味わいたい、私の人生!

私は日本人だからスルメが好きです。何度も噛むうちにあの味が口の中に広がります。アメリカで言うなら、さながらビーフ・ジャーキーでしょうか・・・。

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今日、礼拝でお話したメッセージです。よかったらどうぞ↓

味わいたい、私の人生!
2007年8月5日                                   
エペソ3:14-21 

14こういうわけで、わたしはひざをかがめて、15天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。16どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、17また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、18すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、19また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。20どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、21教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。

今日のメッセージタイトルは「味わいたい、私の人生!」ということであります。どうしても「味わう」ということになりますと、私は日本人ですから「スルメ」が思い浮かぶのです。噛めば噛むほど味が出るといいますから。そして、そう話していながら、もう口の中にはスルメの触感と味がしてきそうなのです。この気持ちをアメリカ人に伝えるにはどうしたらいいでしょうか。色々と頭を悩ましたのですが、アメリカでスルメに匹敵するものはビーフジャーキーあたりでしょうか。ビーフジャーキーも噛めばかむほど味がでてきます。

皆さんもきっとお分かりになるように、私達がスルメを口にしましたら、一口噛んで飲み込んでしまう人はいないと思います。やはりスルメは、時間をかけて何度かクチャクチャ噛むものです。そして、そうしますと天日に干されたスルメのあの味が、潮の香りと共に口の中に広がるのです。変な話ですが、その間、口に入れられたスルメは私達の口の中で右に左にいきながら、色々な角度から噛まれたその風味が出てくるのです。それがあるから味が出てくるのであって、今申したように一度噛んで飲み込んでしまったらスルメの本当の味を私達は知る事ができませんし、喉に詰まらせたり、内臓だってそれは穏やかではないでしょう。

「砂を噛むような」という言葉が日本語にはあります。私の息子がまだ歩き始めた頃、公園に連れて行きますとよく砂場の砂を口に入れていました。そして、言うまでも無い一口を入れると苦い顔をして、砂を吐き出していました。こんなことを数回しますと、一応、学習するのでしょう、二度と同じことをしなくなります。誰も砂など食べません。じゃりじゃりと何とも味気ないものです。でも、私達はこの感覚を人生に置き換えてこういうことがあるのです。「砂を噛むような人生」と。そこには味わうなどという意味合いはなく「何か、味気ない、つまらない人生」という意味がともないます。

私達の前にもし「味わい深い生涯」と「味気ない生涯」という二つがあるとするならば、私達はどちらを選ぶのでしょうか。おそらく全ての人が「そりゃ、味わい深い生涯がいい」と思うに違いありません。でも、どうすれば味わい深い生涯を送ることができるのでしょうか。

私達の日々の出来事は絶えず私達の心の中に入ってきます。その中には嬉しいこともあれば、当然、悲しいこと、辛いこともあるのです。私達はそれをどのように内に入れているのでしょうか。一つ一つの私達の心を揺さぶる出来事に対して、私達はそれらをどのようにしたら味わうことができるのでしょうか。

驚愕するようなことを告知された一人の女性の姿が聖書には記されています。その告知は結婚を控えてその喜びが日毎に増していったであろう一人の乙女のもとに突然、伝えられました。その告知は彼女の結婚生活を全て台無しにしてしまうようなメッセージでした。そう、皆さんもよくご存知のあのクリスマスの出来事です。ルカ1章26節-32節にその時のことが書かれています。

26六か月目に、御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。27この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤといった。28御使がマリヤのところにきて言った「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。29この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。30すると御使が言った「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。31見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。32彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。

このマリアに御使いは言ったのです「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていたと聖書は記しています。

同じような知らせが人里離れた野原で野宿していた羊飼いのもとにも伝えられました。それを聞いた羊飼いはその伝えられたことが本当なのかどうか、このマリアを訪ねてきたというのです。その時に先に告知を受けたマリアからは、その言葉どおりにイエスが産まれ、飼葉桶にイエスは寝かされていたというのです。その幼子イエスを見た羊飼い達は自分達が見聞きしたことをこのマリアに伝えたというのです。その時の出来事をルカ2章15節‐19節から見てみましょう。

