枯れ木に花咲く(残された古木の謎)

▶︎ 主を思う・・


<残された古木>


どういう訳か私は、景色にあまり興味がありません。今はよくなりましたが、若いころは、いつも下をむいて歩いていました。歩くということは、あるところからあるところに移動することぐらいにしか考えていませんでした。
だから、旅行するというのもあまり関心がないのです。そんな私と対照的に、妻は、景色の移り変わり、空の色、街並み、人々の様子にいつも感動するのです。だから、こんな者と結婚した妻ほどかわいそうな人はいません。
そんな私がこの木を見て、立ち止まったのです。なのに、妻は見向きもしないで先に歩いていきました。
この木を見て。私は、“枯れ木に花咲く”という言葉を思い起こしました。次に、なぜ、家主は根元まで切らなかったのだろうか?と思いました。普通、木に問題があれば、根元まで、否、根っこを抜くか、粉々に粉砕します。
なのに、前庭の真ん中に途中で切られた木が残されていました。その太さからすると樹齢30年ぐらいでしょうか?(植物の知識皆無なのですが)
切った理由は?どんな問題があったのか?嵐で木の上部が損傷したのか?
あれは、なんという木だったでしょうか、秋になるとその枝が全部ばっさり切り捨てられ、春になると、その切り口から新しい枝が生え、青々とした葉がしげります。でも、この木は、そういう種類の木ではないんです。毎年、太く高くなってゆく木です。

<エッサイの切り株から新芽が生える>


「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」という言葉が旧約聖書のイザヤ書の中にあります。途中で切られたこの木は、根株ではないのですが、私にこのみ言葉を思いださせたのです。
エッサイとは、(神さまを愛した)ダビデ王の父の名前で、ダビデは、エッサイの末の子(8番目)でした。後にイスラエルの2番目の王になるのですが、救い主は、このダビデの末から生まれるという預言がなされています。
切り株は、死を意味していると私は思います。その生を終えたエッサイの木株から芽が生えてくる。
その新芽は、私たちに“希望”を示すものですが、でも、生から死―死から生―生から死、と繰り返されるものという、仏教的な輪廻にたどりつくと、あのハツカネズミがクルクル回す輪っかのように、終わりが見えなくなります。そして、それは、見ているだけでも、疲れを覚えさせます。
そんな私たちに、イエスさまは、平安を与えてくださいました。休息です。元気に働いて、家に帰ったら休みます。神さまは、私たちの疲れた体に心に休息を与え、明日のための力を与えてくださいます。

「主(神)が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主(神)が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主(神)はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。」(口語訳、詩編127:1,2)

主(神さま)のもとで、安心して休み明日に備えられる人は幸いです。
ロバート・イー




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Posted by SANBI.us