「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」 マタイ10章9節
前回の妻の誕生日に、子供達がそれぞれの小遣いを出しあって、キッチンで使える包丁とフライパンを買って、彼女にプレゼントしていた。微笑ましいことだが、よくよく考えたらその小遣いは親から子に与えられているものであり、子はそれを使って親を喜ばしているのだ。
CSルイスも同じようなことを書いている。「我々は、ある人が神のためにこういうことをしたとか、神にこれこれのものを献げたとか、よく言うが、つっこんで考えればそれは、小さな子どもが父親のところに行って、『パパの誕生日プレゼントを買うんだから6ペンスちょうだい』と言うのと少しも異なるところはない」
私達が神様のために何かを捧げること、それが奉仕であっても、時間であっても、物であっても、それらの出所は全て父なる神様のものなのだ。だから、神様のために何かをしたということは、おかしな表現で、神様からいただいている数え切れない恵みに対して、あれもこれもさせていただいたということこそが正しいのだ。
私達の心の中にこの思いはあるだろうか。誰一人とて、何かを持参してこの世界に生まれてきた者はいない。もし私達が何かを持っているとするならば、それらは全て父なる神から与えられたものなのだ。その中から喜びと感謝をもって神様にお返しできたら、そのことによって、父なる神様が喜んでくださったら、こんなに嬉しいことは私達にはないはずだ。この喜びと感謝こそが、私達がする全てのことの原点なのだ。
包丁とフライパンをもらった家内がその後、どうしたかですって?もちろん、子供達の心をとても喜び、これからも、ますます子供達のために最善のものを与え続けていこうと願ったに違いありません。
教会で毎月、発行している教会報8月号から。