのに、自分の肩書きに敬意を表してくれる人の数は確実に増えているのに、何かしっくりいかない、いや、それどころか自分の心に不安や虚しさ、時には怒りが蓄積されていくことがあります。なぜでしょうか。

それは、私達が手にとることができる物、それはお金とか資産とか、もっと言えば自分の肩書きというものが、いつの間にか私達の家族や友人達よりも大切になってしまったということです。もっと整理していいますと、「命のない物が、命ある者よりも大切にされていく時」に、私達の生活はおかしなことになっていきます。でも、多くの人はそれに気がつかずに「なぜだろう、どうしてだろう」とその生活を続けます・・・。

マック

今日礼拝でお話したメッセージです。                     よかったらどうぞ↓    

マタイ22章34節‐40節                       34さて、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言いこめられたと聞いて、一緒に集まった。35そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、36「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。
37イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。38これがいちばん大切な、第一のいましめである。39第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。40これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。
先週は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」というところから神を第一とするということをお話しました。そしてCSルイスのこんな言葉をお分かちしました。

「もし、私がこの世で一番愛するものよりも神を愛するようになったら、この世で一番愛するものを今よりもっとよく愛せるようになるでしょう。この世で一番愛するものを愛するために神をおろそかにするようになるならば、かえってこの世で一番愛するものを全然愛していないという状態に進んでいってしまうのです。第一のものを第一にする時、第二のものは抑えつけられるのではなく、むしろ、さらに拡がっていくのです」

もし、私達が神を第一として生きていくなら、この世で一番愛したいと願っている人達を、今よりももっとよく愛せるようになるというのです。第一のものを第一とする時に、第二のものは抑えつけられるのではなく、むしろ、ひろがっていくというのです。

今日はその第二の優先事項としてキリストの言葉にあるように「人を愛する」ということを見ていきたいと願っています。よく、この第二というところを「家族」とすると聞くことがあります。すなわち神第一、そして次に家族ということです。その背後には、ここに記されている「隣人」すなわち、一番私達に近い隣の人とは私達の家族であるという事実があるのでしょう。しかし、家族だけではとても限定的となりますので、あえて今日、第二に優先すべきものとしてそれを「人」としました。そして、もちろん「人の中」では「家族」というものがまず第一にくることでしょう。

このキリストによって語られた言葉は3500年も前に書かれた旧約聖書レビ記19章18節の言葉から来ています。

あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。

このレビ記の19章全体には実は驚くべき事がたくさん書かれており、その中にこの「自分自身のようにあなたの隣人を愛しなさい」ということが書かれているのです。すなわち、この御言葉の前にはこんなことが書かれているのです。

穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない、落穂を拾い集めてはならない、ぶどうも摘み尽くすな、貧しい者や寄留者のために残しておかなければならない(9節-10節)。

13節「雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない」、

14節「耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない」。

この古い律法は私達に大切なことを教えています。何だと思いますか。それは「人を大切にする」ということです。すなわち、ここには穀物や賃金や物よりも人を大切にしなさいということが書かれているのです。これらの言葉を深く味わうなら、それは今日の福祉にも通じるものであることが分かります。3500年も前にこのような言葉が語られていたということは驚くべき事です。

時々、私達の人生がおかしくなることがあります。何か経済的には豊かになるのに、自分の肩書きに敬意を表してくれる人の数は確実に増えているのに、何かしっくりいかない、いや、それどころか自分の心に不安や虚しさ、時には怒りが蓄積されていくことがあります。なぜでしょうか。

それは、私達が手にとることができる物、それはお金とか資産とか、もっと広げていえば自分の肩書きというものが、いつの間にか私達の家族や友人達よりも大切になってしまったということです。もっと整理していいますと、「命のない物が、命ある者よりも大切にされていく時」に、私達の生活はおかしなことになっていきます。でも、多くの人はそれに気がつかずに「なぜだろう、どうしてだろう」とその生活を続けます。

イエスの弟子の中にイスカリオテのユダという人がいます。彼はおそらく12弟子の中で一番、頭が切れる人ではなかったかと思います。それゆにえ彼は弟子達の中で会計が任せられていました。計算がよくできたのです。物事を冷静に見つめ、分析して、そろばんをはじくことが出来たのです。

