『主は彼を外に連れだして言われた・・・』(創世記15章5節)
休暇をいただいてアリゾナ州セドナでキャンプをしてきました。自然の中で過ごすということはイコール不便を受け入れるということになります。野外で夕食をとっていますと、辺りは暗くなり、明かりに向かって無数の昆虫が飛来します!私達のテントには夜毎にスカンクがやってき、私達を震え上がらせてくれました。一人平均27か所、虫に刺されました(セドナの虫に日本のキンカンは効かないのです!)。扇風機、エアコン、冷蔵庫、テレビはありません。日中は暑すぎてテントの中にいることはできません。トイレは遠くにあり、フカフカの布団ではなく寝袋で眠るために、大地の硬さが背中にこたえます。
しかし、時おり私達の間を吹きぬける風は明らかにエアコンのそれとは異なり、心身にやさしい心地よさがありました。神様の創造された世界で命あるものは互いに共存しあっているということを肌で感じます。不便さの中にいると、そこにいる者達は協力的になり、その心はずっと近づきます。それまで各々、コンピューターに向かっていた光景はなく、小さな明かりのもと顔を突き合わせてトランプを楽しみました。トイレに行くのにも、洗顔に行くのにも懐中電灯をもって皆で夜空を眺めながら寄り添いあって行くのです。
神様は荒野でイスラエルの民を訓練しました。イエス様は枕するところなく、おそらくたびたび、弟子たちと野宿をしたことでしょう。。そうです、彼らは全てが整った場所で主からの訓練を受けたのではないのです。とかく便利さだけを求める私達の世界ですが、この夏は不便さの中に私達に対する神様の愛がたくさん含まれていることを体験することができました。これからは何か不便を感じたら、そこに新たなる収穫と教訓を期待したいと思います。
今年もレイバーディに太平洋を前にしてビーチキャンプを予定しています(興味のる方はご連絡ください)。そこでも存分に“不便な体験”をして、共に神様のご愛を見出しましょう!(八月の教会報より)
マック

人間というのは本来、進化の過程で便利過ぎる物を捨て去る選択をしなければいけないのだけど、現実的には利便性を追求する商品開発が止まることはないから、自らの意思であえて不便を求めなければならない。
不便さっていうのは知恵と忍耐を育んでくれるから、時間を割き、ある程度の銭を払う価値があるしね。
そうなんだよね、世の中あまりにも便利になっているから、自らあえて不便を選び、時にはそのために代価を払わなければならないね。でもそこから得るものは大きな価値あるもので、心から失われることはないんだよな。飛行機で五時間あればいける大陸をアーサーは歩いたわけだけど、得たものは何にも代えがたいものだったろうね。そんな代えがたい経験を自分も財産として蓄えたいな。