祈りがきかれない時

ブライダル・サービスの窓口にて、「結婚式を挙げたいのです」と申込書と代金全額を支払うカップルに、担当者が「今が本当に最もいい時なのですか」とは尋ねません。

しかし、そのカップルの父親なら「ここぞ」という時には、その思いを打ち明けます。父は我が子に幸せになってほしいからです。

マック

今日、礼拝でお話したメッセージです。                      よかったらどうぞ↓

祈りがきかれない時

マタイによる福音書6章9節-10節

2008年12月14日

天にいます我らの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。み心が天に行われるとおり、地にも行われますように。

先週は「いつも喜んでいなさい」ということをお話しました。今日は「絶えず祈りなさい」ということです。皆さんは最近、何について祈っているでしょうか。何ヶ月も何年も祈っている課題があるでしょうか。それらの祈りはきかれているでしょうか。私達が祈りの中で神様に願うことについて、聖書はこのような約束をしています。

「求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」(マタイ7章7,8節)。

この聖書の言葉を握り締めて日々、私達は祈ります。そして、このみ言葉の約束の通り、私達は確かに「見いだし、あけられた」という経験を何度もしているはずです。しかし、時に、そのように思えないこともあるのです。

ある方は、我が子を願っている学校に入学することを祈っているかもしれません。しかし、その願っている学校に行く事はできずに、その子が全く願っていないような方向に歩み出すなんてことが人生にはあります。ある方は、病気の家族が癒されることを、祈っているかもしれません。しかし、その家族の病が一向によくならないばかりか、他の病気が見つかったということを聞くこともあるのです。

いったいマタイ七章のキリストの言葉はどうなってしまったのでしょうか。絶えず祈っても、その自分の願いがきかれない時があるということは、どういうことなのでしょうか。皆さんは、そのような時に「その祈り」というものをどのように受け止めていますか。私達日本人は「本音と建前」に生きる傾向がありますが、今日は建前ではなく、本音の部分からこの祈りについて見ていきたく願っています。祈りがきかれないということ、そのことに対して、「主の祈り」からいくつかのことを見ていきましょう。まず最初に「誰に祈っているのか」ということを確認しましょう。

誰に祈っているのですか?

「天にまします我らの父よ」

イエス・キリストの弟子達が「どのように祈ったらいいのですか」と訪ねた時に、イエスは彼らに「主の祈り」を教えました。その主の祈りはどんな言葉で始まるかご存知ですか。それは、一つの投げかけの言葉で始まります。すなわち「天にまします我らの父よ」という言葉で、この主の祈りは始まっているのです。そして、この最初の言葉はとても大切なことを言っています。

すなわち、私達は「なんでも屋さん」に向かって、祈っているのではないということです。ホテルのコンシェルジェに頼んでいるのでもありません。これらの人達にとって、私達は顧客なのです。代価を支払うことによって彼らは何でもしてくれるのです。例えば、私達がホテルのコンシェルジュに「この町で最高にゴージャスなレストランにディナーの予約を入れておいてくれ」とチップを渡して頼めば、そのコンシェルジュは、私達に「なぜですか?」とは聞きません。「承知しました」とその願いをきいてくれるでしょう。

しかし、私達が今、祈りを捧げようとしている方というのは「父なる神様」なのです。このお方と私達の関係というのは、雇用関係や顧客関係で結ばれているのではなく「父と子」のそれなのです。すなわち、この父は「なぜ?」と私達の願いや問いに反応するお方なのです。なぜなら、父はその子のためには最善を尽くそうと願っているからです。今朝、心に刻みましょう。私達はこの父に私達の祈りを捧げているのです。

この「天にまします我らの父よ」に続く、主の祈りの最初の三つは、父なる神に対する私達の関係というものを現しています。そこで私達はこれらから父なる神は私達の祈りに対して、どのように応答なさるかということについてみていきましょう。まず、私達の祈りに対する、最初の父なる神の反応です。それは「いいえ、私はあなたを愛しています」というものです。