しかし、彼はその生涯最後に人類史の中で最悪の汚名がつきました。それはイエスを売り渡した男だということです。彼は銀30枚でイエスを売ったのです。彼は共に3年半を過ごしたキリストよりも手の中に収まる銀貨に重きを置きました。
彼は一時、その優先順位において銀の方がイエスよりも上にいったのです。その決断によって、彼は自らの命を絶ったのです。

私達はそんな彼を咎めることができるでしょうか。私達は誰かを売り、お金を手に入れたことなど決してないと思っているに違いありません。しかし、私達は「あれ」を「これ」を手に入れるために、「あれ」「これ」ではない「あの人、この人」を隅に追いやることがないでしょうか、追いやってこなかったでしょうか。「あれ」「これ」とは一言で言いますなら物です。その物が第一に来てあなたの家族、夫、妻、子供達、親兄弟、そして友を失っていないでしょうか。

確かに私達はその情熱と時間を注ぐことによって何か素敵な物を手に入れることができるかもしれない。しかし、それを手に入れることによって、愛する人を失ってしまったら、誰とその素敵な物を楽しむのですか。その素敵な物に頬ずりするのですか、それを抱きしめるのでしょうか。あなたがその物を抱きしめても、それらの物から私達は何の温もりも感じ取ることはできないのです。

皆さん、聖書がいうように神を第一として、そして、あなたの隣人を愛することを第二とする。その第一と第二の間に入る物はないということがお分かりでしょうか。

皆さんもよく知っているかと思うのですが、アルバート・シュバイツアーという人がいました。彼はフランス領のガボンという国の密林でその生涯をかけて医療活動に関わった医師です。彼は四つの博士号をもち、名門大学から一ダースにもなる名誉学士号を授与され、音楽、神学、哲学の分野において目まぐるしいはたらきをなし、1952年にはノーベル平和賞をとっています。

ある人は彼を20世紀の巨人だと言います。なぜ、巨人なのか、以前読んだ彼について書かれた著書の中の一節に目がとまりました。彼のガボンにある粗末な医療施設には世界中から見学者がたくさん来たといいます。ある日、彼の元に日毎にやってくる密林に住む現地の人達を見ていた訪問者から彼は聞かれたようです。「先生、今、世界中があなたの論文やあなたの意見を求めています。世界中があなたに希望を見出し、あなたから発信されるメッセージを待っているのです。でも、見ておりますとあなたの元には、病気でもないのに病気のふりをして訪ねてくるような、それこそあなたの手を煩わせているに過ぎない患者がたくさんいるようです。あなたは、そのような人達に向き合うよりももっと、世界が今か今かと待ちわびている研究に時間を注ぎ、それを発表なさった方がいいのではないですか?」。博士はその言葉に答えました。「私には、私の論文よりも、これらの人間の方が大切なのです」。

皆さんの中で今、取り組んでいることを世界中の人が待ち望んでいるというものがありますか。もしかしたら私はノーベル賞がとれるかもしれませんという人いますか?私が知る限り、いないと思います。しかし、シュバイツアー博士の場合、彼の書く論文を世界中が待っていたのです。しかし、彼はそれらのペーパーよりも自分の目の前にやってきては、自分の手を煩わせる人を何よりも優先したというのです。人が彼を20世紀の巨人と呼ぶ理由はこんなところにあるのではないでしょうか。

ホームレスの方々が時々、教会を訪ねてきます。そして、どなたもだいたい言う事は同じなのです。あそこに行かなければならないが、お金がない。必ず返しにくる。いつもこのような方々と向き合っていれば、自ずと彼らが言う事は分かってきますし、悲しいかなそのほとんどは本当の話ではないことも経験から分かります。残念なのですが約束を裏切られたことは何度もあります。私にはシュバイツアーのように期待できる論文とか賞はありませんが、日曜日毎にこのメッセージを聞きにこられる方達がいる、あの準備、この準備とすべきことは常にある。そんな時、どうしてもそれらのものが人間以上のものとなってしまうのです。

