クールなのは「何かを持っている」とか、「あれがこれができる」とか、「流行には後れていないぜ」ということではないと思うのです。「ここに立って、自分は生きていまっせ」という確信・・・。こんな人がクールじゃないのかとワタクシは思うのです。そして、それがノアの人生。失敗はあったけど、あこがれるね、わたしゃ、あなたの人生。
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ノアはこう生きました
ヘブル11章7節
2007年8月19日
ヘブル11章7節 「信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった」。
私達は「日々の生活を深く味わうために」というシリーズで毎週、聖書の言葉を見て参りました。そして、この日々の生活を味わうために、私達は目に見えないけれど、確かにおられる神様の私達に対する計画とか、その働きというものを思い、生活の中にそれを見出していくということが大切だということを見てきました。
私達の思いや計画というのはとかく平面的であり、今、目の前に起きていることが「嬉しいこと」であれば幸せ、そうでなければ不幸というように、その事がら一つだけを見て、私達はアップ&ダウンしている。それは、スルメを一口噛んで飲み込んでいるようなものだということもお話しました。
このシリーズも今日で終わります。いつも、そのシリーズの最後には聖書中のある人物を取り上げて締めくくるのですが、今日はノアという人の生涯から、これまでお話したタイトル3つのことをまとめて見てみたいと思います。1目に見えるものが全てですか?(畏れかしこみつつ)2味わいたい、私の人生(家族を救うため)3信じられない時もあります(信仰によって世の罪をさばき、義を受け継ぐ者となった)。
1 目に見えるものが全てですか?
それではまず第一に「目に見えるものが全てですか」ということですが、この7節を見ます時に、ここには「ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け」とかかれています。すなわち、まだ彼自身の身に起きていないことについて、彼は神からの御つげを受けたのです。
そして、その時に彼は「畏れかしこみつつ」このみ告げに従ったというのです。この短い言葉の中にノアが日常の生活を味わっていたということの一つの秘訣を見いだすことができるのです。いつもご説明するのですが、ここに記されている「おそれ」は「恐怖」ではなく「畏怖」の畏れということであります。
先ほど、私達は平面に生きているとお話しました。これは天というものを意識しない生き方であります。そして、それはどういうことかと言いますと「神への畏れ」というものが失われている生活です。すなわち、私達全てを見つめておられ、私達の命、そしてこの全世界を保持しておられる存在というものが失われている生活です。
そんな小難しいこと言わんでもいいでしょと思われるかもしれませんが、実はこのことこそが私達が今日抱えているあらゆる問題の根源にあるものなのです。「誰も見ていないからあの飴玉、一つもらっちゃえ」の飴玉が何億というお金になったり、人の夫であったり、妻であったり、人の命になったりするのが私達の世界なのです。そして、それは私達が自分が抑えきれない欲望に従っていることであり、そのどこにも人生を味わうなどというものなど決して生まれてはこないのです。「得した、損した、見つかった、見つからなかった」そこから、人生を味わうなどということなど生まれてくるはずもないのです。
特にこれからの時代、次世代の子供達を育てていく時に、子供達がこの目に見えない「神への畏れ」というものを持っていかないと大変なことになります。欲しければ手に入れる、人が見ていなければいい、それだけで私達の子供や孫達は育っていけばいいのでしょうか。そして、この世界がもし良くなるとするならば、その最も重大なポイントは、諸々の法律の改正とかということではなく、まさしくこのところにあるのではないでしょうか。
そして、それは子供だけではありません。大人であっても、私達がもしこの目には見えない神への畏れというものを忘れてしまったら、私達は人間と獣の間を行き来することすらあるのです。神への畏れこそが私達を本来の人間に留めてくれるものであり、父親の視線の中を安心して遊ぶ子供のように、私達も神の視線の中におりながら、私達の人生を味わうことができるのです。
