今日はノースカウンティ-キリスト教会の中島光成牧師の礼拝メッセージでした。中島先生とは神学校時代に同じ屋根の下、二年、共に過ごしました。そこでは夏になると皆、夏期伝道のために各地に出ていくのですが、私達は学校に留まり、留守番のようなことをしていたことがあり、原則、寮ではテレビが禁止されていたのですが、荷物部屋と呼ばれる物置き部屋にどういうわけかあった(笑)テレビで野茂とランディージョンソンが投げ合ったオールスター戦を見た仲です。長い説明ではありますが、そんな当時を知る先生が、今日礼拝で話してくださった「御国のたとえ」です。よかったらどうぞ。
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140803SDJCC礼拝説教
マタイ13章1節~58節
「御国のたとえ」
主の御名を賛美します。今日は、久しぶりにここサンディエゴ教会で皆さんと一緒に礼拝をささげられることを嬉しく思っています。いつもノースカウンティー教会のためにお祈りしてくださり、具体的な援助をもって支えてくださっていますことを感謝しています。今年、ノースカウンティー教会では、久しぶりに洗礼を受ける方が起こされました。教会の中身の成長は感じていたのですが、なかなか洗礼を受ける方が与えられず、寂しく思っていたところだったので、私たちの喜びはひとしおでした。さらに教会が力強く前進できますようにお祈り下さると感謝です。
さて、私たちは、こうして礼拝に集います。また、それ以外のいろいろな集まりで集います。そこでこの聖書を一緒に味わうわけです。聖書を私たちに語りかけられている大切な神様の言葉として読んでいきます。そして、私たちは、時々思います。そんなに大切なら、もっとわかりやすいといいのにって。今日は、そう思う私たちが聖書とどう向き合っていったらいいのかということをマタイの13章全体に目を配りながらお話してみたいと思います。
マタイの13章は、天の御国のたとえ話集です。神の国とは一体どういうものかが、様々な角度からたとえ話で語られます。イエス様は、どうして神の国についてたとえ話で語ったのでしょうか。この質問は、神様は、どうして現代を待つことなくイエス様をこの世に遣わしたのでしょうか、と言う質問にもつながります。もしイエス様が今おられたら、一回限りの、音声としては消えてゆくたとえ話で神の国のことを伝えなくてもいいですね。今なら、録音できます。イエス様の肉声のメッセージCDがあればどんなにいいでしょう。離れたところでも、そして何回でもイエス様の話を聞くことができます。また、神の国を映像にして伝える事だって考えられるでしょうし、インターネットで簡単に全世界にイエス様の姿と肉声で持って福音を伝える事だってできるのです。なぜ神様はそうせずに、2000年前のあの不便な時代にイエス様を遣わしたのでしょう。そして、なぜイエス様はたとえ話でそれを伝えたのでしょう。
様々な答えが考えられます。第一に考えられるのは、神の国の福音が奥義であるからだ、ということだと思います。神の国の福音、イエス様を救い主と信じて救われると言う出来事は、奥義であるということです。秘伝の奥義である。それは、ミステリーであり、シークレットである。ということです。神の国の福音は、簡単に手渡すにはもったいない知らせ、決して安売りをする内容ではないと言うことです。マルチメディアや映画で表したからとて、表せるような代物ではないと言うことです。誰でもアクセスできて、その情報を頭に入れればお手軽に救われる、そんなことはないのです。
なぜ、たとえ話なのか、心からの求めのない者には何のことやら分からなくする為です。なぜ、たとえ話なのか、心から求める人には、印象深くその真理が理解され、残る為です。なぜ、たとえ話なのか、それを聞いたものに決断を促し、生活の中に生かすかどうかを迫る為です。神の国の良い知らせは、説明されて頭で納得するものではなく、物語られて心と体で体得していくものです。ですから、礼拝を中心とした教会を形成すると言うこと無しに、聖書の言葉は実際は分からないのです。
そういう意味で、今日のメッセージはどう話して良いか、むずかしいです。あまり解説して頭で分かりやすくすることが良いことなのかどうか。むしろ今日は聖書朗読だけ、後は祈って終わり、一人ひとりがどのように悟り生活にいかすのかにまかせます、でも良いのかもしれない。けれど、マタイもたとえ話の解説を福音書に入れていますし、御言葉はいまでも聖霊を通し心で受け止められない限り分かりませんから、祈りつつ用意させていただいた話をさせていただきます。