いいえ、私はあなたを愛しています

「御名が崇められますように」

「天にますます我らの父よ」という言葉の後に、この主の祈りは「御名が崇められますように」という言葉が続きます。すなわち、私達がいつもどんな時にも、あなたを崇めることができるようにということです。そして、神こそが私達の父であるならば、その御名が崇められるということは、その子である私達にとって、それ以上の幸いはないのです。

しかし、時に、そのことを私達が気がついていようと、いまいと、私達の祈りと願いが、父なる神を崇めることができないような願いであることがあります。そのような時に、神様は私達の祈りに対して「いいえ、私はあなたを愛していますから、その祈りには応えません」と私達の祈りをきかないのです。

皆さん、私達はこの父なる神様は人間の父親とは違うということを確認しましょう。人の父親なら騙すことができるのです。参考書を買うと言って、そのお金で子供は他のものも買えるのです。でも、父なる神様は私達の動機までも知られるお方です。ですから、私達の願いによって主の御名が崇められるであろうか、神に願うのであるならば、その自分の願いによって神様の聖さが汚されることはないだろうかと、そのことを私達はチェックする必要があります。

先日、息子がインターネットにある某大手オークションサイトにて、世界中のマニアから出品されているおもちゃのレゴを夢中なって見ていました。彼がコンピューター画面を変える度に、彼の目の前には魅力的な、おびただしい数の品々があらわれていきます。彼はそれらを眺めているうちに、すっかり心を奪われてしまったらしく、寝ても覚めても、そのレゴのことを考え、口にするようになりました。

私はそんな彼を見ていて、もはや「彼がネットを操っているのではなく、ネットの中のレゴが彼を支配している状態」を認め、即、オークションサイトを見てはいけないと彼に言いました。彼の心が完全に捕らわれており、色々な欲望が彼のうちから湧き出てきて、もっと大切なことがないがしろにされる可能性を感じたのです。

彼の願いは続けていつまでもそのオークションサイトを見ていたかったかもしれません。私は神様ではないですから、彼のその行動によって、自分に汚名がつくなどとは考えません。しかし、私は父親として、そのサイトをこれ以上見てはいけないと判断したのです。

私達が愛する者と関わりをもつ時に、その応答はいつも「イエス」ではありません。「ノー」の時もあります。そして、そのノーには原因があるのです。もし、それが神を崇めるものでないなら、そして、ひいてはそれは子なる私達にとって、良くないものであるゆえに、父なる神様は私達にノーという応答をなされることがあります。

二つ目のこと、それは「分かった、でも待ってごらん」という応答です。

分かった、でも待ってごらん

「御国がきますように」

こう祈るべきと教えられた言葉として、イエスは続いて「御国がきますように」と祈りなさいと言われました。この一言の言葉には聖書を貫くとても大切な意味がこめられています。すなわち、御国、すなわち神の国というものがルカ17章21節に「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」とあるように、既に私達のもとにあるものであると同時に、ペテロ第二の手紙3章12節、13節に「極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる」とあるように、やがて完成されたものとしてくると書かれているのです。

そして、この主の祈りの「御国がきますように」という言葉も、文字通りやがてそれが来るようにという言葉なのです。そして、その日ということに対して、Ⅱペテロ3章10節が「主の日は盗人のように襲って来る」と記しているように、「その時」というものは父なる神以外、人には分からないのです。

すなわち、この「御国がきますように」という祈りの中には、私達はその御国がいつくるのかは分かりませんが、あなたが最もよいと思われる時に、そのあなたの支配する御国がきますようにという祈りがこめられているのです。

数週間前の礼拝でも開きましたが、伝道の書などを見ますと、そこには全てのことには時があると書かれています。そして、その時というものを神様が握っておられるということを私達は信じるのです。

旧約聖書の最後に記されているマラキ書から新約聖書のマタイ伝の間には400年の年月があったといいます。400年と私達は一言で言えますが、その期間というものはなんと長いことでしょうか。人の世代が4代も5代も形成される長さです。その長い間について、聖書は沈黙を保っています。そこでは様々なことが起きたでしょう。それらの400年を経て、記された新約聖書の福音書などを見ますと、それまでの時代を「暗闇」とか「暗黒」という言葉で記していますから、人間的な醜悪がその間にははびこっていたのでしょう。そのような中で人々はメシア(救い主)を求めるようになっていったのです。

