主われを愛す〜主イエスは、“私”を愛しています。誰よりも愛してくださっています。

▶︎ 主とわたし・・

先日、45年前にYさんが描かれた絵、ペテロが溺れかけたのをイエスさまが助ける絵について書きましたが、そのYさんに他の絵もくださいと言ったら、携帯で撮った数枚の絵を送ってくれました。

この方は、メッセージを聴いて、感動するとすぐ絵が浮かんでくるのだそうです。「イエスの愛しておられた弟子がペテロに、『あれは、主だ』と言った」(ヨハネの福音書21:7)というところのスナップショットです。

<“あっ、あれは、主だ”>

私はこの絵に「あっ、あれは、主だ」という名前をつけました。明け方、岸辺に立つイエスさまがいた。朝もやの中に浮かんだ人の姿を見て、“イエスさまが愛しておられた弟子”と自称する、使徒ヨハネが叫びました。この絵には、浜辺に立つイエスさまのシルエットとイエスさまを指さす手と弟子たちの頭が描かれているだけです。すごい構図です。

この話は、ヨハネによる福音書21章に書かれていて、(ヨハネによれば)復活されたイエス・キリストが弟子たちのところに3度目に現れた時のことです。

「21:3 シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。 21:4 夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。 21:5 イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。 21:6 すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。 21:7 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。」

「あれは主だ」というヨハネの声に、ペテロは急いで上着を着て海に飛び込み、イエスさまのところに泳いでいったのです。・・・そうですね、たしか、ペテロたちがイエス様の弟子になった時も同じようなことがありましたね。

<なぜ、Yさんは、ヨハネの手を思い浮かべたのだろうか>

ここからのメッセージを聴いて、Yさんは、イエスさまを指す“ヨハネの手”が心に浮かんだのですね。ヨハネは、「あれは、主だ!」とさけび、浜辺に立つイエスさまを指さした。それは喜びの合図でした。

使徒ヨハネは、福音書の他に素晴らしい手紙と黙示録を残していますが、イエスと一緒に居た時は、弟子たちの中で特別に目立つような言動はしていませんでした。いつもペテロのアシスタントのような立場を守りました。でも、自分が一番愛されていたという思いをもっていたので、その福音書には、自分のことを言う時は、いつも“イエスの愛しておられた弟子”と書いています。

<私たちは、みんな、愛されています>

この記事で、ペテロもヨハネもイエスさまを心から愛していたのがよくわかります。二人ともイエスさまに愛されていました。否、弟子たちは、みなイエスさまに愛されていたと思います。あの裏切ったイスカリオテのユダさえも。

イエスさまは、この人を愛しこの人を愛さないとか、誰かを余計に愛していたということがなかったと思うのに、それでも、ヨハネは自分が一番愛されたと思っていたようです。

一方、クリスチャンの中には、自分はあまり愛されていないと思っている方々がいるようです。どうして、そうなのかわかりませんが、だから、“自分はどうでもいい”というようなことを聞くことがあります。謙遜してそう言っているのかわかりませんが、とても残念です。だって、あなたは愛されているのですから。あなたのために命を投げ出すほどイエスさまはあなたを愛しているのです。

そのことが本当にわかったら、イエスさまが自分を誰よりも愛しているということがわかったら、私たちの人生が変わります。生きていくのが楽しくなります。

<賛美歌 「Jesus Loves me -主われを愛す」 – NCM2 CHOIR を聴いてください>

ちなみに、日本語訳の「主われを愛す」には“聖書にそう書いてある”(だから、間違いないのだ)という言葉がないのですが、イエスさまが”私“を愛していてくださっていること、本当に、間違いなく愛してくださっているということは伝わっています。

ロバート・イー


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