評論家?

ためになる話を読みました。その人は「よい仕事ができる」とか「仕事が面白い」と感じるために一つだけ絶対必要なことがあるといいます。何だと思いますか?

それは、「参加すること」だそうです。仕事でも、遊びでも、自分が当事者になり、全力で参加していると、楽しさや情熱が生れてくるというのです。しかし、参加が100%でなく、中途半端、もしくは傍観者になっていると、たいていは粗探しをしたりして、不満ばかりが多くなり、評論家のようになってしまうというのです。

「自分はいつも立派な評論家だった」と言って人生を振り返るのと、「楽しみばかりでなく、苦労もあったけれど、あれもトライしてみた、これに没頭した」という人生・・・。

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私達はどちらを選んでいくのでしょう?

マック

追伸:

父なる神の恵みは 限りなき海ぞ
とも綱を解きて沖へ 漕ぎ出でてみよや

沖へ出でよ 岸を離れ
主の恵みのただ中へ
いざ漕ぎ出でよ

新聖歌345番 「沖へ出でよ」より 

名前

今週末、サンデイェゴにレッドソックスがやってくる。そんなわけで、最近あちこちで、「Matsusihataはどうよ」とか「Matsunakaはがんばっているかい」などと聞かれる。確かにアメリカ人にとっては「MatsuzakaもMatsunaka」もたいした違いはないのでしょうな。

名前と言えば、苗字が「Suzuki」という牧師が(私の属しているグループの大先輩であります)、シアトルでタイヤがパンクしてしまい立ち往生した時、AAA(JAFのようなところ)に電話をして苗字を告げたところ、丁重に対応してくれたと聞いたことがある。

以前、ギリシアのアテネに教会の方々と研修旅行に行った時も、「Honda」という名前のご夫妻の部屋だけ、どういうわけかスィートが提供されたということもあった。

私の苗字は「OKURA」。この苗字では、何か恩恵にあずかることはなさそうだ。

マック

追伸1:「マック」ということで、マックでビックマックをいただいたこともありません。今のところ・・・。
追伸2:こんなベジタブル系の私ですが、ジーザスは私の名を呼んでくれるって聖書は書いているんですよ(ヨハネ10章3節)。これが一番、嬉しいね。

ご案内

一人のサマリアの女が水を汲みに来たので、イエスはこの女に「水を飲ませてください」と言われた。 (新約聖書:ヨハネによる福音書4章7節)

私たちサンデイェゴ教会の新しい年度の標語は「キッチンやオフィスでもイエスを見だす」となりました。私達一人一人はそれぞれが自分の生活の座に暮らしています。聖書を読みますと、神は「眠っている者」にも、「臥所を涙で濡らしていた者」にも語りかけていることに気がつきます。人々は井戸辺で、給仕をしているキッチンで、仕事をしているオフィスで、結婚式場でイエスに出会いその言葉を聞きました。取税人や遊女が集まる食卓で、人々は宝石のようなイエスの言葉によってどれだけ希望が与えられ、力づけられたか図り知ることができません。

この一年、聖書の言葉が私達の生活のただ中に具体的に介入していることを確認して、そのことによりジーザスと共に人生を歩んで行くということがどんなに大きな喜びであるのかを知りましょう。

そこで、この一年、礼拝でのメッセージをテーマごとにシリーズで語らせていただきます。例えば「結婚生活」「ストレス」「老い」「育児」「病」「試練」「楽しみ」等、日常生活に私達が経験する事がらについて聖書からの知恵と励ましをお話します。聖書の言葉が自分とは違う次元の話しなのだというのではなく、私達の日常生活の中に確かに力と知恵を与えるものなのだということを確信しましょう。聖書の言葉の中にこそ、現代社会の問題に対する解決、あなたの個人生活の悩み、そして、私達の生活の中にある喜びの秘訣が記されていると確信します。

その第一回目として「たった一度の人生のためのガイドライン」というトピックについて6月24日から7月22日まで礼拝でお話します(変更になることもあります。その場合はご了承下さい)。どなたもお気軽にどうぞ。


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マック

リモートコントロール

リモートコントロールを見つめ直し、そこから驚くべき開発をした人達がいた・・・(プロジェクトXの田口トモロヲさんにナレーションを語っていただきたい)。

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なんと説得力のあるお言葉。事物をただ眺めているだけじゃだめなのね。こういうのってば、学校では教えてくれません。でも、これからはこんな柔らかさが求められていくんでしょーな。巷で教えられています。

マック

追伸:別にこれが父の日のプレゼントであったというわけではありません。
追伸2:でも、いいな、これ・・・。
追伸3:これでも、私は失くしてしまうような予感がします。

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追伸4:冷蔵庫ぐらいの大きさになれば・・・。
追伸5:でも、それってもう「リモート」じゃないじゃん!

父親(男達に贈る言葉

父の日ということで「父親達(男達)に送る言葉」というタイトルで聖書のマルコによる福音書9章15節‐29節から話をした。

群衆はみな、すぐイエスを見つけて、非常に驚き、駆け寄ってきて、あいさつをした。 イエスが彼らに、「あなたがたは彼らと何を論じているのか」と尋ねられると、群衆のひとりが答えた、「先生、口をきけなくする霊につかれているわたしのむすこを、こちらに連れて参りました。霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。そこで人々は、その子をみもとに連れてきた。霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。 イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「言うことも聞くこともさせない霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。 すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。 しかし、イエスが手を取って起されると、その子は立ち上がった。 家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」。              

      
                                     
このところには今日でいいますところの「てんかん」のような病気で悩み苦しんでいた子供とその父親の姿が描かれています。今日はこのところから3つのことをお話します。①父(男)にはできないことがある②父(男)には叫びがある③全ての父(男)には立ち返ることができる本当の父がいるということです。

