クリスチャンの自分はなんぼのもの? | 信仰による人間疎外 工藤信夫
おそらくそこには、何か「クリスチャン」であることが特別な力、特別な立場を持ったものと期待する心が働いているのではないでしょうか。これは時として特権意識につながることがあります。
キリスト教病院だからクリスチャンは優遇されるのがあたり前という態度で延々と話しこむ人、病院の都合などおかまいなしに夕方何の連絡もなくやってくる人、早朝から待っている人をさしおいて電話一本で割り込み依頼をしたり、頼み込む時だけは一生けんめいであとは何の音さたもない人々・・・【工藤信夫著:信仰による人間疎外】
私の母の友人M子さんが入院していた時、あるクリスチャンの方から御見舞いカードが届きました。
そのカードには、「今年こそ天国行きの切符を手にして下さい」と書かれてあったそうです。
それを読んだM子さんはキリスト教の信仰を持たない人でしたので「これ、どうゆう意味なのかしら? この人、私に早く逝ってほしいのかしら・・」と母に相談し、とても困惑されていたそうです。
このお見舞いカードを送られた方は、キリストによる永遠の命を得て欲しいとの思いから書いたであろうことは、クリスチャンである私には察しがつきます。
僕もクリスチャン歴36年、同じ信仰を持つ仲間との交流が多くなればなるほど、ますます未信者(未来の信者)の方の立場を理解する事・・、思いやる繊細さが必要だと痛感しています。
外見は謙遜を装いながら、その実、上から下を見下げるような態度になった時が赤信号なのだと思っています。
本書を拝読して、クリスチャンの自分はなんぼのもの? ただただ神様の御慈愛によって救われた罪人と認め、取るに足りない者であることを日々肝に銘じ謙虚に世の人々と関わりを持たなければいけないと自覚した次第です。
皆様、今週もお疲れ様でした。
NCM2隊長