イチジクの樹のたとえ話:それでも、ダメでしたら切り倒してください

▶︎ 主を思う・・

聖書には、イチジク(無花果)の話が多く出てきます。聖書の創世記に出てくる最初の果物の名前がイチジクで、人類の祖、アダムとイブが罪を犯した時にイチジクの葉で身を隠したとあります。

ルカの福音書13章の6節から9節にかけて、イエスさまは、イチジクのたとえ話をされました。そこには、実がならないイチジクの樹について主人と園丁との話し合いが書かれています。

「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。すると園丁は答えて言った、『ご主人様、今年も、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」

このイチジクは、(選民)イスラエル民族をさしていると言われます。そして、イエスさまがこういう譬えを語られる時は、(神さまを敬う)ユダヤ人を指していることが多いのです。

特に、律法を遵守していると自負していたパリサイ派の人々や律法学者たちに向けて語られたものといいます。つまり、律法のうわべにこだわって中身に乏しい人たちに向かって語られた言葉でした。

この言葉を現代の私たちの教会に当てはめて考えるならば、クリスチャンに、特に教会の指導者たちに向かって語られたということになるのです。私も教会の端で奉仕をさせていただいている者ですから、私も後ろの方でイエスさまのこの話を聞いているわけです。

“3年待っても実がならない”という木は、この私のことです。3年という“3”は聖書では、「完全数」といわれ、しばしば“何年も”“何十年も”“ずっと”という意味が含まれていますので、たとえば、私は47年も前からクリスチャンなのですから、『わたしは47年も実を求めてこの木のところにやってきているのだが、なかなか実を結ばない。

もうあきらめて切り倒しなさい』と神さまから言われたように読めます。そうすると、園丁が執(と)り成(な)しして『私がもう少しまめに水をやり、肥料をやりますから、もう一年待って下さい』と言った。

ヤコブ書には、<信仰のみ>というパウロの手紙に反して、<信仰だけではダメだ>ということが書かれています。「信仰は、行動がともなってこそ“信仰”なのだ」と書かれています。それなに、この私は、なかなか実(身)になっていかないのです。

イチジクの樹は植えて2~3年で実をみのらせるそうです。そうすると、私の場合、実をみのらせてもいい時期をすぎて、更に44年もの間、毎年々々園丁が執り成してくれたということになります。来年もまた同じやりとりが行われるのかも知れません。そして、切り倒されるべきものが残されてきた。

もし、「実がなる」という言葉を、神さまの子供としてふさわしい品性を身に着けることと理解したなら、教会の歴史の中で、あなたは、どなたを推薦されるでしょうか?ビリー・グラハム?チャック・スミス? 否、私には、名もないクリスチャンで、尊敬する方々が多くいます。

彼ら生活基準は、ただただ、主イエスさまでした。彼らは、完璧ではなかったけど、真摯に神さまを求め、イエスに倣う方たちでした。そういう方々を神さまは、愛されるのだと思います。

このみ言葉には、神さまの忍耐が書かれていると言われます。それは、その通りですが、神学的には、神の裁きと許しが書かれていると言えます。そして、神さまは、そんな(不完全な)私たちを愛された。そこに神の愛の特異性があるのではないでしょうか。

ロバート・イー


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Posted by SANBI.us