15御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。16そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。17彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。18人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。19しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。

この時もこのマリヤは、これらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていたと聖書は記しています。ここに記されている「心に留めて」という言葉は英語の聖書ではTreasured Upと書かれています。それは文字通り「宝もののように大切にその心に留めた」のです。

やがて、このイエスも成長し12歳となりました。少年から青年へと、現代風に言うならば、まさしく、これからティーン・ネージャーになる年です。マリヤは彼女の夫ヨセフと共に、このイエスを連れて都エルサレムに上りました。この時の様子がこのように聖書に記されています。

ルカ2章41節‐51節                                                41さて、イエスの両親は、過越の祭には毎年エルサレムへ上っていた。42イエスが十二歳になった時も、慣例に従って祭のために上京した。43ところが、祭が終って帰るとき、少年イエスはエルサレムに居残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。44そして道連れの中にいることと思いこんで、一日路を行ってしまい、それから、親族や知人の中を捜しはじめたが、45見つからないので、捜しまわりながらエルサレムへ引返した。46そして三日の後に、イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。47聞く人々はみな、イエスの賢さやその答に驚嘆していた。48両親はこれを見て驚き、そして母が彼に言った、「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです」。49するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。50しかし、両親はその語られた言葉を悟ることができなかった。51それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。母はこれらの事をみな心に留めていた。

母マリヤは、この時もこのイエスの言動をみな心に留めていた のです。ここに記されている「心に留めて」という言葉もTreasured Upであります。すなわち、マリアは少年イエスの一見、親に迷惑をかけるような言動を「宝もののように大切にその心に留めた」のです。

今日、開かれていますエペソ書のみ言葉には「17信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、18すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、19また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る」というパウロの言葉が記されています。

私達の日々の生活に起きてくる出来事はイエスの愛に広さ、長さ、高さ、深さがあるように、それは平面だけでとらえられるようなものではないのです。この言葉を書いたパウロは、そのことを私達が知るように祈ると書いているのです。

皆さん「宝のように大切に心に留める」「思いめぐらす」ということは、その出来事を全て噛むことなく飲み込んでいたというのではないのです。全てそれを鵜呑みにして心に流し込んだのではないのです。その出来事の結論を出さずに、その出来事を大切に心に保留して、そして、思い巡らすということです。もっといいますとその現実の出来事と神のみ心の関連性を大切に探るということです。その広さ、長さ、高さ、深さを知ることです。

私達はとかくあのことに腹がたった、悲しかった。あれだけは口惜しくて忘れられないというような感情を一つ一つの出来事に対してもちます。これは一気に噛むことなく食べ物を飲み込んでいるようなものです。これでは消化不良を起します。そして、そこに自分の人生を味わうということなど起こりえません。

しかし、私達は信仰によって、これらを心に留め、思いめぐらすのです。たとえそれが苦い出来事であっても、一つ一つの出来事の中に、実は味わい深いものが含まれているのだというのが聖書のメッセージです。

信仰というのは私達のそれまでの視点が単眼であったものが、複眼となることです。すなわち、一つの出来事を上から下から斜めから神様のみ心と共に心にとめて、思いめぐらすことです。これらの出来事を過去、現在、未来にわたる長期的な神の私達に対する計画として、その展望をもって見つめることです。

皆さん、私達の人生は「勝った=やったー」「負けた=あーあー」「得た=嬉しい」「失った=残念」というようなことで終わるのでしょうか。これはスルメを飲み込んでいるようなものです。信仰の世界は「負けた」中に「勝利」を見出し、「失った」中に「収穫」を見出すことです。その中に神の計画と愛と恵を見出していくことです。表面的な良し悪しからさらに深い深い神の摂理を探り、それを確認していくことです。

