べエルシバでわしも考えた

2011年2月22日(火) 068 「・・・わたしが井戸を掘ったことの証拠としてください。これによってその所をべエルシバと名づけた。彼らが二人でそこで誓いをしたからである」 (創世記21章30節、31節)。

べエルシバの遺跡(世界遺産)には、この創世記に記されているアブラハムが掘ったと言われている井戸がある。この井戸は70メートルの深さがあると説明書きがあった。いったい全体、彼はその井戸のためにどんなに長い時間と大きな労力を使ったのだろうか。

今回の旅ではこのようなテル(丘)と呼ばれる遺跡をいくつも見てきた。その2011年2月22日(火) 081 中で一つのことに気がついた。それはどれも敵からの侵入を防ぐために強固 な城壁を築いているということ。そして、その城壁内に大変な労力をもって深い穴を掘り、水を確保していたということだ。これはメギド、ハツォール、そしてマサダでも見受けられたし、ダビデの城壁の中にも多くの犠牲をはらって、見事な泉へのトンネルが掘られていた。言うまでもなく、水は命のもとであり、どんなに堅固な城壁が築かれていても城内に水がなければ、陥落は時間の問題だからだ。

ゴラン高原にしても、なぜ、あの場所が最重要な土地となったかというと、ゴランを制するものがヘルモン山からヨルダン川へ流れ込む水、そしてガリラヤへ流れる水源をおさえることを意味するからであり、それはイスラエルにとってどんなに犠牲をはらっても死守すべき土地だからだ。

話は少し変わるが、死海、ソドムのテントで一夜を過ごした時に、毎晩しているようにその日に着ていた服を洗い、外に干した。すると30分もたたずに完全に乾いてしまったのだ。カリフォルニアも乾燥しているが、ここの比ではない。常時、水を飲んでいなければ、ここでは瞬く間に脱水症状におちいってしまう。しかも、それでも今は冬なのだから、夏の死海を考えたら目まいがする。どれだけ、この国で水が貴重なものであるかということを思う。

この厳しいこの国の現実は雨が降っていてもスプリンクラーを回しているような国から来た者にとってはアイオープニングなこととなった。すなわち、これまで私が聖書に記されている言葉として話していた「水」とか「渇く」という言葉は、本当の意味での「水」ではなく「渇く」ではなかったということだ。

ヨハネ4章においてイエス様がのサマリアの女に言われた「この水を飲む者は誰でも、また渇くであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、渇くことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命にいたる水がわきあがるであろう」(ヨハネ4章13節、14節)という言葉がどんなにこの女には驚異的なものであったのかということを私は本当の意味において理解していなかったのではないかと思う。ヨハネ黙示録20章6節にいたっては「渇いている者には命の水の泉から価なしに飲ませよう」という言葉があるが、水を得るためには時に命までもかける人間と自分とでは、この言葉を受け止めるその心に大きな隔たりがあった。

このような経験はこれからの自分にとって宝となると思う。

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