古今東西、人間は色々な「救い」について考えてきた。その多くは「病が治る」とか、「豊かになる」というものだった。今もこの類のことに人はどんどん引き寄せられて、吸い込まれており、これからもそうだろう。
しかし、聖書はその最初から人の「罪」というものに焦点をあてて、人がヤンヤヤンヤ言っても、決してそこからぶれることなく、その罪からの救いということを一貫して語り続けている。つくづく思うのだが、このような視点は人の心から生まれるうるものではなく、やはり高い視点から人というものを知り尽くしている存在からしか生まれ得ないのではないだろうか(実際に私達が今日「あれはまずかろう」「これはけしからん」と言っている事柄のベールを一枚一枚はがしていけば、その根源には私達の罪がちらちらと見え隠れしている)。
さて、それではこの罪はどうしたら解決されるのだろう。水できよめればいいのか。確かにその時、私達は「すっきり」する。しかし「すっきり」は「それっきり」なのだ。難行苦行に取り組めばいいのか、いいや、人の心はちょっとやそっとじゃいかない我欲で満ちており、自分を鞭打ってそれが消え去るわけではない。
そもそも罪とは「自らで解決できる」ような代物ではなく「赦される」べきものなのだ。そして「赦された」ということだけが、その後の生き方の力の源となる。やはり、つくづく思う。このような視点は人からは生まれ得ない。
だから、人として生まれたからにゃ、一生に一度は聖書を手にとり、それをじっくりと読むべきだと私は思う。そこには真の言葉があるから(言葉がふわふわと浮遊しているような今、この時をおいて他にいつがあろうか)。
「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」マタイによる福音書24章35節 「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です」詩篇119篇105節
マック