幸せって

昨日の礼拝で「幸せ」についてこんなことを話しました。

ラ・ブリュイエールという人は「我々は、我々の幸福を我々の外部、他人の評判のうちに求める。他人はみな軽薄かつ不公平で、嫉妬、気まぐれ、偏見に満ちていることを百も承知なのにだ」と言っています。

私たちが自分の幸福を外部との比較によって勝ち取ろうとしているならば、その幸福は不安定なものになることでしょう。

また、ジュール・ルナールは言いました「幸福であるだけでは十分ではない。他人が不幸でなければならない」。

私たちの幸福が他人の不幸を見るにつけ、知るにつけ、与えられていくものならば、それはいつか必ず行き詰まることでしょう。

西洋の諺には「一日だけ幸せでいたいならば、床屋にいけ。一週間だけ幸せでいたいなら、車を買え。一ヶ月だけ幸せでいたいなら、結婚をしろ。一年だけ幸せでいたいなら、家を買え」という言葉があります。

幸福は何か物によって得ることができるものではありません。しかし、私たちは何千年もの間、このことを追い求め、今もこの幻想の虜になっています。

これらに対してアルブーゾーという人は「幸福というものは、一人では決して味わえないものです」と言いました。プリオールは「幸福になりたいのだったら、人を喜ばすことを勉強しなさい」と言いました。

昨日、私はジーザスが自分の弟子たちの汚い足を洗われた出来事について話したのです。彼らはその時、自分達の中で誰が一番、偉いかと話し合っていたというのです。そんな時にイエスは腰に布を巻き、たらいに水を入れ、一人一人の弟子達の足を洗い、そしてそれを拭きました(これらは当時、奴隷のする仕事だったのです)。そして、言われました。

「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは私を教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互いに足を洗いあうべきである。わたしがあなたがたにした通りに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ・・・。もし、これらのことが分かっていて、それを行うなら、あなたがたは幸いである」。            新約聖書 ヨハネによる福音書13章

それを行うなら(私のように人に仕えるなら)、あなたがたは幸いである。

これは、ジーザスから現代社会への挑戦状なのです。私たちは全く逆の価値観の中で生きているのですから・・・。

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