こうして教会は(12):ぶれない軸ゆえの自由

グローバルな時代と言われて久しく、私達のすぐ傍らには言葉も文化も違う人達がいます。地球を存続させるために、この互いの違いというものを克服していくことは全人類のこれからの課題です。

しかし、それに反して、最近の世界の動向はこの違いによる社会や国の分断というものがあちこちで顕著となってきています。もし、このような分断がさらに増えていくのなら、私達はやがて引き裂かれてしまい、互いが大きな害を受けることになるでしょう。

またそれは異なる文化や言語に限らず、同族の家族の中でも私達には各々、考え方や生き方の違いがあります。価値観が異なることもあります。すなわち互いの違いということは私達の生活の中にも存在しているのです。

もし互いの違いに対する理解と敬意がなければ、たとえそれが私達の親族であっても私達は仲たがいしたり、時に彼らは私達の敵となってしまうのです。

そしてそれはアメリカにある教会が置かれている状況も同じです。教会の中にも世代や性別による違いがあり、さらにはまさしく私達の教会にはあらゆる文化と言語、生活拝見を持った方達が集ってきているのです。それゆえに私達の信仰表現にも違いがあるのです。これらのことにどう向き合っていけばいいのか、今日はこのことに着目していきたく願っております。

本日の「礼拝映像」「ポッドキャスト」「礼拝プログラム」「一日一生」はこちらから(「礼拝映像」「ポッドキャスト」は日曜日中にアップされる予定です)。

↓ 本日の「礼拝メッセージ原稿」「おもちかえり」はこちらから。↓

続きを読む

「こうして教会は(10):食卓を囲む意義」

かつて一人で島暮らしをしていました時、私の夕食は10分で終わっていました。当時の私の得意料理は「納豆」と「卵ご飯」、そして、「肉野菜炒め」でした。

納豆はあの白いプラスチックカップのまま食卓に並び、肉野菜炒めも、盛りつけなど考えることなくただ皿にのせられ、味つけも醤油だけでした。なぜ10分かといいますと、私が早食いであることと、食べる目的がどちらかというとエネルギー補給に近かったから、ただ口に放り込んでいただけだからです。

今、そんな日々を振り返って思うのです。食事を単なるエネルギー補給としか考えていないと、だんだん心の豊かさが失われていくと。このことは一人で食べる食事であっても改善できることだったなと今は思います。今、食事は極めて精神的なものなのだということに気がつかされています。

本日の「礼拝映像」「ポッドキャスト」「礼拝プログラム」「一日一生」はこちらから(「礼拝映像」「ポッドキャスト」は日曜日中にアップされる予定です)。

↓ 本日の「礼拝メッセージ原稿」「おもちかえり」はこちらから。↓

続きを読む

「こうして教会は(9):ひたすら一同がしていたこと」

先日、ある方を通して昔、観たけれども忘れていました「Into the Wild」という映画を思い起こさせていただきました。

この映画は1992年に一人の青年が放浪の末にアラスカで死体で発見されたという実話をもとにした映画で、アカデミー賞にもノミネートされました。

主人公クリスは裕福な家庭に生まれ、物質的に恵まれた環境で育ち、アトランタにあるエモリー大学を優秀な成績で卒業します。両親は彼がハーバードのロースクールに進学することを望んでいましたが、金と物ばかりを与えようとする両親に嫌気がさしていたクリスは、学資預金を全額寄付し、真理を求めアラスカへと旅に出ます。

かたちは違いますが、私も20歳の頃のひと夏、アラスカで働いていたことがあります。クリスとは状況は異なりますが、何かに対する探求ということに関してはクリスの思いと似たものがあり、かつての自分とクリスの心を重ね合わせながらこの映画を観ました・・・。

この映画の結末は他人事ではなく、大切なことを私達に語りかけてきます。

本日の「礼拝映像」「ポッドキャスト」「礼拝プログラム」「一日一生」はこちらから(「礼拝映像」「ポッドキャスト」は日曜日中にアップされる予定です)。

↓ 本日の「礼拝メッセージ原稿」「おもちかえり」はこちらから。↓

続きを読む

こうして教会は(8)主にある交わりから得るもの

「心の貧しい人たちはさいわいである。天国は彼らのものである」(マタイ5章3節)

「心のきよい人たちはさいわいである。彼らは神を見るであろう」(マタイ5章8節)

わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」マタイ12章10節)

死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか」(1コリント15章55節)

