なんも分かっちゃいないのです

pouringwineしかし彼はわたしの歩む道を知っておられる。彼がわたしを試みられるとき、わたしは金のように出て来るであろう(ヨブ 23章10節)

かつて箱根ケズィックの講師をされたアラン・レッドパス師は『勝利への奉仕』の中でこう言っています。

あなたは主を喜んでいる人を見かけると「あの人が喜んでいるのは、まことに結構なことだが、私のもっているような問題は何ひとつないのだ。彼には悩みなどないのだ」とおっしゃることでしょう。 しかし、本当にそうでしょうか。あなたがちょっとその人の生活の内側を見るのなら、「喜びがあるということは、悩みがあることの印」であることを発見することでしょう。

神が私達の人生に与えられる重荷は、ちょうど、ぶどうが摘まれ、押しつぶされるようなもので、ぶどう酒はそのようにしてできます。私達はたいていぶどう酒の喜びを考えるだけで、その喜びの裏に試練の重圧があることに気がつかないのです。 (クレイより)

ぶどうの木は冬の間は剪定されて無残な姿となります。しかし、その剪定は収穫のために必要なことです。ぶどうの木は切られることにより豊かな実を結び、つぶされることにより、味わい深い果汁がしぼりだされるのです。

イースターの喜びの前には
苦しみのカルバリがあったのです。
御国の喜びを知るためには
死を経験しなければなりません。

マック

追伸:牧師になって16年、紆余曲折して悟ったことは・・・、
自分達以外の夫婦のこと、自分が属する教会以外の教会のこと、
この二つに関して、私達はなーんも分かっちゃいないということ。

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