美空ひばりは「川の流れのように」の中で歌います。「ああ川の流れのように ゆるやかにいくつも 時代は過ぎて・・・」。喜名昌吉は「花」の中で歌います。「川は流れて どこどこ行くの 人も流れて どこどこ行くの」。
これぞ、日本の心です。しんみりと心に響いています。疲れた心が癒されます。でも、その「しんみりさ」の中に、分からないことがあります。それは、その川がどこから流れてきて、どこに行くのかということ・・・。

今日、礼拝で語ったメッセージです ↓
よかったらどうぞ。
目的あってこその人生
ルカ10章38節-42節
先日、おもしろい話を聞きました。「自分が死なないで人を導くには」という書の著者デール・バークという人が21世紀のリーダーがこれから直面する生活環境に対する生き方として7つのことを挙げています。そして、その7つの一つとして「もっと、もっとは答えではない」ということを挙げているのです。すなわち「もっともっと、あれがあれば、これがあれば」ということが、あなたの人生の答えではないということです。そこで、彼が提唱していることは「Less is more」ということなのです。
「Less is more」ということを言い換えるならば「少ないことはいいことだ」ということであり、もっと広げて言いますと「大切で絶対不可欠なことはそう多くはない」ということです。皆さんの日々の生活はどうでしょうか。これが必要と思われることを10あげろと言われたら何をあげますか。それを5に減らしなさい。それをさらに3つにしなさいと言われたら、何が残りますか。デールの言葉によれば、それを20にしても30にしても、私達は満足などしないというのです。そんなこと、もうやめた方がいいよというのです。
それでは私達にとって絶対不可欠なことは何でしょうか。
以前「COOL HAND LUKE」という映画を観ました。若き日のポールニューマンが素晴らしい演技をしています。その映画の中で彼は囚人として何度も脱走を試みますが、捕まえられます。その彼が課せられた刑罰は自分の身丈が入るような穴を掘り、掘り終わったら、その穴を今度は埋めるということでした。それを彼は何度も繰り返すのです。穴を掘ることに意味はなく、穴を埋めることにも意味はないのです。なぜ囚人がこの刑を受けるのでしょうか。言うまでもなく肉体的に過酷だからでしょう。しかし、それ以上に私達は何ら目的のないことに、意味のないことに自分を注いでいくことに耐えられないからなのです。
子供の教育を何とかしようとそのテクニックを教えることばかりに目を注いでいて、最も大切な「なぜ、君は勉強しなければならないのか」ということを私達は教えていません。そして、この問いを突き詰めていくならば、私達は「君は何で生れてきたのか」という問いに突き当たるのです。この問いに対して答えを持たずして「勉強をがんばりなさい」「いい大学にいきなさい」「ビジネスを成功させなさい」というのは、酷であります。
今日、現代社会からどんどん「意味」というものが失われています。私達は現代、意味喪失の時代に生きています。「生れてきた意味」「働くことの意味」「結婚することの意味」「家族を養うことの意味」が失われています。これら人間にとってとても大切なことの意味を見出すことができない時代なのです。そして「意味」は「目的」と切り離すことができないものです。
私達の人生に意味を取り戻すためには、私達の生きる目的を見つけなければなりません。そして、この目的は詰まるところ、どこに行きつくかといいますと、それは「私は、なぜ生まれてきたのだろうか」ということに行き当たるのです。そして、この問いに対して私達が向き合うことは当然、「私達の命」ということです。そして、その「命」ということを考えるならば、人間には到底、計り知れない世界に一歩足を踏み入れることになるのです。「人の命」は人間が握っているのではないのですから。
神など存在しないと主張したバートランド・ラッセルという無神論者は「神がおられると仮定しない限り、人生の目的を問うことには何の意味もない」と言いました。彼は無神論者でありながら私達の「命」の意味をよく知っていたのだと思います。人生の目的とは、すなわち「私達の生の始まり」を問うことであり、その生には神の意志が伴っているということを仮定しない限り、その人の人生の全てに目的はないというのです。
聖書は一貫してこういいます「あなたは神によって創造された。あなたは気の遠くなるような偶然と偶然との重なり合いによる確率によって生れたのではない。あなたは愛されて生れてきた。あなたは神の子として人生を歩むために生れてきた」。詩篇139篇13節-17節にこんな聖書の言葉があります。
あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内で私を組み立てられました。私はあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよく私を知っておられます。わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされた時、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。あなたの目は、まだできあがらない私の体を見られた。私のためにつくられたわがよわいの日の、まだ一日もなかった時、その日はことごとくあなたの書に記された。