マタイの13章には、7つのたとえ話があります。それぞれを一回のメッセージで扱っても良いようなところですが、今日は、それら全体を眺めることで見えてくる世界を味わいたいと思います。三つのことをお話します。第一は、御国のことば、第二は、御国の特徴、第三は、御国への鍵です。
Ⅰ、御国のことば
まず、最初のたとえ話です。イエス様は、ある時こんな話をされました。注意深く聞いてください。
種を蒔く人が種まきに出かけた。ある種は、道端に落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。別の種は、土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根が深くないために枯れてしまった。また別の種は、いばらの中に落ちた。すると、芽が出て成長し始めた、しかし、いばらが伸びて、ふさいでしまい、ふにゃふにゃで弱くなり、実はつかなかった。ほかの種は、良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実をむすんだ。
こういう話です。弟子達がこの話の意味を聞きました。イエス様はその意味を説明しました。少しことばを変えて説明してみます。
種とは、御国のことば、神の国のはなしのことです。今で言うならば、聖書の言葉といってもいいですし、こうした礼拝などのメッセージと考えてもいいと思います。そして、種が落ちた場所は、それを聞いた人のことです。道端、岩地、いばらの地、良い地、という四種類の人がこの話では表されたと言うことです。今から、どんな種類の人たちかということをお話しますので、自分はどうだろうと思いながら聞いて下さい。
道端に現された人は、御国のことばを耳では聞くが心で聞かない人です。そういう人は、聖書の言葉も雑誌に載っている占いページの言葉も同じようなものとして受け取ります。礼拝で聞く説教も喫茶店で友達から聞く話も同じようなものとして受け取ります。そして、ほとんどの場合、聖書の言葉やメッセージの言葉を軽んじ、他の人の言葉に影響されます。そして、いつしか、みくにの言葉はその人の心の中から消えています。
岩地に表された人は、聖書の言葉やメッセージを聞くのが大好きな人です。特に有名な人の説教やメッセージCD、ビデオなどが大好きです。聞くとすぐに喜んで受け入れます。けれど、聞き方が浅いのです。あまり考えないのです。聞いたことと自分の生活をつなげないのです。メッセージを自分自身の深い部分でゆっくり考えないのです。心が耕されていないのです。心の中に硬い岩のようなところがあるのです。ですから、みくにの言葉を聞いたときは嬉しく、恵まれたような気になるのですが、自分の心の深いところとつながっていないので、気に入らないことや困難なこと、辛いことや、迫害などに出会うと、嫌になってしまい、わがままな自分が出てくるのです。
いばらの地に表された人は、聖書の言葉やメッセージを聞き、そこに示された神様の御心にしたがって生きることが大切なのかなと思っています。けれど、この人は人の目をとても気にします。常識が大事です。お金持ちになりたい、手に入れた財産を減らしたくない。そんなことが人生を動かします。自分や家族が苦労なく生活することが、やはり一番。そうも思っています。ですから、一見みくにの言葉を喜び、それに従って生きているようにも見えるのですが、健全に成長できず、実を結ぶこともできないのです。
良い地に表された人は、みことばを聞いて、その深みを悟り、自分の心の深いところと対話させ、実生活に生かしていく人です。そういう人は、いわばこの世にあって既に神の国を生きることを始めた人と言えます。そういう人は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、という聖霊の実を、あるいは、悔い改めの実を、宣教の実を、結んでいくのです。
皆さんは、今の自分をどこに見ましたか。ある人は、自分は岩場だなあと思ったでしょうか、いばらの地だなあと思ったでしょうか。きっといろんな要素が混ざっていると言うのが現実であろうと思います。
Ⅱ、御国の特徴
そこで第二の点に行きましょう。御国の特徴です。種まきのたとえばなしの次にマタイは、イエス様のしたたとえ話を三つまとめて続けます。そこには御国の特徴が角度を変えて描かれます。
最初のたとえは、こんな話です。13章24節から30節です。「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
