芥川龍之介が「蜘蛛の糸」を書いた意図は何だろうか?

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<芥川龍之介の「蜘蛛の糸」>

芥川龍之介が書いた「蜘蛛の糸」を知らない人は、少ないと思いますが、あらすじは次のようです。

地獄で苦しんでいた犍陀多(かんだた)という悪党にも一つだけ善行をしたことがありました。それは、地面を這っていた蜘蛛を踏み潰すのを思いとどまったということです。それで、お釈迦さまは、極楽から蜘蛛の糸をたらしてやり、犍陀多は、その糸にすがりついて極楽に上って行きました。ところがふと下を見ると、自分の後から沢山の人が登って来るのです。犍陀多は、それでなくとも切れそうな蜘蛛の糸ですから、みんながぶらさがったら、切れてしまうと思い、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚きました。と、その途端に、今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に犍陀多のぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて切れ、あっという間にくるくるまわりながら、みるみるうち中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。

・・・という話です。

そして、これは、「無慈悲であってはなりません」という戒めとして使われています。

<お釈迦さまってどんな人?>

ある日、この話についてグーグルしていたら、ある人が、芥川竜之介のこの「蜘蛛の糸」についての質問を見つけました。“お釈迦さまは、本当にカンダタ(犍陀多)を助けるつもりがあったのだろうか”という質問です。なかなか面白い、鋭い質問だと思いました。

それで、もう一度、久しぶりに原文をよんだのですが、(確かに)そこに描かれているお釈迦さまにはあまり同情心というか慈悲深い姿ではないのです。あたかも、“しょうがないな~”“まあ、そんなものだろうと思った”というような態度なのです。

その質問にたいして、いろいろな人が返事をしているのですが、「これは芥川の創作だから、たまたまそんな描き方をしたと思えばいい」という人もいましたが、ベストアンサーに選ばれた(質問者が選んだ)のは、『釈迦はカンダタや他の物どもを救済せず、自分だけが良い所にいる。仏さえエゴイズムに支配されている、という地獄を描いていると私は読みます。』という答えでした。・・・なるほどな~と思いました。

質問者は、(付け加えて)『他の方の仏教に関連付けた回答も素晴らしかったのですが、全ての事柄に裏があると邪推しうがった見方ばかりをする自分の性格にマッチしたこの回答を選びました。・・・こんな人間でも釈迦は救ってくれると、祈り…たい…』と書いていました。
これを読んだら、何かとても切ない思いにさせられました。

<我田引水は嫌いですが>

“我田引水”とは、物事を、自分の利益になるように持っていくことですが、・・・つまり、『こんな人間でも救ってくれると祈りたい』という人に、『キリスト教には“救い”がありますよ。こちらに来なさい』というのは、あまりにも露骨な勧誘のように感じます。
でも、現実にこの質問者は求めているのです。

<神の御子がこの世に遣わされた>

そういう現実があるからこそ、神の御子、主イエスは、苦悩している私たちの真っただ中に降りて来てくださったのだと、聖書は告げるのです。これは、大変なことです。お釈迦さまが地獄の血の池に降りて来たというのに等しいのです。

「2:12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。 2:13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、 2:14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。(ルカ2:12~14)

その主イエスは、そういう私たちのために、私たちの罪を負って、壮絶な死をとげます。・・主イエスは、私たちが負うべき罰を受けてくださったのです。だから、私たちは、もう蜘蛛の糸にしがみついて登っていく必要がないのです。

<セカンドチャンスはあるか>

死後の裁きについて、いろんなことが言われています。「この世でイエスさまの福音を聞いたことがなかった人、聞いても受け入れなかった人たちにもセカンドチャンスがある」と説く先生がいらっしゃいます。

そして、この質問は、よく尋ねられることですが、私は、イエスさまの愛を信じます。イエスさまは、すべての人の為に十字架につかれました。とすれば、すべての人が救われてしかるべきじゃないでしょうか。私のような者さえ救われたのだから、誰でも救われてしかるべきでしょう。

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ14:1~3)

ロハート・イー


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Posted by SANBI.us