「羊」という漢字に見る一考察


聖書においてジーザスは羊に譬えられている。「その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」 (ヨハネ1章29節)

養=羊+食
ジーザスからいただく霊の食をもって本当に私達は養われるのだ。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(黙示録3章20節)

義=羊+我               
義とは私とジーザスの関係である。「それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである」(ローマ3章26節)

美=羊+大
ジーザスが私達の生涯に大きな影響を与えること。これを美しい生涯と呼ぶ。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3章11節)

善=羊+台
十字架上のジーザスは善をもって悪に打ち勝ちました。「悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12章21節)

学術的には分かりませんが、聖書の世界とユーラシアは地続きということを思えば、ロマンがあっていいですなー。

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マック

驚くべき記録↓

ジーザスより750年前に生きたイザヤという預言者の言葉。学者達はこのイザヤの描写をして、ジーザスの十字架を一部始終、観察した者が書いたに違いないと言う。しかし・・・。

だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っているのように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。

その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。

彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。

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