そのような年月を経て、新約聖書はキリストの誕生に対して「時が満ちた」(マルコ1章15節)と記しているのです。この満ちるという言葉は、「後にも先にもその時以外ない」という時のことであり、その時の前後が少しでもずれると最善のものとはならないという時のことです。そして、「いつ」をその時とするかということは、全て父なる神様の御手にあるのです。それゆえ、この時を支配しておられる神様は私達の祈りについても時に、こう言われることがあるのです「あなたの祈りは分かった。でも、もう少し待ってごらん」。

私達が願っていることは間違っていない。しかし、その時ではない。子供が運転をしたいと願うことは間違っていない。きっと彼、彼女にとって大きな助けとなるだろう。しかし、今ではない。免許が取れる年齢に近づく時に、親は「その時」ということに対して悩むのではないでしょうか。結婚にしてもそうです。「結婚することは間違っていない」しかし、今が、その時なのか。

繰り返し申し上げますが、ブライダル・サービスの窓口に「結婚式を挙げたいのです」と申込書と代金全額を支払うカップルに、担当者が「あなたたちにとって、今が本当に最もいい時なのですか」とはいいません。しかし、その両カップルの父親なら「ここぞ」という時には、その思いを打ち明けます。父は我が子に幸せになってほしいからです。

イエスの友、ラザロが病気だという知らせをイエスが受けた時、そこに居合わせた人達は「今すぐイエスは彼のもとに行った方がよかろう」と思いました。しかし、イエスは、その時を行く時とはせず、皆が「もう、遅すぎる」と思った時に、ラザロのもとにいかれたのです。そして、それによってイエスは父なる神の栄光をあらわしました。

それ以外にもキリストは常に「時」というものを意識して生きました。あのカナこ婚礼の時にイエスは母マリアに言いました「わたしの時は、まだきていません」(ヨハネ2章4節)。エルサレムにおいてイエスを捕えようとした人達がいました。しかし、誰一人イエスに手をかける者がいませんでした。ヨハネはその理由を「イエスの時が、まだきていなかったからである」と言っています(ヨハネ7章30節)。いよいよイエスが捕えらて十字架にかかる直前になりイエスは言われました「人の子が栄光を受ける時がきた」(ヨハネ12章23節)。

イエスの誕生は時が熟して起り、イエスの十字架は時がきて、起ったのです。その時は全て父なる神の御手にあります。そして、その時というのは、父なる神が見て、最善の時なのです。

ある方と話している時に、その方は興味深いことを言いました「私達がマイクロウェーブで食品を温める時に、その時間の終わりを告げるブザーがなる五秒前にドアを開けてしまう人が多い」。その時は笑っていましたが、この間、マイクロウェーブを使っていたら、私もやっていました。思わず我にかえりました。私達はその時というものを自分で支配しようとします。その時が来なければ、自分でこじあけようとします。しかし、この朝、確認しましょう。父なる神様は「分かった、でも待ってごらん」と語りかけていることを。

様々な必要を願う者達に対してキリストは言われました。「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存知である。ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」ルカ12章29節-32節

父の私達に対する心内は分かっています。御国をくださることは、私達の父のみ心なのです。私達はこの父を信頼して「その時」も父なる神に委ねるのです。最後のこと、それは「いいえ、さらに良いことがあるから」ということです。

いいえ、さらに良いことがあるから

「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」

イエス様は父なる神と人間の関係において、引き続いてこう祈るように教えられました「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」。

その願い自体は間違っていないし、神の前に良きものにも見える。しかし、それが神の前にベストではなく、父なる神様はもっと最善なる天のみこころを、この地に生きる私達に備えてくださる時に、神様は「いいえ、さらによいことがあるから」と私達に語りかけます。

シアトルにシーホークスというプロ・フットボールチームがあります。そこに、そのチームで絶大な人気があった重戦車と呼ばれたシャーマン・スミス(Sherman Smith)というランニングバックがいました。ある日、彼は突然、自分の意志に反してサンディエゴ・チャージャーズにトレードされるのです。一夜にして彼の環境は変わり、彼はチャージャーズですぐにかかとの怪我をしてしまい、数週間しかチャージャーズではプレイできませんでした。どんなにか苦悶の日々を過ごしたことか、想像できます。

