罪の誘惑とその快感〜チンドン屋、紙芝居、駄菓子屋の思い出

▶︎ 主とわたし・・

<チンドン屋と紙芝居>

父が日本に派遣されて、私の家族が日本に行ったのは私が7才の時でした。戦後の日本は貧しかったけど、みなさん勤勉で一生懸命生きていました。

その頃の思い出の中に、チンドン屋と紙芝居があります。チンドン屋は、金太鼓をならしながら道をくにゃくにゃと歩き、子供たちはその後をついて行きました。

紙芝居は、連続もので楽しかったのですが、そのストーリーは一つも覚えていません。でも、ちゃんと面白くなるところで“続き”になり、また観たくなります。紙芝居屋さんは、子供たちに、水あめ、小さな(四角い)昆布、ニッキなどを売って生計を立てているのですが、私たち子供(私と妻など)は、そういうのは食べてはいけないと言われていました。お金ももらえませんでした。

<駄菓子屋もあった>

駄菓子屋というのもあり、“絶対に食べるな”と言われるのが、あの赤いゲソ(いかの足)。それが美味しいのなんの、一つ食べたらもう一つ食べたくなる。まるで麻薬です。駄菓子屋のものはみんな“汚い”(不衛生)のだと言われました。

駄菓子屋さんや紙芝居屋さんには申し訳ないけど、そう言われていたのです。でも、子供たちは、駄菓子屋さんや紙芝居屋さんが大好きでした。

紙芝居のためにはお金がもらえなかったけど、何かでもらったお金があれば、水あめを買い、短く折った割りばしですくった水あめを大切々々に舐めました。大きくなったら、あのブリキの缶ごと買ってやろうと誓ったものです。
ある時、お金がなくて何も買えなかった私に昆布をわけたくれた子がいました。あの大切な昆布をわけてくれたのです!その昆布の美味しかったこと。

<罪の楽しさ>

そんなことを妻と話していたら、妻がクスクスと笑ったので、“何?”と訊いたら、“あれは、やってはいけないと言われたからよけいに楽しかったのね”と答えたのです。“いやーっ、本当にそうだ”と思いました。

つまり、戒めを破る楽しさです。罪って説明するのがとても難しいけど、お母さんに内緒でチンドン屋について行き、紙芝居を見、水あめを買って食べ、駄菓子屋であの真っ赤なゲソをしゃぶる。

あの当時の子供たちにとってあれほど楽しいことはないと思われたものは、みな「禁断の実」でした。

罪とは、なんと楽しいことでしょう。わたしたち子供の身体と魂を生き返らせるもののようでした。

聖書によると、神さまに造られた人、アダムとエバは、「食べてはいけないという“禁断の実”」を食べました。そして、死ぬものとなりました。否、逆ですね。「死ぬから食べなさんな」と言われたのに食べたので、死ぬようになっただけです。食べたための罰ではなかったのです。

“そんなものを食べたら、病気になります”とお母さんに言われたのに、食べたくて食べてお腹をこわしたら、それは自分の責任です。紙芝居屋さんの所為ではない。駄菓子屋さんの所為ではないのです。

それでも食べたい。それが罪の誘惑ですし、罪の快感です。罪には大きな罪も小さな罪もありません。そんな私たちの罪を負って、イエスさまは十字架につかれたと聖書は告げるのです。

クリスチャンになった私たち、何十年クリスチャンをやっている人にでも罪の誘惑があります。あの罪の快感も鮮明に覚えています。でも、同時に、主にある平安もあるのです。

『16:33 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている』(ヨハネの福音書16:33)

イエスさま、ありがとう!頼りにしています。

ロバート・イー


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