このような私達の常識では理解できない聖書の言葉は机上で思索して知り得るものではないと思うのですが、いかがでしょうか・・・。

それではどうしたらこれらの言葉の真意を知ることができるのでしょう・・・。

本日の「礼拝映像」「ポッドキャスト」「礼拝プログラム」「一日一生」はこちらから(「礼拝映像」「ポッドキャスト」は日曜日中にアップされる予定です)。

↓ 本日の「礼拝メッセージ原稿」「おもちかえり」はこちらから。↓

続きを読む 

続きを読む

こうして教会は(7):洗礼について

2000年前の初代教会が「悔い改め」と「洗礼」というメッセージに応答した人達によって始まり、形成されていったということ、そして、そのことは今日の私達の教会も何ら変わりがありません。そこで、今日はこの「洗礼」ということについてお話ししたく願っております。

意外に思われるかしれませんが、聖書はイエス・キリストが公生涯を始めるにあたり、バプテスマのヨハネに自分に洗礼を授けるようにと願い、ヨハネから洗礼を受けられたということが聖書には書かれています。

なぜ「意外」と申し上げたかと言いますと、先週、お話ししましたようにイエス様ご自身もヨハネも、またペテロも「悔い改めて、洗礼をうける」ことをメッセージとして勧めてきたのであり、そうなりますとイエス様にも「悔い改めること」、すなわち「罪」があったのかということになります・・・。

本日の「礼拝映像」「ポッドキャスト」「礼拝プログラム」「一日一生」はこちらから(「礼拝映像」「ポッドキャスト」は日曜日中にアップされる予定です)。

↓ 本日の「礼拝メッセージ原稿」「おもちかえり」はこちらから。↓

続きを読む

こうして教会は(6)悔い改めよ。

今日、伝道メッセージが語られる時、このような語りかけがなされることがあります「さぁ、今、あなたの心の扉を開き、あなたの王座にイエス様に座っていただきなさい。あなたの心の扉のノブは外側にはなく、イエス様はそのドアを開けられないのです。そのドアは内側からしか開けられないのです。ですからあなたの手をノブにかけ、扉を開け、イエス様を心にお招きしましょう。その時にあなたは救われます」。

この言葉は大方、正しいことを言っています。なぜなら、この言葉はあのヨハネ黙示録の御言葉を念頭においたものだからです。すなわち聖書が記していることだからです。しかし、一つのことが不足しています・・・。

本日の「礼拝映像」「ポッドキャスト」「礼拝プログラム」「一日一生」はこちらから(「礼拝映像」「ポッドキャスト」は日曜日中にアップされる予定です)。

↓ 本日の「礼拝メッセージ原稿」「おもちかえり」はこちらから。↓

続きを読む

こうして教会は(5):命の言葉を堅く持って

フランスの哲学者ヴィクトル・シェルブリエ(Victor Cherbuliez)によれば、紀元前1500年から紀元1860年までの3360年間に署名された平和条約は世界で約8000件もあったといいます。しかし、どれも平均2年しか続かなかったといいます。その条約が結ばれた時、彼らは恒久的な平和を願い、努力を誓い合いました。しかし、それらは2年で破棄されてしまったのです。

私達の言葉はたとえそれが誓約であっても、それは時と共に移り変わるものなのです。覆されるものなのです。

しかし、聖書の神の言葉、命の言葉は変わらず、私たちを真に生かします。このことに対してマタイは大胆なイエス様の言葉を記録しています「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることはない」(マタイ24章35節)

 昨日は正しいとされていた事柄が、今日は正しくないものとされる今日、いのちの言葉は決して代わることがない。たとえこの世界は滅びてしまっても、いのちの事は決して滅びないとイエス様は言われるのです。

本日の「礼拝映像」「ポッドキャスト」「礼拝プログラム」「一日一生」はこちらから(「礼拝映像」「ポッドキャスト」は日曜日中にアップされる予定です)。

↓ 本日の「礼拝メッセージ原稿」「おもちかえり」はこちらから。↓

続きを読む

こうして教会は(4):通じ合う言葉と心

10年ほど前にカリフォルニア・ピザ・キッチンに家族で食事に行きました。トッピングをオーダーしました。オリーブが好きな私達は「Black Olive」をオーダーしました。しかし、出てきたピザにオリーブの姿はなく、その代わりに「Broccoli」がのっかっていました。

二度、そのレストランに行き、二度、同じことが起こりました。日本人にとりましてRとLの発音はチャレンジです。私達は「Riceをください」と言いながら、「Liceをください」と受け止められているとしたら恐ろしくなります・・・。

本日の「礼拝映像」「ポッドキャスト」「礼拝プログラム」「一日一生」はこちらから(「礼拝映像」「ポッドキャスト」は日曜日中にアップされる予定です)。

↓ 本日の「礼拝メッセージ原稿」「おもちかえり」はこちらから。↓

続きを読む