彼は熱心なクリスチャンだったので、苦しいリハビリテーションをしながら、なぜ主が願っていなかった、このサンディエゴに送ったのか、ましてやなぜ、新地で早々に怪我をしてしまったのかと祈ったというのです。

そんな祈りとリハビリを繰り返して、かかとが治りかかってきた1984年、シャーマンは皆から、パーティ男と呼ばれ、薬物に溺れていたチャージャーズの1人のチームメートをイエス・キリストのもとへと導きました。このパーティー男の名前はマイルス・マクパーソン(Miles McPherson)といい、彼は今、サンディエゴにある私達も知っているあのRock Churchの主任牧師で、毎週集まってくる数千人もの若者達に福音を伝えており、その働きは世界にまでおよんでいます。

なぜ、シャーマンは願ってもいなかったのに、怪我をするためにかのようにサンディエゴにトレードされたのでしょうか。お分かりですね。

イザヤ55章8節-13節の驚くべき主の約束を読みましょう。

わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、 あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。

天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者に糧を与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶことをなし、わたしが命じ送った事を果たす。

あなたがは喜びをもって出てきて、安らかに導かれていく。山と丘とはあなたの前に声を放って喜び歌い、野にある木はみな手を打つ。いとすぎは、いばらに代わって生え、ミルトスの木は、おどろに代わって生える。これは主の記念となり、また、とこしえのしるしとなって、絶えることはない」(イザヤ55章8節-13節)

父なる神様の思いは、シャーマン選手のものより高かったのです。それはシャーマン選手の思い描く道とは異なっていたのです。シャーマン選手は一時、その思いや道が自分の願うものではなかったゆえに、思い悩んだに違いないのです。しかし、彼の道はこのイザヤ書の最後に書かれているように「いとすぎが、いばらに代わって生え、ミルトスの木が、おどろに代わって生える」というように導かれていったのです。

ミルトスとは、香りよき花を咲かせる青々とした木です。いとすぎも香りよく、あのノアの箱舟を造るために用いられた木です。どちらも当時の人にとって、望ましい木々でした。反対にその名前からして「おどろおどろしい」のですが、おどろとは茨の種類で、それらは棘があり、決して喜ばしいものではありません。

父なる神の思いと道が成る時、茨がこれらの木々と変わるというのです。茨の道と思われていたものが、青々とした木々、そこから花咲く道と変わるというのです。そして、このことは主の記念となり、とこしえのしるしとなるというのです。

シャーマン選手の移籍は、マイルス牧師を生み出すものとなり、マイルス牧師のはたらきが若者達の間で強くなされているのです。シャーマン選手がプロフットボール選手として残した成績を細かくいつまでも覚えている人は、おそらくあまりいないでしょう。しかし、彼がリハビリ中にサンディエゴでマイルス選手になした事は、主の記念となり、とこしえのしるしとなっているのです。

今日は何度も繰り返し、申し上げます。私達が祈っているお方は私達の「父なる神」です。へブルの記者は書きました。

肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。へブル12章10節-11節

もし、私達が祈っているにもかかわらず、願ってもない方向に導かれるようなことがあるならば、私達はそこで自暴自棄や疑心暗鬼になってはいけません。結論は早急に出すべきではありません。その時に、神様は私達にさらに優ったものを備えていてくださるに違いありません。思いもしなかった実を、神様は私達を通して実らせてくださるに違いありません。

だから、今日も明日も私達はこの父なる神に絶えず祈るのです。このような意味において、聖書が約束しているように、私達は探せば必ず見出すのです。門を叩けば必ずあけられるのです。このお方は私達を愛し、本当に私達に必要なものを、本当に必要な時に与えてくださいます。それは私達の想像を超えた、私達が思い描く以上のものなのです。お祈りしましょう。

2 thoughts on “祈りがきかれない時

    • メッセージを聞いて(読んで)いただき、ありがとうございました!これからもよろしくお願いします。

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