こうして教会は(15):神を畏れることが、なぜ必要なのか?

誰でも最高の人生を送りたいものです。そのために色々と計画をたてます。人生設計をたてます。しかし、最高の人生というのは手に入らないものです。私達はあせります。いらだちます。追い込まれます。なぜだ、なぜだ。何が足りないんだ。どうしたらいいのだ!

こうなると、私達が次に直面することは罪への誘いです。「だんな、いい話がありまっせ」。「あなた、何をがまんして、そんな生活しているのよ。こう人がいるのよ、会ってみない」。この先、どうなるか言うまでもありませんでしょう。

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こうして教会は(14):教会の祈りの力

私達の教会では、緊急の祈りの課題があると、それがメールで一斉に発信されます。多い時には一週間の間にこのようなメールが何度か送られます。こうして瞬く間に祈りの連鎖がひかれます。

そして水曜日、木曜日の祈祷会では出席者が祈りの課題をあげて毎週、祈っています。ここにいらっしゃる皆さんの身の上に何かが起きている時に、私達はその皆さんのために毎週、祈っています。

皆さんがお座りになっている座席の前にも「祈りの課題」を書き込む封筒があるかと思います。よかったらそちらに祈祷課題を入れて、献金袋にお入れください。私達はいつもあなたのことを覚え、お祈りしています。

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Soli Deo Gloria ! 神にのみ栄光あれ

これまで教会で、このような失敗や挫折、悲しい経験をされた方達と多くお会いしてきました。言うまでもなく私もそのうちの一人です。それらを通して今、思うのです。

単純に比較はできませんが「失敗」とか「挫折」、また「悲しみを伴った経験」というのは「成功」と「達成」、「嬉しい経験」よりも、ずっと多くのことに用いられるということを。

「成功、達成、嬉しい経験」とはアルバムの中に収められるもの、しかし、「失敗、挫折、悲しみを伴った経験」はアルバムを飛び出して、人を生かし、人を慰め、人を勇気づけ、時にそれが人の命を救うものなのです。

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「こうして教会は(13):健康な教会であるために」

かつて、あのジョン F ケネディーが内外に問題が山積していたアメリカ国民に語りかけた有名な言葉がありますね。国があなたに何をしてくれるのかを問うのではなくて、あなたがこの国のためにできることをしてください」。

受けることばかりを考え、その権利ばかりを主張するということ、ある意味、それはまだ私達が人間として未熟であることのあらわれでありましょう。イエス様が言われた「受けるより、与えるほうがさいわいである」という、この御言葉の意味を人生の中で一度も知ることなく、私達が死んでいくのなら、私達は人間として、最も大切なことを知らずしてその人生を閉じることを意味しますでしょう。

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こうして教会は(12):ぶれない軸ゆえの自由

グローバルな時代と言われて久しく、私達のすぐ傍らには言葉も文化も違う人達がいます。地球を存続させるために、この互いの違いというものを克服していくことは全人類のこれからの課題です。

しかし、それに反して、最近の世界の動向はこの違いによる社会や国の分断というものがあちこちで顕著となってきています。もし、このような分断がさらに増えていくのなら、私達はやがて引き裂かれてしまい、互いが大きな害を受けることになるでしょう。

またそれは異なる文化や言語に限らず、同族の家族の中でも私達には各々、考え方や生き方の違いがあります。価値観が異なることもあります。すなわち互いの違いということは私達の生活の中にも存在しているのです。

もし互いの違いに対する理解と敬意がなければ、たとえそれが私達の親族であっても私達は仲たがいしたり、時に彼らは私達の敵となってしまうのです。

そしてそれはアメリカにある教会が置かれている状況も同じです。教会の中にも世代や性別による違いがあり、さらにはまさしく私達の教会にはあらゆる文化と言語、生活拝見を持った方達が集ってきているのです。それゆえに私達の信仰表現にも違いがあるのです。これらのことにどう向き合っていけばいいのか、今日はこのことに着目していきたく願っております。

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「こうして教会は(10):食卓を囲む意義」

かつて一人で島暮らしをしていました時、私の夕食は10分で終わっていました。当時の私の得意料理は「納豆」と「卵ご飯」、そして、「肉野菜炒め」でした。

納豆はあの白いプラスチックカップのまま食卓に並び、肉野菜炒めも、盛りつけなど考えることなくただ皿にのせられ、味つけも醤油だけでした。なぜ10分かといいますと、私が早食いであることと、食べる目的がどちらかというとエネルギー補給に近かったから、ただ口に放り込んでいただけだからです。

今、そんな日々を振り返って思うのです。食事を単なるエネルギー補給としか考えていないと、だんだん心の豊かさが失われていくと。このことは一人で食べる食事であっても改善できることだったなと今は思います。今、食事は極めて精神的なものなのだということに気がつかされています。

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「こうして教会は(9):ひたすら一同がしていたこと」

先日、ある方を通して昔、観たけれども忘れていました「Into the Wild」という映画を思い起こさせていただきました。

この映画は1992年に一人の青年が放浪の末にアラスカで死体で発見されたという実話をもとにした映画で、アカデミー賞にもノミネートされました。

主人公クリスは裕福な家庭に生まれ、物質的に恵まれた環境で育ち、アトランタにあるエモリー大学を優秀な成績で卒業します。両親は彼がハーバードのロースクールに進学することを望んでいましたが、金と物ばかりを与えようとする両親に嫌気がさしていたクリスは、学資預金を全額寄付し、真理を求めアラスカへと旅に出ます。

かたちは違いますが、私も20歳の頃のひと夏、アラスカで働いていたことがあります。クリスとは状況は異なりますが、何かに対する探求ということに関してはクリスの思いと似たものがあり、かつての自分とクリスの心を重ね合わせながらこの映画を観ました・・・。

この映画の結末は他人事ではなく、大切なことを私達に語りかけてきます。

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こうして教会は(8)主にある交わりから得るもの

「心の貧しい人たちはさいわいである。天国は彼らのものである」(マタイ5章3節)

「心のきよい人たちはさいわいである。彼らは神を見るであろう」(マタイ5章8節)

わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」マタイ12章10節)

死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか」(1コリント15章55節)

このような私達の常識では理解できない聖書の言葉は机上で思索して知り得るものではないと思うのですが、いかがでしょうか・・・。

それではどうしたらこれらの言葉の真意を知ることができるのでしょう・・・。

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