「なんでこんなことが」ということが私達の人生にはあります。「神よ、なぜですか?!」ということです。
私にも分かりません。まさしく、信仰というものが揺れに揺れるそんな時に、私達を信仰へと食い止めるものがあるとしたら、それは何でしょうか。私にとって、それは「バプテスマのヨハネの最期」なのです。彼は荒野に住み、いなごと野蜜を食べ、らくだの毛衣に身を包み、その生涯の全てをイエス・キリストの道備えのために用いた人です。
そんな彼ですから、どんなに大きな報いを神様は彼のために備えられたのだろうかと私は思います。イエスのために禁欲的な生活に徹した彼ですから、イエスの出現後には人間的な幸せというものも体験して欲しいと思うのです。
しかし、実のところ、彼はそのような報いを全くえることなく、獄に捕らえられ、宴会の席で舞を踊った娘とその母親の軽薄な願いとその場にいた権力者の愚かな見栄により、首がはねられ殺され、その首は盆にのせられたのです。これがその生涯、神に全く献身をして生きたヨハネの最期です。これ以上の「なぜ?」があるでしょうか。
この「ヨハネという前例」は私の「なぜ?!」という魂の混乱から、その「なぜ?」というものも自分の人生にあり得るということ、そして確実にその「なぜ?!」にも神の支配がおよんでいるのだということに気がつかせてくれるものなのです。
「あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった」(マタイ11章11節)
マック