生活の座から革命を!

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」 聖書

な、な、なぁーんと“非”常識な言葉!そりゃそうですよ、私達の常識の範疇に収まってしまっては聖書ではないのです。

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マック

今日、礼拝でお話したメッセージです。
よかったらどうぞ ↓ 。

生活の座から革命を!
サンクスギヴィング礼拝
Ⅰテサロニケ5章16節ー18節
2007年11月18日

今週、私達はサンクス・ギヴィングデーを迎えます。その前の日曜日にこうして皆さんと共に礼拝を守ることができますことを神様に感謝します。特に今日、初めてこの教会に来られたという方がいましたら心から歓迎申し上げます。どうか、お気軽に引き続きお越し下さい。

今日、私は幾つかのとても“非”常識な聖書の言葉を読むことになります。どうか、それらの言葉をお聞きになって、驚いていただきたく願っております。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。Ⅰテサロニケ5:16~18

この御言葉はとても非常識な言葉です。特に「すべての事について、感謝しなさい」というところなど、到底私達には受け入れることはできないからです。これははるかに常識を超えた言葉です。でも、聖書は「神について」書いているのですから、人間の常識の範疇に収まることは書いていないのです。(もし、そうならそれはもはや聖書と呼ぶことはできません)。

この聖書の言葉はパウロという人によって紀元52年ごろに書かれた手紙です。その頃の地中海を中心とした世界史はどうなっていたかといいますと、ローマ帝国が巨大な力と共にその辺り一帯を支配していた時代です。そして、この帝国には崇拝の対象となっていた皇帝がおり、その下には皇帝に絶対服従してた文字通り世界最強の兵士がいました。彼らは世界最高の素材をもった鎧や兜を身にまとった屈強の戦士であり、当時、彼らの力にまともに対抗する軍隊は世界広しといえどもいなかったと思われます。

しかし、この帝国にキリスト教徒は大胆にも媚を売ることなく向き合っていきました。彼らには身にまとう武具はなく武器もありませんでした。ただ、彼らには一つの信念がありました。それは、彼らが「イエスこそが主である。このお方は私達の罪のために十字架にかかられた。そして、復活された。私達はその目撃者であり証言者だ」と臆することなく宣言していたということです。当然、彼らの言動は皇帝を神とする帝国を激怒させ、多くのものが捕えられ、拷問を受け、そして処刑されていきました。

そのような時に今日読みましたようなパウロの言葉が彼らの心に植えつけられていったのです。そもそも、ローマ帝国はこのクリスチャン達を目の上のたんこぶのように思っていたでしょうが、当のクリスチャン達にとって、彼らの戦いの相手はローマ帝国ではありませんでした。

パウロが後にエペソ書6章10節以降に書いているとおりであります「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、闇の世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである

これらの敵が相手であるために、彼らには武具と武器は必要がなかったのです。そして現実としては、この何も武具を持たないクリスチャン達が帝国を圧倒するようになり、紀元313年、ローマ皇帝、コンスタンチヌスはキリスト教を国教として公認したのです。

もう一度、申し上げます。彼らは鎧も兜ももっていませんでした。しかし、彼らは確かに別の武具を持っていました。今、読みましたエペソ書の後半にはこう書かれています「最後に言う、それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に信仰の盾を手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救いの兜をかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言葉を取りなさい。絶えず祈りと願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈り続けなさい」。

ここには「真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の靴、信仰の盾、救いの兜」といういわゆる身を守る武具が記されています。帯、胸当て、靴、盾、兜、これらは全て自己防衛のための武具です(日本の自衛隊も問題なく身につけることができるものです)。しかし、その中でたった一つ、御霊の剣、すなわち悪の力に一撃をくらわすものが記されています。そして、その攻撃する武器、御霊の剣は「神の言葉」だとここに書かれているのです。

すなわち、この意味は私達が今日、この悪魔の策略に対して一撃をくらわすことができるものは聖書の言葉だということです。そして、今朝、皆さんにこのテサロニケ人への手紙5章の武器を手渡したく願っているのです。すなわち、