私達はそう簡単に自分の身に起こる出来事に対して、それが失敗だとか無駄だとか決めつけてはなりません。「夫もいないのに自分に子が与えられるなんて!」「この子は親を放っておいて、一人宮にいるなんて!」母、マリヤにとって、これは到底、受け入れ難いことです。その出来事だけとれば、自分の人生がそれだけで滅茶苦茶になってしまう、また自分の子育てということに対しての不安が起きてくるような出来事です。

しかし、マリアはその時に思いめぐらしたのです。その出来事を一口で飲み込もうとはせずに、よくそれをにれはんで、噛んだのです。そして、その思いめぐらす女、マリアが最初の御使いからの告知を受けた後に有名なあのアベマリアの歌となっています、マリアの賛歌を歌っているのです。

ルカ1章46節‐55節                                                46するとマリヤは言った「わたしの魂は主をあがめ、47わたしの霊は救主なる神をたたえます。48この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、49力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、50そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。51主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、52権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、53飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。54主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、55わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。

「心に留めること」「思いめぐらす」ことを常としていたマリヤから生まれたこの歌は何を語っているのでしょうか。聖書の本質が分かってきますと、この歌はとてつもないものであることに気づかされていきます。結婚前の乙女に告知された、その心揺さぶる出来事を心に留めた彼女は歌ったのです「主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます」。

まだイエスが生まれる前にマリアはイエスが世になすことを見抜いていました。すなわち「心の思いのおごり高ぶる者にキリストのメッセージは届かず、自ら飢え渇いている者は良いもので満たされる」ということです。そして、彼女はこう歌ったのです「今からのち代々の人々は、わたしを幸いな女と言うでしょう」。

マリヤにとって自分の人生に投げ込まれた一粒の塩と思えたものが、実は世界人類の救いの始まりとなっていたのです。そこから神の愛と恵みという香りが放たれていくのです。彼女は一つの出来事に対して、それはダメ、悲しいということを結論づけずに、その先にある神の計画というもの深く味わったのです。

この母マリアについて成長して成人となったイエスは後にこう言っています(ルカ11章27節‐28節)。27 イエスがこう話しておられるとき、群衆の中からひとりの女が声を張りあげて言った、「あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんとめぐまれていることでしょう」。28しかしイエスは言われた、「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。

イエスは言われたのです。自分を宿し、乳を含ませた母親が恵まれているのではない。それよりも、そのことの中に神のみ業と計画を悟り、それを信じる者が幸いなのだ」と!。そして、それこそがマリアの生き方でありました。

皆さん、このようなことを見てきますと、信仰をもつということがどんなにか素晴らしいかということを改めて思うのです。それまで、起きる出来事に対して、ただただ喜怒哀楽という風にもてあそばれるような生涯ではなく、あの人、この人を見て、自分と比べたり、あれもこれもあるから今がだめなのだと、それを生涯引きずってしまうのではなくて、一つ一つの出来事の背後に働かれる神の計画と約束を信じる生涯。皆さん、クリスチャン・ライフとは私達の生涯の中に働いている神様の隠し味を見いだしていくことを喜ぶのです。そこに驚きを発見していくのです。こんなにエキサイティングな生涯はありません。

先週の日曜日は「目に見えるものが全てですか」というタイトルでお話をしました。そして、その中で料理の中の隠し味ということについて少しお話しました。塩はそのまま食べてもしょっぱいのです。特に今日、血圧について私達には多くの注意がうながされております故に、塩分摂取が多すぎるということは大きな問題となります。しかし、塩もその姿が解かされ、他の食材や調味料と混ぜ合わされるなら、時に塩辛い塩が甘みを引き出すものとなるのです。人はこれらを隠し味と呼ぶのです。

マイナスに思える出来事でさえも、それを心に留めて、思いめぐらしていく時に私達はそこに確かに働いている神のみ業を見いだすのです。それは到底私達には思いもつかない絶妙な方法で私達の人生に確かに風味を与えてくれるものなのです。その神様がブレンドしてくれる人生を味わうことができるということ。こんなに幸いな生涯はありません。お祈りしましょう。

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