もちろん、全てが杓子定規でいくわけでもない。時には人との接触を断って向き合わなければならないことがあります。人の「弱さ」と「わがまま」というものを、はっきりと区別しなければなりません。全てに「イエス」という必要はありません。しかし、私達はこの優先順位を心に刻む必要があります。

先日、チャーチ・キャンプにこられたコーリー石田牧師が数年前、牧師達に向けて話をしてくれました。そこで、プライオリティー(優先順位)について話してくれました。先生はアジア人がたくさん集まる教会の主任牧師をしている。その仕事で要求される事の多さは容易に想像できる。石田先生はよく自宅で礼拝メッセージの準備をするそうですが、いつもその部屋のドアは開けておくというのです。そして、孫がその部屋に入ってきたら、ペンを置いて彼らと向き合うというのです。でも、やはり先生にも時間は24時間しかない。どうするのか。一言、シンプルに言いました「その分、自分が早く起きればいいのです」。

世の中ではどれだけの顧客に商品を売ったかということが賞賛されます。しかし、どれだけのダイパーを交換したかという数字は出てこないのです。営業のために大きな会社を訪ねることが社内のグラフに表されることはあります。しかし、自分の子供や孫と遊んだり、話しを聞いてあげたりすることはグラフにあらわされません。私達の仕事の代わりをしてくれる人はいるでしょう。しかし、誰も私達の代わりに父、母、夫、妻、息子、娘にはなれないのです。
私達にはそれぞれ人生設計があります。そして、与えられた一度の人生であるならば、本当にそれを充実したものでありたいと願っている事でしょう。誰もそれを無意味なものとしたくはないはずです。しかし、多くの私達にはその方法が分からないのです。私達はどうしたらいいのでしょうか。
今日、開かれている聖書の言葉の40節に「これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」と書かれていますが、ここに記されている「かかっている」という言葉は、新約聖書の原語であるギリシア語で見てみますと、十字架に「掛けられる」という言葉と同じ言葉だということが分かるのです(使徒行伝5章30節、10章39節)。

すなわち、イエスの十字架こそが律法全体と預言者の言葉の全てを言い表しているもので、イエスはこの二つの戒めを実現するために十字架への道を歩まれたのです。すなわち、イエスはその命をかけて父なる神に従って十字架にかかることによって神を第一とすることを示し、その十字架にかかられることによって、私達に対する愛というものを完全に示されたのです。実にこの十字架こそが最も大切な戒めを表しているものなのです。もっと言いますと、この十字架によって、「神を愛する」ことと「人を愛すること」は二つにして一つだということが分かるのです。

Ⅰヨハネ4章20節-21節にこう記されているとおりです「「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている」

キリストが命をかけたように、私達も神を第一に、そして人を第二にして生きていくということは、時に十字架を背負うことも意味します。人を愛するということにはほぼ確実に犠牲が伴うからです。しかし、私達がこの二つの優先順位に従っていくならば、私達は自分の人生を見失ったり、後になって「あの時、この時」と後悔することはないでしょう。
雑誌に書かれているトレンドとか、有名な俳優が言った一言とかが、しばらくの間、人々の生き方の指針となったりすることがあります。しかし、それは時が来れば変わるのです。私達の優先順位は流行によって変わるものではなく、もっと恒久的かつ普遍なものであるべきです。ですから私達は聖書が数千年来、私達人間に語りかけているように、まず神を愛して、それゆえに私達の隣人を愛するのです。そして、そのような人はどんな人なのかということがヨハネ第一の手紙5章1節から5節に書かれているのです。
1すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。2神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。
3神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。4なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。5世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。
皆さん、人生設計の修正、変更は可能です。シャツのボタンをしめる時に、その最初をずらしてつければ、全てがテンデバラバラになってしまうように、私達も何をまず優先すべきかということを知らなければなりません。もしかしたら、この聖書の真理を知らずに、自分なりにやってきたけど、どうも混乱している、もっといいますと、ちょっと滅茶苦茶になってしまっているという方がいますなら、
もう一度、そのボタンを外して、神第一、人(家族)第二と優先順位をしっかりと心に刻んでボタンをつけ始めることをお勧めします。

「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」そして「隣人を自分のように愛しなさい」。この神の言葉に従って生きること、そこに私達の生涯の勝利の秘訣があるのです。

お祈りしましょう。

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