どういうことでしょうか。良い麦と毒麦はこの世にあっては区別しにくい、ということです。それを判断するのは、私たちのできることではないということでもあるでしょう。そして、世の終わりには、悪い麦、すなわちこの世にあって、自分を優先し神様の御心を大切にしなかった人は、火の燃える炉のようなところに入れられるというのです。良い麦、すなわちこの世にあって、艱難に耐えつつ神様の御心を大切にした人は、天の御国で輝く、というのです。皆さんはどちらがいいですか。
次は、からし種のたとえです。31節32節。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」
天の御国は、この世においては一見、価値のないような、小さなものに見えるのだ、ということです。この礼拝だってそうです。毎週ここに集まって、私たちは一体何をしているのでしょう。この世的に見たならば、こんな風に毎週集まったって、何のいいことがあるんですか、みなさん。冷静に考えてみてください。他にやる事は一杯ありますよ。忙しい私たちの毎日です。でも、日曜日ごとに集まるんです私たちは、なぜですか。この一見価値のないような、この集まりの積み重ねが、大きな価値のある神の国へとつながっていることを知っているからです。そして、不思議なことですが、毎週ではないにしろ、時々でも礼拝の中で神の国の豊かさを、福音の素晴らしさを体験しているからではありませんか。
私は、信徒として礼拝に参加していた頃、御言葉の圧倒的な力の前に、神様の恵み深さに感動して自然と涙が溢れてきたことが4年に1回くらいありました。ワールドカップみたいですね。牧師としてメッセージをするようになって、準備をしている時に、御言葉の素晴らしさ、神様の恵み深さを感じてなきそうになる事は増えてきています。
皆さんは、如何ですか。礼拝の中で神の国の素晴らしさを感じて、震えるような、思わず涙があふれるような、そんなことがあったら、感謝ですね。毎回でなくてもいいのです。むしろ、毎回でないほうがいいのかもしれません。何年かに一回でもいいのです。ああ、ここに神様がおられる、イエス様がこんな私を愛してくださっている。そういう圧倒的な体験を礼拝の中でなさった方は強いですよ。
「男はつらいよ」という映画がありますね。寅さんというおじさんが主人公の映画ですね。この中にも、「男はつらいよ」シリーズ、好きですという方もいるかもしれません。その寅さんが、映画の中で、人生に失望したある人を励ましてこう言いました。
あぁ 生まれてきて良かったな、って思うことがなんべんかあるじゃない。そのために人間生きてんじゃねえのか。そのうちお前にもそういう時が来るよ、な?まぁ、がんばれ。
寅さんを演じた俳優は、クリスチャンだったそうですが、礼拝に希望を失いかけている人にこんなふうに言うかもしれませんね。
「ああ、礼拝に来て良かったな、って思うことがなんべんかあるじゃない。そのために人間毎週礼拝にくるんじゃねえのか。そのうちお前にもそういうときが来るよ、な?まあがんばれ」わたしが言うんじゃ、受け入れにくくても、寅さんに言われたら日本人の我々は心にしみるかもしれないですね。でも私たちにかけられている言葉は、寅さんどころではない、私たちのために命を投げ出してくださったイエス様の言葉です。イエス様が、私たちを礼拝に招いてくださっているのです。礼拝も人生と一緒です。あきらめないことです。やめないことです。
話は、ずいぶんずれた感じがしますが、小さなこの礼拝は、いずれ大きな神の国へとつながっていくのです。数回でなくてもいい、たった一回でも御言葉による深い神経験をするならば、この礼拝に対する姿勢は変わってきます。
最後は、パン種のたとえです。33節「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」パン種、イースト菌や酵母菌のことですね。パン種、は沢山の小麦粉に対して少しだけ入れます。まぜてしまうとどこにパン種があるか分からなくなってしまいます。けれど、パン種は、ある条件を満たすと。生地全体を膨らませます。これが、神の国の特徴の三番目です。神の国に生きる人は、世界全体から見ると少数でしょう。他の人と、神の国を生きるキリストの弟子は、混ざってしまえば見分けがつかないのです。そして、それでいいのです。時が来たら、聖霊の助けと言う条件が満たされたら、世界全体に良い影響を与えているのです。世界の歴史を見ても、いかにキリストの弟子達が既に世界に良い影響を与えているか計り知れません。目に見える部分ですらそうです。神の国の視点から見たら、どれほどであろうか、と想像するとワクワクします。
Ⅲ、御国への鍵
