「クリスチャンは品行方正な人がなれるのですか」。時々、聞かれる質問です。「そうです、品行方正になるまでクリスチャンにはなれません」「じゃー私、がんばります」(何をがんばるの?)。「そうです、歯を食いしばって、がんばってください」ということなのでしょうか。
そもそも私達は自分の努力で神に近づくことができるのでしょうか。私達を土から造られた神様は「100回、滝に打たれれば私はあなたを救おう」と言われるのでしょうか。「いや、あなたが浴びた滝の水は冷たさが足りないから、別のところでやり直しだ」と言われるでしょうか。自分の修練で神に近づこうとすることは、ノミが自分の力で太陽に触れようとするようなものです。
クリスチャン作家のフィリップ・ヤンシーはこんな言葉を残しています「天国に行くには何をしなければならないかと聞けば、たいていの人は「良いことをしなさい」と答える。イエスの話はその答えと矛盾する。私達がしなければならないことは「赦して、助けて」と叫ぶ事である・・・。
また次男坊の話になりますが、彼がまだ三、四歳の頃のことです。ある夜、私は自宅のコンピューターの前に座って仕事をしていました。その横では次男坊が何かをしていました。特に気にとめることなく仕事をしていると、突然、スクリーンの画面が真っ暗になりました。どうやら彼がコンピューターの電源を切ったようです。「こらー!」と叫ぶ私の声を聞くなり、彼は一目散に逃げ去りました。しかし、逃げた先で妻に捕まり、私の元に連行されてきました。その時に妻はおそらく世界中で一日に何千回と親の口から語られるであろう言葉を彼に言いました「パパに何て言うの・・・・。ごめんなさいでしょ」。
彼の口は“へ”の字となり、頑として「ごめんなさい(彼の場合はごめんちゃい)」とは言いません。妻と私はここで妥協してはならぬと、何度も彼の口から「ごめんちゃい」という言葉がでるのを辛抱強く待ちました・・・。しかし、彼の口からその言葉が出てくることはなく、やがて頬からは涙がこぼれてきます。その時、私は内心、思っているのです「おい、息子よ、言っちゃえよ。パパはお前を思いきり抱きしめたいと思っているんだ・・・」。
こんな日常の出来事の中に私達は父なる神様の思いをうかがい知ります。私は父として、「赦して欲しかったら腕立て伏せ20回しろ」と言う気持ちは全くありません。ただ「パパ、ごめんね」という言葉だけが聞きたいのです・・・。
「神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」(詩篇51篇17節)
マック
くわ〜、素晴らしい。
これが、自分と同い年の盟友が書いた文章とは、本当に誇らしい。
昔に比べると最近の「世俗牧師宣言」は「キリスト教内キリスト教ブログ」の色が濃くなってきて、長文のポストはサラッと飛ばし読みすることが多かったのね。
身も蓋もない言い方をすれば、最近のパスターマックのブログって、あくまでも俺にとってはだけど、おもしろくなかった訳さ(笑)。
だけど、今回のは物凄く分かりやすくて素晴らしい。
おまえとカミさんと次男の、3つの立場すべてを慮って涙を流してしまった。
たしん、励まされる言葉をありがとう。大切なメッセージはすぐ近くにいつもあるもんだね。そんな気づきが日々、与えられるといいね。