私達の命は神の意思によって、私達は造られ、この世界に生れてきたのです。ここに私達の人生を肯定する神の眼差しがあります。そして、造られた者達がどのような人生を歩んで行けばいいのか、その目的が存在しているのです。
目的は何かを獲得することではない。
目的について考える時に、最初に聖書は何が私達の人生の目的ではないと言っているかを考えてみましょう。
しばしば、私達はその人生の中でどれだけの多くのものを獲得するかということを目的として挙げます。このことは、人間が生きていくために、とても大切なことです。しかし、それだけでは行き詰ることがあるのです。まず、これらは失われるものであるということです。何かしらの事故や災害によって、これらは失われるかもしれません。そして、どちらにしろそれらのものが残っても、私達自身が失われてしまうことがあるのです。そして、その時を誰も知りません。
また、これら獲得の追及は、しばしば、虚無に包み込まれてしまうことがあります。そもそも、なぜ人間の心に不可解な虚無という感情があるのでしょうか。なぜ、虚しいという気持ちが心にフト生れてくるのでしょうか。それは、神様によって造られた私達が私達を造られた方の意とは違う生き方をしていることに対して、神様が「おい、それは的が外れているよ」と語りかけている信号なのではないでしょうか。
私達には私達の先人が歩んできた歴史というものがあります。なぜ「歴史」を学ぶことが大切なのか。なぜなら、彼らも私達と同じ人間であり、私達とほぼ同じことを考え、悩み、反省しながらその生を生きたに違いないのです。この「獲得」ということについても彼らはやはり今日の私達と同様に何かを獲得しようとして生きたのです。その中で一番、有名なのがあのイスラエル国の三代目の王であったソロモンでありましょう。彼は言いました。
③わたしの心は知恵をもってわたしを導いているが、わたしは酒をもって自分の肉体を元気づけようと試みた。また、人の子は天が下でその短い一生の間、どんな事をしたら良いかを、見きわめるまでは、愚かな事をしようと試みた。④わたしは大きな事業をした。わたしは自分のために家を建て、ぶどう畑を設け、⑤園と庭をつくり、またすべて実のなる木をそこに植え、⑥池をつくって、木のおい茂る林に、そこから水を注がせた。⑦わたしは男女の奴隷を買った。またわたしの家で生れた奴隷を持っていた。わたしはまた、わたしより先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊の財産を持っていた。⑧わたしはまた銀と金を集め、王たちと国々の財宝を集めた。またわたしは歌うたう男、歌うたう女を得た。また人の子の楽しみとするそばめを多く得た。⑨こうして、わたしは大いなる者となり、わたしより先にエルサレムにいたすべての者よりも、大いなる者となった。わたしの知恵もまた、わたしを離れなかった。⑩なんでもわたしの目の好むものは遠慮せず、わたしの心の喜ぶものは拒まなかった。わたしの心がわたしのすべての労苦によって、快楽を得たからである。そしてこれはわたしのすべての労苦によって得た報いであった。⑪そこで、わたしはわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである。
彼が書いている伝道の書は空しいという言葉で満ちているのです。私はよくお話します。彼は多くの私達が目指している山頂に立っているのです。私達はその山頂にまだ上っていませんから、こぞって、そこに立ったらどんなに素晴らしいだろう、眺めがいいだろうと、それを人生の目的とします。しかし、ソロモンはその山頂から、そこを極めた人間として、階下にいる私達に語りかけるのです。「全ては空しい」と。
私達はこの彼の言葉に耳を傾けなければなりません。私は自分の仕事において、人生計画において、すべてを虚しいものとして、やる気を失くせと言っているのではありません。できる限りの努力をして、山頂を目指すことは大切でしょう。そして、それは私達の張り合いとなり、生きがいにもなります。そのことを聖書は否定していません。しかし、その山頂に立つことがあなたが生れてきた本当の目的ではないということを聖書は語っているのです。
目的は愛である。
それでは、私達が生れてきた本当の目的は何なのでしょうか。先ほど、絶対不可欠なことは多くは無いということをお話しました。そして、その不可欠なことの数を5つから3つ、そして最後に一つに絞って行くならば、最後に残るのは何でしょうか。
イエス・キリストはマタイ22章35節―40節においてこう言いました。35 そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、36「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。38これがいちばん大切な、第一のいましめである。39第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 40これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。