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」という言葉です。

この聖書のみ言葉は私達の日常生活に執拗にアタックしてくる悪魔の策略に対してとても有効な武器です。そもそも、このエペソ書に書かれている「悪魔の策略」というものはどんなものなのでしょうか。策略というものは普通は敵には見せない、聞かせないものなのですが、実は彼らはその手の内をふてぶてしくも私達に明らかにしているのです。それは、あたかも「たとい俺たちの手の内を明かしても、お前たちはこれには勝てないだろう」と彼らがあざ笑っているようにも思えます。皆さん、彼らのこのふてぶてしい策略が何だかご存知ですか。

彼らの策略は聖書中の二人のキーパーソンに向けて実行されていたことが聖書には記録されています。この二人に悪魔は同じ戦略を用いたのです。まず第一にあの人類の先祖、アダムとイブが神から決して食べてはいけないと言われていた禁断の実を前にして、蛇(悪魔)の囁きが創世記に書かれています「それを食べるとあなたの目が開け、神のように善悪を知る者となれる。そのことを神は知っているのだ(だから、あなたたちに食べるなと言ったのだ)」(創世記3章5節)。

イエス・キリストはその働きを公にする前に荒野に導かれました。その時に受けたサタンの3つの囁きは何でしたか。「あなたが神の子なら、これらの石をパンに変えてみなさい」「神があなたを支え守るから、この宮の頂上から落ちてみなさい」「もし、あなたが私をひれ伏して拝むなら、私は国々の全ての栄華をあなたにあげましょう」

このアダムとイエスになされた悪魔の戦略は何でしたか。それはアダムにしてもイエスにしても、その心に「不平と不満」を呼び起こすものでありました。アダムには「俺は神にすらなれるのに、神は俺を押し留めている」という思い。イエスに対しては、「自分は神の子なのだから、その力を存分に使えば、財と地位と名誉を得ることなどたやすいんじゃないのか」という思いです。

悪魔は知っているのです。人間を攻撃するにはこれが一番。皆さん、私達が罪を犯す時には、この不平と不満がいつもその側にいます。実際に犯罪として罰せら得る殺人、窃盗、強盗、詐欺・・・。不平と不満が一緒にいます。夫婦の問題、親子の問題、職場での問題・・・、傍らには不平と不満がいます。

悪魔は私達をあざ笑っているのです。何度も申し上げますが、戦略は敵には話さないものです。しかし、このサタンの策略は創世記と福音書で、否、聖書のあちこちに万人に明らかにされているのです。彼らはあざわらっているのです。お前達は俺たちの策略を知っていても、これには勝てないよと。

そして、悔しいかな。この攻撃は本当に強いのです。私達は簡単に不平と不満で心が満ちていく。そして、これらが簡単に私達の心から喜びと感謝を奪い去っていくのです。朝に喜んでいた人が、昼には苦々しい不満で満ちているなんてことは私達の日常です。

ですから、皆さん、私達は今日、このことをしっかりと心に刻み帰りましょう。これらの策略に勝つために必要なのは御霊の剣、すなわち神の言葉です。すなわち「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」という聖書の言葉です。

一番先に言いました。これは非常識な言葉なのです。別の言い方をすれば、この言葉は私達の常識を超えているので、私達がこの言葉を実行できるとはとても思えないのです。

実際にあのアダムとイブは一ころに敗北しました。彼らは蛇の囁きを聞き、心の中に不平と不満が満ちました。彼らは、食べるか食べまいか数時間、悩むこともありませんでした。彼らは言われるがままにあの実を食べたのです。そして、私達はこのアダムやイブをなんら変わらない人間であるということを知らなければなりません。全くその策略に立ち向かえないのが私達なのです。

でも、それなら聖書は私達には到底、実行できない言葉を書いているのでしょうか。もし、そうであるならば、私達は聖書から背を向けて生きても差し支えないでしょう。

このテサロニケの手紙において、私達は決して見落としてはならない言葉があります。私達はとかく「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」という言葉に目がいきます。しかし、実はこの言葉だけでは何ら力がないのです。それでは尻切れトンボなのです。

私達はこの後に続く言葉を固く握り締めなければなりません。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです

いつも喜びなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことについて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたに望んでいることです!

キリスト・イエスにあって!In Jesus Chrsit!!

