ペテロがガリラヤ湖で溺れそうになった話を祈祷会で聴いて、45年前にE姉が描いた絵・・

▶︎ 主とわたし・・

<イエスさまが、ペテロが水の上を歩いた>

イエスさまは、いろいろな奇跡(起こるはずのないことが起こること)をなさいました。実際、それが多くの群衆を惹きつけたのです。イエスさまは、生まれつきの盲人、足なえを癒されました。あらゆる病気を癒されました。死人をも生き返らせたのです。

・・・そして、逆風が吹いていたために、波に悩まされ、漕ぎ悩んでいた弟子たちのところに、もうすでに陸から数丁も離れていた舟のところに、イエスさまは、海辺から水の上を歩いて来られたのです。・・・それを見た弟子たちは、幽霊だと思って怖れたと記録されています。

このことは、3つの福音書に書かれていて、ルカの福音書だけには書かれていないのです。多分、ルカは、パウロの時代の人で、福音書の主な情報源である、母マリアから聞いていない出来事だったのかなと思われます。

この出来事を記録しているのは、マタイとヨハネとマルコですが、マタイだけがペテロも水の上を数歩歩いたこと、そして、溺れそうになって助けをもとめたことを書いています。

「14:26 弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。 14:27 しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。 14:28 するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。 14:29 イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。 14:30 しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。 14:31 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。 14:32 ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。」(マタイによる福音書14:26~31)

マルコはペテロの伝道について行った青年でした。マルコによる福音書のエピソードの多くは、ペテロから聞いたことだろうと言われています。それなのに、ペテロが水の上を歩いたことが書かれていません。イエスさまが歩いてきたということだけです。・・・もしかして、ペテロにとって、このこと(溺れかけたということ)は、面目ない出来事だったのかもしれません。

溺れかけたペテロをイエスさまが水の上に引き上げるんです。想像するとまさにスーパーマンですね。

<奇跡がわかるようになる>

聖書には奇跡が沢山書かれています。ある人が“もし聖書に奇跡なければ信じられるのに”と言ったそうですが、逆ですね。神さまを信じるようになると奇跡がわかるようになるのです。

イエスさまの奇跡は、手品師とは違います。手品師は、空中から鳩を飛ばすことが出来ますが、鳩はちゃんと用意されているのです。イエスさまは、本当に何もないところから鳩を飛ばすことができるお方でした。

でも、必要がないことはしませんでした。イエスさまが40日40夜断食した後、空腹を覚えられた時、サタンが現れ、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」とチャレンジしました。イエスさまは、それに答えて「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである』と書いてある」(マタイ4:4)と仰いました。

イエスさまは、お腹がすいていました。たしかに、石をパンにすることができましたが、そういう能力があることをサタンの前で証明する必要はなかったのです。パンにこだわって、神さまのみ言葉を見失わないこと、神さまに栄光を帰することの重要さを教えてくださったのでしょう。

<ある神学生の祈り>

これは、北米ホーリネス教団のオレンジ郡宣教教会が始まった頃、40年ぐらい前に日本の教会から送られてきた月報の中にあった話ですが、ある神学生が川の浅瀬に立ち、神さまに一度でいいから水の上を歩かせてくださいと切に祈り、何度もやってみたけどダメだったという話が載っていました。

その時、私はその神学生の気持ちがよくわかりました。神さまが働かれるということを実感したい。そういう思いで、私は、日々の信仰生活を送っていました。なのに、かえって、とりとめのないありふれた生活の中で自分の信仰が増してきたのです。時には、自分も奇跡を経験しました。

科学的に証明できないことを経験したのです。ですが、上手く説明できないのですが、自分の信仰にとって、そういう変わった経験より当たり前のことの中に神さまを見出したのです。

信仰生活というのは、絶えず神さまと相談する生活です。子供が病気になる、仕事を失う、探し物が見つからない・・・実際、人生は問題だらけです。そういう時に、神さまは素晴らしいことをしてくださった。落胆する時は、comforter(慰め主)でいてくださいました。

私たちは、(何の保証もないのに)明日の朝、自分は目をさますと思って、安心して眠りにつきます。それは、神さまにゆだねるということです。お任せするということです。神さまのご慈愛に身を任せることです。無理せずに、そうすることができるようになると、もうどんなことが起こっても全然びっくりしなくなるのです。

ある人が言いました「枯れ木に花が咲いたと驚かないで、生きている木が時期になるとちゃんと花を咲かせることに驚きなさい」って。本当ですね、神さまはすごいです。一日々々の生活の積み重ねを通して、こんな不信心な者が信じる者になった。これこそ奇跡なのですね。

<岩淵まことさんの“歌う旅人”を聴いてみてください>

『3:1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。・・・ 3:11 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。』(伝道の書3章1,11節)

神さまに不可能はない。私のような者が救われるのだから、誰でも救われます。そして、救われた者には、怖れるものがなくなるのです。

ロバート・イー


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