わたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく
<昔、妻に柿をむいてあげました>
妻とは、大学で知り合いました。妻は、法学部の数少ない女性のひとりで、家にはじめて来た時に柿をむかせたら全然ダメで、「法律を勉強するより、家政科に行ったら、、」と言って、柿をむいてあげたら、びっくりしていました。
どういう訳か、私は果物をむくのがうまかった。皮をうすく、丸くきれいにむきます。誰に教わったわけでもないのに、きれいにむきます。多分、乱暴に皮を厚くむく人がきらいだからかなと思います。
別に、果物という命を粗末にしているというような仏教的な考えをもっているのではなく、そういうむき方をする人は、自分の人生を粗雑に生きているように感じるからかもしれません。
<上には上がいる>
それで、現役の頃、会社で果物をむく講習をしてやりました。こういうむき方がある、こういうむき方があります、というように、上手にむいて見せました。みんな驚いて、感心して見ていましたが、ひとりだけ(静かに)微笑をしている人がいました。
彼女は、フィリピンから来た人で、ある時、彼女がマンゴなどの果物をむくのを見て、上には上がいるというのを知りました。結局、私のは、丁寧にきれいにむいているだけですが、彼女は手早く効率よくやれるのです。勿論、無駄なくきれいにむきます。
もし、むくのが仕事でしたら、私のように時間をかけていたら、即クビですね。だから、もう偉そうに人前で果物をむきません。だから、私には(楽しみながら)時間をかけてむかせてくださいな。
<今日は、梨をむきました>
家では、果物を半分づつにします。この写真は、99セントストアーで売っている、ゆがんだ、歪(いびつ)な梨です。ところどころデコボコもある。歪だから、安いのですが、味はいいんです。
歪だから、きれいにむくのが少し難しい。それをうまく当分に切るのです。まず、半分に上下の芯に合わせて切ります。そして、さらに半分に(芯にそって)切ります。そして、大きい方をむいて、妻にあげます。
妻が食べているあいだに小さい方をむいて、それを自分が食べます。次に、残りの半分の半分の小さい方をむいて妻にあげます。そして、残りの大きい方を自分で食べて終わりです。きっちり平等に食べるのです。
<数があわなくなった>
ところが、二つ目を妻にあげようとしたら、“それは、あなたのですよ”と言われたのです。“いゃ、これは、、”といって、彼女の皿を見ると、食べかけともうひとつが残っているではないですか。そして自分の皿を見ると、食べかけがひとつだけ。
私は、機械的にむいて、あげたり、自分で食べたりしているのに、おかしくなってきているのです。妻のお皿を見、自分の皿を見て、自分の数えがまちがったことをようやくみとめたのです。年をとっていくと、こんな単純作業もできなくなってくるのですね。
ヤバイ!この調子だと、そのうちに、“私”はだれでしょう、という具合になるやもしれません。
「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。」(第二コリント4章16節)
ロバート・イー