アダムとイブは敗北しました。しかし、キリストはサタンの三つの策略に勝利したのです。ご存知のように彼はその囁きに対して、自分の言葉ではなく、御霊の剣、すなわち神の言葉、旧約聖書の申命記の言葉によって対抗し、そして勝利したのです。キリストは悪魔の策略に対する必勝パターンを私達に示されたのです。

皆さん、私達はこのキリストがいなければ、いつも喜ぶことなど、絶えず祈ることなど、そしてすべてのことについて感謝することなど到底できないのです。それは“非”常識な言葉なのですから。しかし、この“非”常識を打ち破るお方がいる!それがイエス・キリストなのです。

今回、このメッセージを準備していてとても大切なことに気がつきました。聖書中に感謝という言葉が出てくるときには、その多くの言葉の中にイエスの名前が出てくるのです。

コロサイ人への手紙2章6節‐7節
このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。 また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。

第一コリント15章57節
しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

第二コリント2章14節
しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。

エペソ5章20節
いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。

コロサイ3章16節
キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。

コロサイ3章15-17節
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。

皆さん、感謝の秘訣は全てキリストに集約されるのです。キリストとは誰でしょう。キリストはあらゆる悪の策略に勝利をとられたお方。そして、あなたをこよなく愛しておられるお方。「あなたは、どれくらい私達を想っていてくださるのですか?」という問いに対しては、そのご自身の命を与えたほどにと答えられるお方。そして、それのみならず死んで甦られたお方。すなわち、死にも勝利を取られたおかた。この方をしてローマ書8章32節は言うのです。

ご自身のみ子をさえ、惜しまないで、わたしたち全ての者のために死に渡された方が、どうして御子のみならず万物を賜らないことがあろうか。

ゆえに、私達はみ言葉の剣を今日も明日も握るのです。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです

皆さん、世の中にはどうしたらうまく世を渡っていけるかとか成功するかとか、そんな本が溢れています。しかし、あまりあれもこれも握る必要はありません。今日、お話したただ三つのこと、これで十分なのです。

確かに私達の生活はディズニーランドではありません。右見ても、左見ても、「まぁ、あれいいわー、今度あそこに行きましょう、それからこっちに行きましょう、楽しいわ、嬉しいわ」という現実に私達は生きていません。

昔、日本にいる時にある友の相談にのったことがあります。彼は会社で自分が正当に評価されていないということに不満がありました。言いたいことをぶちまけて、会社を辞めようかと悩んでいました。彼の喉下まで不平と不満は満ちていたのです。

でも、彼はそんな時にこそこのみ言葉を心の中で口づさむことにしたのです。イエスがその時に自分に力を下さるようにと祈るようにしたのです。目に見える世界では、自分は評価をされていない、しかし、神様が喜んで自分を包んでいてくれていることを考えたのです。

後に、少しづつですが、彼の眉間のシワが減っていき、そのシワは目じりに移っていきました。彼がその後、同僚や上司から評価を得ていったことは言うまでもありません。

皆さん、私達もこのみ言葉を口づさむのです。イエスの名によって、祈るのです。私達の心から喜びと感謝を奪い去っていくその時に「もろもろの支配と、権威と、闇の世の主権者、また天上にいる悪の霊」に対して、神が私達に与えて下さる御霊の剣をもって反撃するのです。

皆さん、あなたが今晩立つキッチンで、明日も働くオフィスで、喜べないような時にキリストにあって喜ぶ力を祈り求めて下さい。決して感謝できないことに対してもキリストにあって感謝が溢れることを祈り求めてみてください。

それは非常識なことですが、こんな非常識なら許されるでしょう。いいえ、許されるどころか、皆さんの心の中では革命が起こるでしょう。そして、それは皆さんの心の中だけでとどまるのではなく、皆さんの立つオフィスやキッチンでも類稀な革命が日々起きることでしょう。武器を持たないキリスト教徒達が武器に身を包んだローマ帝国を変えてしまったこと、その背後にはキリスト教徒達の非常識な心の革命があったのですから。世界が本当にキリスト者の内に見たいものは、その生活の中に息づくこの革命なのです。

お祈りしましょう。

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