2 味わいたい、私の人生
二つ目のこと。それは「味わいたい、私の人生」ということです。今日の聖書箇所によりますと、ノアは畏れかしこみつつ、「家族を救うために」箱舟を造りました。雨など降る気配もない場所で、ノアはその家族と共に巨大な箱舟を造ったのです。言うまでもない、人々は笑ったのです。でも、彼は人の笑いに振り回されませんでした。彼は神を恐れました。そして家族を救うために、そのことをやり遂げました。そして、この家族もノアを支え続けたのです。
聖書は家族というものをとても大切なものとして取り扱っています。何を隠そう、このノアの話しが記されている創世記も何について書かれているかといえばアダムとイブから始まる家族のことなのであります。
ノアはその家族の家長として、自分が一番、心がけないといけないこととして、まず先ほどお話しました「神を畏れること」をあげたに違いありません。彼は神を畏れたゆえに箱舟を造ったのです。そして、それが結果的には家族を救ったのです。
今日、私達を取り巻く時間の流れは速く、忙しく複雑で誘惑の多い世の中となり、家族の一人一人がそれぞれてんでバラバラの方向を見ているような現実とも私達は向き合うことが多いのです。家族を一つにするためのことがたくさんあることでしょう。家族と共に過ごす。互いのコミュニケーションをはかる。中には子供にしても伴侶にしても、とにかく欲しい物を何でも与えることが、家族が一つになるために大切だというような考えもあります。しかし、その中で最も大切なことは、神を畏れて、神に従って生きることだと聖書は語るのです。
子供は押さえつければしばらくは親の言う事を聞くことでしょう。しかし、いつか自分の足で好きな所に行く日がくれば、自分で自由な所に行き、好きなことをすることができるようになったら、もう親はどうすることもできなくなります。かつての私達もそうだったと思います。その時に本当にその子達の生涯を導くことができるのは私達が神にあって一つなのだという思いです。
皆さん、考えてみましょう。ノアが神様から「箱舟を造るように」と命じられる。そうは言われても周りを見ても、雨が降る気配はない。でもノアはそれに従った。言うまでもない、トンテンカン・トンテンカンと響く音にそれを聞く人達はあざ笑ったに違いない。私達が同じ人間として想像できる限りの嘲笑とあざけりが人々の間で囁かれたに違いない。いいえ、実際にノアとその家族に届くような罵声としても聞こえてきたに違いない。
しかし、ノアはその手を休めなかったのです。私はこのノアの生き方を黙想していまして、とても人間的な言い方になりますが、彼の生き方といいましょうか、生き様というものにとても魅力を感じました。なぜでしょうか。彼が人が何を言おうと「自分の信念を貫いて生きたからです」。なぜ、そのような思いが沸いたか?それは、私が特に日本人のメンタリティーを持っているからです。
どちらかというと、私達日本人は他国の人達に比べて、常に周りの人達が自分をどう考えるかを気にして生きている者だからです。自分自身を振り返ってみてもそう思います。でも自分が確かにこの地上に生きていたのだという証は、何かを得たということによって生まれるものではなく、他者と自分を比較して云々というものから生まれてくるのではなく、自分の信念にどれだけ堅く立って生きることができたかということによると思わされたからです。そして、その人は本当に幸いな人だなと自分でも思うからです。
ここには細かな箱舟を造る時の過程は書かれてはいませんが、このノア家族が一つとなって一つのプロジェクトを進めていくということは彼らにとって喜びでもあり、楽しみでもあったのではないでしょうか。たとえそこに反対があったり、嘲笑があっても、自分達の心には父なる神にあって平安があり、やりがい、一致があるということ。この時のノアとその家族は毎日の生活を深く味わっていたのではないでしょうか。
