神の作品として

▶︎ 命の水の泉から

月曜日の朝出勤すると、机の上に大きな二つの花瓶がおいてあった。翌日行われる新社屋の開所式に際し、私に花を生けるようにとの会社からの仰せだという。それは嬉しいことだ。私は毎週この二年、ボランティアで会社のロビーの花を生け続けてきた。

それを認められたのだろう。英語でいえば、“I am very pleased to do that”なのだが、この花瓶はパーティー用でとても大きい。こんな大作ができるだろうかとふと不安もよぎる。そんなとき「恐れるな、私はあなたと共にいる。驚くな。私はあなたの神である。私はあなたを強め、あなたを助け、私の勝利の右の手であなたを支える」と、その週の暗誦聖句が響く。

予算は120ドルだというから、かなり高価な花が使えるではないか。いつもはファーマーズマーケットで購入するがあいにく、翌日まででは、ファーマーズマーケットを開いている所はない。いつもの習性で私の足はSafewayとTrader Joe’sへ。

幸い、フィリピン人のフラワーアレンジメントを勉強した同僚が助手をしてくれるという。二人で相談して、ひとつの透明な花瓶には秋の色の花を、ブルーの花瓶には紫とピンク系の花を生けることに決めた。そのベースとする花々はこの二個所で束になっているのを安価に入手することにして、間に入れる豪華な花を仕入れに、近くの花やさんに行った。

ひなびたようにみえた店だが、オーケードやストック、バラ、グラジオラスなど、豪華な花がおいてあり、それを翌朝、買うことにした。また、枝物としては我が家の藤の蔓を使うことにした。その日にベースにする、黄色とピンク系の花束を仕入れ、花瓶入れてみたら、かなり貧弱だ。丈がたりない。恐れがよぎる。祈って翌日を待った。

翌朝、花やさんに行くと、私が決めていた、オレンジ色のカーラーリリーが一輪しか残っていない。ふと見ると、すばらし、フラワーアレンジメントが届けられるばかりになってカウンターに置いてあり、そこに私が目をつけていたカーラーリリーが二輪使われているではないか。カーラーリリーはあきらめたが、その作品を見て、中に使われている、名もしらない、豪華な花を買ってみた。

会社に帰って生けてみると、先ほど最後に買った大きな花が生きてなんとすてきなこと。家の藤の蔦の枝が空間と調和している。お花の先生の言葉を思いだす。

「花はそのままできれいなのです。敢えてその美しい花をなぜ切るかというと、違う世界、空間を使った違う美の世界を創りだすためなのです」

私達自身のことを思う。生まれたままの状態から、いらない所を切られたり、いろいろな経験を経てそれらとからみあい、和合しながら、美しい神の作品としての自分が創りだされていくのだろう。多くの試練や体験を通して、天国が近くなっていくのだ。

竹下弘美


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