つづき↓

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父、駆ける

朝は息子のサッカーの新しいシーズンに向けてのミーティング。あれよあれよとアシンスタント・コーチに就任。どうしましょ。

それから教会に行き一時、仕事。そして、アヂヂと照りつける太陽の下、子供の日本語学校運動会。

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何十年ぶりかの綱引き。今のところ腰痛頭痛腹痛歯痛なし。でも、まだ数日は様子を見る必要あり。

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運動会を途中で退会して、息子の現地校のクラスメートの誕生パーティーに。子供をドロップオフして私は再び教会へ。息子は遊びに没頭。こりゃ、楽しいでしょ。

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その家の目の前のストリートがOKINAWA RD、そして道の向こうは太平洋。たまたまその時「ネーネーズ」を聞いていたので、どこからか「沖縄のおばあ」が出てくるのではないかと不思議な感覚。

またまたこんな土曜日。明日は父の日。礼拝でのメッセージは「父親達(男達)へ贈る言葉」。父の日を前に駆け回る父から、自分への叱咤激励を含めて、心込めて語らせていただきます。よろしかったら、どうぞ。

平安

この「世俗牧師宣言」というブログを始めるにあたり、一つ覚悟していた事。それは、自分や家族のことを色々とさらけ出すことになるだろうなということ。一日の出来事を書くにあたり、大切にしている者達のことに触れずに、そうそう毎日、書くことがあるほど華やかな日々を私は送ってはいない。そして、ブログを始めてみて、分かった事は平凡な日常の中に実は、キラキラと輝く宝がいたるところにあるということ。このことに対する「気づき」はブログをしなければ分からなかったことで感謝している。

ということで、家族のことについて。今までも明け透けに書いてきたので、私の母についても書こうと思う。母は現在76歳、半世紀以上、牧師として働いてきており、現在も福岡において、教会の方々に支えられながらその働きをしている。一般的に考えられている肉体の状態ということを考えれば、とうにリタイヤの年は越えているのだが、ジーザスに仕えるということにおいてリタイヤはない。

その母の調子がここ一月ほどあまりよくない。昨日の検査では甲状腺に3つのポリープが見つかった。これから精密検査がなされて、この先の対応が決められていくことだろう。このために多くの方々が母を助けていてくださることに対して感謝は絶えません。

私の身の回りにも、病気に伏している家族や友人を日本にもつ方々がいる。これらの方々は度々訪日して、愛する者の病床に立つ。「距離」を抱える私達にとって、このような時に信仰があるということが、どれだけの力となっていることか。「命」というものは、私達が握っているのではない。それは、全て神の御手にあるのだ。

母のライフ・メッセージになっている聖書の言葉。

神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万時を益となるようにしてくださることを、私達は知っている」 ローマ人への手紙8章28節

本来、心騒ぐ時なのだと思うが、ジーザスが言われたように、言葉では説明できない平安が心にある。

わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」 ヨハネによる福音書14章27節

マック

追伸:もし、皆さんの祈りの片隅に母を覚えていただけたら嬉しいです。

 

愛してるよ

以前、「I Love You と日本人中年男性(つまり、ワタシのこと)の関係」について、書かせていただきました。一言で言えば、私達、日本人男性にとって「I Love You」と口に出すことは、とてもチャレンジグなことであるということであります。

この傾向というのは日本人のみならず、多くの東洋人にも当てはまるようでして、私達モンゴロイドのDNAにはそうやたらめったらこの言葉は言ってはならぬというようなものが組み込まれているのかもしれませぬ。

でも、ここはアメリカ合衆国。子供を学校に送っていけば、あちこちで親と子のハグ、ホッペにキッス、そして最後は決まって、絶対に「アイ・ラブ・ユー」。日本と韓国の血を引いた私達の子供達も必ずやこの光景を見ているはずでして、そして彼らもアメリカンでありまして、やはり、なぜグレンやサマンサのお父さんやお母さんは「I Love You」と言うのに、ボクのワタシのパパやママはそう言わないんだろうなどと子供達もけっこう寂しい思いをしているのではないかと、常日頃、私達夫婦も感じていたのであります。

郷に入っては郷に従え!
When in Rome, do as the Romans do!

そこで「三十路終了間際、男は黙って背中で語れ、腕白でもいい、たくましく育って欲しい(これは関係ない」的な環境に生きてきたワタクシは奮起しました!最近は彼らがベッドに行く時に「アイ・ラブ・ユー」(そう、あの永ちゃんのように・・・冗談)と言って、彼らを抱きしめるようにしました。そうしたら、彼らもやっぱり嬉しいようで、「I Love You」と言いいながら、 嬉しそうな顔してベッドに行くようになりました。

昨晩も、いつものように長男にハグして「アイラブ・ユー」と言うと、彼もすかさず小さな体で私を抱きしめて、ワタシの耳元でこう言い返してきました。

「愛してるよ」。

・・・・・・。

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マック

追伸:これと同じ体験を田口壮選手もしたようです。でも、彼の場合、奥さんとの電話を切る時に「愛しているよ」と言っていることを(田口さん、偉い!)、子供が聞いていて、この息子さんと電話を切る時に、息子さんが「愛しているよ」と田口さんに言ったということです。

田口さん曰く「常に耳をそばだてている寛は、それを「電話を切るときの挨拶」だと思い込んでいるのでしょう。いつか出会う大切な人に、その言葉はきっちり取っておきなさいね」。

私も同感。息子よ、日本語でのアイ・ラブ・ユーはおとうに使わないでいいから、大切にしておきなさい。

提案:我が同胞、日本人の男達よ!照れずに解放されようではないか。奥さんは、子供達は私達の愛情表現を待っているよ!黙ってちゃ、やっぱり伝わらんよー!