律法とは聖書のことです。すなわち、聖書の教えの中で一番、大切なことは何かという問いに対して、イエスはそれは愛なのだと答えました。
イエス・キリストを宣べ伝えたパウロは聖書のコリント第一の手紙13章13節においてこう言いました「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」。
聖書は分厚い書でありますが、この書に何が書かれているのかということは、おそらく「5つの言葉」で事足りるのではないかと思います。それは「神は愛なり」ということです。すなわち、私達は神の愛のうちに生きるために生れてきたのです。私達は愛されるために生れてきたのです。
先日、ブラジルで格闘技をしながら生活をしている青年のドキュメントを見ました。彼には10人の兄弟姉妹がいて、貧しい生活ではありましたが、母一人でこれらの子供達は育てられました。ある時、自分に格闘技のギフトがあるということを弟が認めてくれて、自分の持っている全財産の100ドルを彼に手渡してくれたというのです。それによって彼は大都会のリオデジャネイロに一人出て行き、そこにあるジムで練習を続けています。以前、ブラジルに行った時に、このリオで伝道しているという私の同級生に会いました。幼子を抱えたこの家族は、日常的に「銃声」が聞こえると言っていました。リオはカーニバルでも有名ですが、とてもワイルドな場所としても有名です。
彼は日中、誰よりも熱心に練習に没頭します。お金がないのでジムが提供している一部屋のアパートに4人の仲間と共同生活。彼のまじめさに共感してくれた近所のレストランのオーナーが食事を提供してくれながらのハングリーな生活です。
夜になるとルームメイトたちは皆、リオの夜の街に繰り出して行きます。しかし、彼は一人、部屋に残り、日中の猛練習で疲れきった体を休めます。そして、毎晩眠る前に小さな聖書を開き祈ります。彼は試合が始まる前にも祈ります。「自分の勝利だけではなく、自分を打ちのめそうとする相手のためにも祈ります。相手がケガをすることがないように」と。
ある日、試合が行われました。彼は圧倒的な強さで勝利しました。その勝利の判定が出た瞬間、彼は抑えきれない喜びを表現する前に、リングにかがみこんで神に祈っていました。
後日、その試合で手に入れた報奨金で嬉しそうに金物屋に繰り出して、母親が欲しくても変えなかった鍋やら釜を幾つも買って、大きなダンボールに詰めて、10時間かけてバスに乗って帰省します。彼はこう言っていました「私にとって、一番大切なのは神様です。そして、次に家族です」。彼の生活はこの信念からぶれずになされているように見受けられました。
一目見ても明らかなのですが、彼は経済的に豊かではありません。おそらく私達アメリカや日本に住んでいる者達は彼らの何十倍、いや何百倍もの富を得ています。しかし、このドキュメンタリーには静かな幸せが映し出されていました。決して派手ではありませんが、彼の確信と平安に満ちた日常が確かにそこにはありました。
なぜなのか。なぜ、この質素な彼の日常にこのような平安や喜びがあるのか。「何かを獲得する」ということで考えれば、彼は何も獲得していません。しかし、彼の日常には愛が注がれていました。身の回りには何もないのですが、キリストが言われたように神に愛されているという彼の日常は、欲しい物を何でも手にいれているような私達の心にも訴えてくるのです。そして、彼には家族への愛がありました。貧しいけれど家族が互いに寄り添いあって、助け合って生きていく、私達の多くが失いつつあるものを彼は持っていました。
私達は神に愛されているのです。私達が生れてきたのは神の愛を受けるためです。神の愛のうちを歩むためです。もし、私達が願う100のものをこの地上で得たとしても、それが多くの人が羨むものであったとしても、もし、私達が最も大切な一つのことをミスしているのならば、この100が本当の私達の喜びにはならないのです。そして、その一つのものは神の愛です。「獲得しても獲得しても、どうしても満たされない心」それは、神様が私達の心をノックしていることなのです。「あなたが求めるものは、それではないよ」と。私の愛の内にいなさいと神様は私達に語りかけているのです。
イエス・キリストは言いました。「あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」ルカ10章41,42節。
私達の人生、多くのことに心配って終わっていくのでしょうか。否、確かに多くのことに私達は奔走されていくでしょう。そうしなければ生きてはいけない。しかし、私達はキリストが言っている無くてならないものを見出し、そして、それを手放してはなりません。その内に生きていかなければなりません。神の愛に生きるということをしっかりと私達の生きる目的に据えて、私達は残された人生の歩みを進めるのです。
先に、お話したソロモン王が「全てが空」だと何度も何度も嘆いた書の一番、最後に言った言葉をもって今日のメッセージを終わることにしましょう。
あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。伝道の書12章1節―3節