聖書の言葉(聖霊の働き)、我らが心を洗い清めます。

09/17/2020▶︎ 主を思う・・

<聖書の言葉に聴く>

日本 FEBC(*)の吉崎恵子さんに初めて会ったのは、昨年の10月でした。北加の友の紹介で吉崎さんか らインタビューを受ける羽目になったのです。短い滞在でしたが楽しい交わりをすることが出来、彼女の「詩編朗読」のCDを頂きました。

このCDが素晴らしかったのです。詩篇150篇のうち24篇しか収録されていませんが、聴く度に心が洗 われる思いをします。

(*)FEBC(正式名称:Fae East Broadcasting Company)は、世界各国でキリスト教に関連した放送をす る団体で、スローガンは「信仰は聞くことから始まる」(ロマ書 10 章 17 節)です。FEBC の website は、 www.febcjp.com です。是非、クリックしてみてください。

吉崎さんの朗読は、神さまが特別に与えてくださった賜物(God given talent)です。あれは、訓練で出来る 業ではないのです。それが、こういう形で用いられているのは、本当に感謝です。

聖書の言葉は、神さまから託された言葉です。まだ信仰を得ていない方々には、わからないかもしれません が、私たちの魂に響く言葉なのです。それは霊の言葉ですし、その言葉を私たちは、私たちの霊で受け取る のです。

<イエスさまは、会堂で教えられた>

『それから、彼らはカペナウムに行った。そして安息日にすぐ、イエスは会堂にはいって教えられた。人々 は、その教に驚いた。律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。』 (マルコによる福音書1章 21,22 節)

当時の会堂(シナゴーク)では、日課の旧約聖書の箇所が読まれ、ラビ(教師)がその解説や勧めをしたそ うですが、お客さまが来ると、聖書の朗読の後に、お話をするように勧められるのだそうです。

使徒パウロ も町々のシナゴークでイエスさまのことを伝えました。そして、議論になったりしたのです。

当時は、字が読める人が少なかったわけで、福音の伝達は(文書ではなく)主に“話し言葉”でした。使徒の 手紙などは、集会で読まれたものです。

私たちの言葉は、単に、コミュニケーション(意思疎通)だけではなく、その言葉に感動したり、傷ついた り、涙することもあります。

聖書の言葉は、神さまから託された言葉です。その言葉は私たちが耳で聞く言葉でした。心で受けとめる言 葉です。私たちがよくやる、聖書研究という頭の体操ではないのです。

だいたい、“み言葉を理解する”とい うと論理的な解釈を意味します。が、それは本来み言葉を受け取ってからなされるべきもので、“先ずは、理 解してから受け入れる”という姿勢では、神さまからのみ言葉の本質を見失うのです。

だいたい、私たちは、どのくらいみ言葉を理解しているのでしょうか。聖書には、私たち人間の合理的理解 を超えるものが含まれているのです。

榎本保朗先生が「み言葉に聴く」といったのは、“聴く”=“受け入れる”ということです。“音”としての言葉は、 受け入れなければ消えてしまうのです。

聖書という本の文字は、消えませんが、音で表された言葉は、受けとらなければ、消えてなくなります。聴いて心にとどまったことだけが、その人の中に残るのです。

<シェマー イスラエルよ>

“シェマー イスラエル”(שמע, ישראל) という言葉、“イスラエルよ聞きなさい!”という言葉 は、ユダヤ人にとっては、とても身近な言葉です。 子供たちの唱歌にもなっているフレーズで、それは申命記に書かれた言葉です。

イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の 主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、 力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない 。』( 申 命 記 6 章 4 , 5 節 )

イエスさまを試みて(聖書をどのくらい知ってい る か 試 し て )「 聖書のなかで何 が 一 番重要な戒めですか」と訊きました。その時、イエスさまが引用された箇所がここでした。

この「 シ ェ マ ー イ ス ラ エ ル 」(שמע, ישראל) という言葉は、ユダヤの人々に語られた神さまの 言葉ですが、今では、私たち異邦人にも呼びかけ られている言葉になりました。

『このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。』(第一コリント13章13節

ロバート・イー


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09/17/2020▶︎ 主を思う・・

Posted by SANBI.us