神様はそんなノアと家族に二つの印を示されました。それは、彼らがまさしく救われた者であるということの確証として、彼らにオリーブの葉を加えた鳩(創世記8章11節)をお見せになることによって、乾燥した土地が世界に現れたといこと、すなわち彼らが洪水から救われということを示されたのです。鳩は聖書の中で聖霊を意味するものです。そして、この聖霊はキリストが十字架におかかりになり、復活なされてから人々に与えられると約束されたものでありました。
聖書は血の繋がりのある家族のことに触れると同時に、教会に集う私達もイエス・キリストの十字架の血潮にあって神の家族だというのです。私達は年齢もこれまで歩んできた人生背景も皆、違います。もちろん、互いに身体的な血の繋がりもありません。それぞれが違った方向を見ていると言えば、それはある意味、当然といえましょう。しかし、そんな互いの間にもこの鳩によって象徴手された聖霊が私達と共におられるのです。私達はイエスにあって一つなのです。
私達はこのアメリカでめぐり合った神の家族であります。神様は「人が一人でいるのはよくない」(創世記2章8節)と言われたように、私達一人では人生を味わうことはできないのです。私達には家族と共に人生を味わうのです。
3 信じられない時もあります
三つめのこと。それは私達には信じられないことがあるということです。ノアはその信仰によって箱舟を造ったのです。そして、その彼の信仰とその勧めに同意する者がいなかったのです。故にこの地上に生きていた者達は大水に飲まれてしまいました。もし、彼らがノアの信仰に自分も習い、共に箱舟を造り、そしてその中に身を寄せていれば彼らが裁かれることはなかったはずです。この聖書の言葉はノアが世界を裁いたのではなく、当時、箱舟を眺めていた人達の不信仰がノアの信仰によって明らかに区別されたということなのです。
しかし、このような信仰の人であったノアも完璧な人ではありませんでした。聖書は彼の過ちについても隠すことなく記しています。すなわち、ノアが洪水から逃れて、新しい土地でその生涯を始めた時のことです。創世記9章20節にはこのような記録が記されています。
「さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた」
一言で言いますと、これはノアが酔いつぶれたということです。そして、これらのノアの姿はただ単に彼が酔ったということを意味するというよりも彼の心がこの時、神から離れていたということを意味するのです。
これは確かに彼の失態であり、彼の神に対する信仰というものも、この時確かに失われていました。しかし、彼はその過ちによりそれまでの全ての信仰が失われたのではないのです。過ちは犯します。確かにこの時、ノアの心から神様は消えて、酒に酔い醜態を現したのでしょう。
聖書はその後の彼の生活について沈黙を保っています。しかし、確かに彼が信仰をもって歩んだこと、それは打ち消されるものではありませんでした。よく、聞きます。イエス様によって罪赦されました。でも、それからでも色々な罪を犯してしまいます。もう、神様もこんな私に愛想をつかしているでしょうね。
愛想とは「愛らしさ」という意味があります。つまり、「愛想が尽きる」とはその「愛らしさが尽きてしまう」ということです。「もう、あなたを思う愛情は枯れ果ててなくなってしまったよ」ということです。
皆さん、神様の愛は私達の失敗や不信仰によって枯れ果ててしまうのでしょうか。「友を何度赦さねばなりませんか。7度までですか」とイエスに問うたペテロに対して「7を70倍するまで」とイエスは応えられました。これは「永遠に赦しなさい」ということです。このような言葉をもって私達に永遠に友を赦すのだと命じられたイエスは「ご自身も愛想を尽かす」ということはなさらなかったのです。
信じられないこともあります。失敗もあります。しかし、私達はそれでも私達を愛して下さる神様を慕うのです。ローマ5章20節に書かれているではありませんか。「罪の増し加わったところに、恵もますます増し加わった」。ノアは失敗をしました。しかし、それが彼の生涯全てではなかったのです。後、数千年後にノアの生涯を評して今日の箇所を書いたへブル人への手紙の記者が今日,私達に語りかけているとおりです。
ヘブル11章7節
「信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった」
お祈りしましょう。