ロサンゼルスで初めての「市民クリスマス」の思い出

▶︎ 主とわたし・・

今年、2020年は、コロナ渦の為、例年のロサンゼルス・キリスト教連合主催の「市民クリスマス」は、オンラインで12月18日からクリスマス(25日)まで配信するとのアナウンスメントがありました。

<第一回市民クリスマスの聖誕劇>

1974年、ロサンゼルスエリアの諸教会が集まり、合同で市民クリスマスをやろうということになりました。それで、その委員会から、ロサンゼルス・ホーリネス教会の辻本清臣牧師に、私たち青年会(友愛会)でイエスさまの聖誕劇をしてほしいという打診があったのです。

辻本先生は即座に承諾して、当時友愛会の主事だった私にそれが伝えられました。

どうしてそういう要請がきたのかと言いますと、ロサンゼルスホーリネス教会では、前に聖誕劇をやったことがあり、その衣装や小道具がそろっているから簡単にできるだろうということでした。

もし、辻本先生が承諾する前に私たちを集めて話をしていただいたなら、それほど大きな問題にならなかったのかも知れませんが、辻本先生が勝手に決めたと言って、みんなが怒ってしまったのです。

私は、辻本先生と友愛会のメンバーの板挟みになりました。やるかやらないかでもめて、誰が台本を書くか誰が指揮するかでもめて、協力しようというひとがいなくなりました。

実際、この件で怒って教会を去った若夫婦がいたほどでした。これは、とてもつらい思い出です。

とにかく、残った数人で劇をやることになり、劇場を見に行きました。それは、それは大きな劇場でした。誰かが“これじゃ声が届かない”と言い出しました。

劇場は声が届くように造られているはずだという者と、それは訓練した役者だからで、私たちの声では(観客が音を吸うし)絶対に届かないという者との議論になりました。

結局、マイクを使って、役者はセリフを言う人の声に合わせて、舞台では口パクをする(声に合わせて口を動かすだけ)ということになりました。

<聖誕劇の当日>

残った私たち数人で、この劇をしなければならなかったのです。

それも、ロサンゼルスのクリスチャンが一同に会した大集会です。大きな劇場です。みんな不安におののいていました。

もう、よく覚えていないのですが、みんな必死に祈っていたと思います。

私は、まぶしいスポットライトに向かって、ヘロデ王を演じていました。勿論、口パクです。

出番が終わるとすぐ衣装を変えて、3人の博士の一人になり、舞台裏からロビーに出て、それぞれの入り口でスタンバイです。

あの博士たちが幼子イエスに贈り物をもってくる賛美「われらはきたりぬ、はるかのくにより・・・」(聖歌135)が聞こえたら、劇場に入っていくのです。

賛美が聞こえ、ドアを開いて、私は賛美に合わせて、贈り物を両手に掲げて舞台にむかって歩いて行きました。

途中、道がすごく長いので、賛美が終わるまでに舞台につけるだろうかと心配したのです。と、同時に“そうだ、今からイエスさまに会いに行くんだ”とそう思ったのです。

そう思ったとたんに、(丁度、道の半分ぐらい進んだところで)バ~ンという音に近い圧力を感じ、それが私の全身を覆ったのです。

そして、その時、“あっ、聖霊に包まれた”と思ったのです。

その後、いつどのようにして舞台にあがり、どのようにして(人形の)イエスにあったのか記憶にありません。

<聖霊の働きは本物>

劇が終わり、まだ、その酔いからさめないうちにと思って、“今、不思議な経験をした”と妻に告げると、他のみんなも感じたというのです。

“丁度、道の半分のところで”というと妻も“そうよ”とあっさり言うのです。

あの時、(間違いなく)少なくともこの劇にたずさわった数人は、同じ時に同じ場所で、聖霊の働きに包まれたのです。

<聖霊の働きについての議論>

コリント人への手紙一13章8節に「愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう」とあるので、聖霊の働きは消滅するという人たちと、そうでない聖霊の働きこそ信仰の要だという人たちに別れます。

確かに、“預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれ”ていくかも知れません。それはクリスチャンが成熟していく過程だろうと言われます。しかし、聖霊の具体的な働きは健在なのです。

マルコによる福音書3章28~29節には「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」とあることを記憶すべきだと思います。

だいたい“信仰”は、与えられるもので、勉強して獲得するというものではないのです。

聖霊の働きです。だから、聖霊を否定すれば、救われないのは当たり前なのです。

ヨハネの黙示録3章20節「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」

心を開き聖霊を受けなさい。否、聖霊の働きを認識しなさい。そうすれば天の御国の幸を経験することが出来るというのです。

そういう意味では、信仰は発見するものだとも言えます。神さまは生きて働かれると言いますが、それは聖霊の働きです。

<聖霊に満たされるという体験>

聖霊に満たされるとか聖霊の働きを体験することは、クリスチャンにとって重要なことだと思います。

それなのに、そういう具体的な経験をしていないと思っている方が多いのです。変な話ですが、体験しているのに、その体験が認識されないということではないかと思います。

それは、“そんなバカな”というような経験だからなのです。でも、聖霊は現実に働かれるのです。私たちは、その証人です。

メリークリスマス!主よ、来たりませ!

ロバート・イー


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