ここまで、4つのたとえを見てきました。神の国はことばで話され、伝えられること。聞く人の心の違いで、神の国を経験できるかどうか違ってくること。神の国を生きている人とそうでない人は区別がつきにくいこと。神の国は、始めは小さく、価値が分かりくいが、終わりには大きくなること。神の国に生きる人は、数は少なくとも全体に良い影響を与えることが、たとえ話で語られました。
最後の三つのたとえでイエス様は、神の国を自らのものとできるための鍵を、ヒントを教えておられます。まず、イエス様のたとえ話を聞きましょう。44節から50節。
「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」
最初の二つはほとんど同じ事です。一番大事なことは、神の国を見つけた人は、とんでもない価値の高い宝物を見つけた人のように大喜びするのです。そして、それまで自分が持っていたもの全部と交換しても惜しくない、そんなものとは比べ物にならないくらいの価値高いものを神様が用意してくださったということを知ったものの大喜びです。
皆さんは、そのような神の国に生きる喜びがありますか?もしないとしたら、どこか神様の前に正される部分があるのでしょうね。もしかして、自分は救われて当然、と思っていませんか。自分は教会にこれて当然、礼拝にこれて当然、と思っていませんか。あの時イエス様を信じたんだから罪が赦されて当然、救われたんだから自分には罪がなくって、当然天国、って思っていませんか。当然じゃないですよ。
救われるってのはそんな簡単なことじゃないですよ。罪のない神の子イエス様が十字架で拷問され、なぶり殺しにされないといけないくらい私たちはどうしようもない罪人なのです。自分の罪のどうしようもなさに気づき始めたら、礼拝できて当然、つまらなくなったら、自分のチョイスでやめますわ、別のところにいきますわ、とはならないはずです。自分の罪の深さに気づき始めたら、礼拝させていただける、教会で奉仕させていただける、献金させていただける、という風に変わってくるのです。自分の罪の深さに気づき始めたら、礼拝の中で圧倒的な神様の恵みに心動かされ、時には涙し、時には心に大喜びがわきあがってくるのです。
私だって、時には思います。自分のために自分の好きな車を選んで買ってみたい。自分の家を買ってみたい。私だって時には思います。家族であちこち旅行に行きたい。ノルウェーかどこかのフィヨルドをクルージングで観光してみたい。想像します。
でもね、見つけちゃったんです。宝物を、そして、それは持ち物全部を売り払うようにして、自分の財産や時間や能力を神様の働きに使えば使うほど、その宝物の価値が分かってくるのです。この世で、人をだますようにして何百万ドルともらって、一時的に大きなお屋敷に住んだとしても、そんなものは神の国においてキリストの弟子がいただけるものからしたら鼻くそみたいなものです。自由に世界中の素晴らしい景色を見にいけたとしても、そんな景色は、神の国においてキリストの弟子が見せてもらえる、とんでもない絶景からしたら、目くそみたいなものです。私は、いつもではありませんが、時々そういうことを感じるのです。
最後のたとえ話は、毒麦のたとえ話と似ています。この世の終わりに、私たちは振り分けられます。イエス様に従ったものと、そうでないものと。そうでないものは残念ながら、捨てられるのです。イエス様に弟子として従うかどうか、御国への鍵です。
イエス様の話には、二つの反応がありました。弟子達は、イエス様から、聞かれるんですね、これらの話が分かったか、って。そしたら弟子たちは、「はい、分かりました。」っていうのです。本当に彼らは分かったのでしょうか。そんなに簡単に、「はい」って言っていいのでしょうか。その後の彼らの言動を見ると、分かっちゃあいなかったですね。彼らは、最初のたとえで言うと、「岩場」のような、安易にイエス様の話を聞く人たちでした。けれど、その後の試練と聖霊の助けにより、本当に分かった者たち、「良い地」の者達になったのです。大切なことは、更に深く分かりたい、分かった範囲でキリストの弟子として従って生きたいという願いです。
もう一つの反応は、イエス様のふるさとの人々のような反応です。この世のことしか分かりません。イエス?あいつはあの貧しい大工のこせがれで、確か正式な結婚前にマリヤがはらんだ子で、俺は子供ん頃、あいつを泣かせたことあるで、俺は、あいつの弟シモンと一緒に仕事してるぞ。あいつは、別に正式な先生でもないし、何であんな風に教えるんだ。どこで勉強したんだ。確かにその通りです。この世の情報にだまされて、イエス様の霊的な深みを感じることができません。
皆さんは、どちらですか。イエス様が、これらのことが分かりますか、とあなたに聞いたとき、何と答えますか。弟子達のように今できる精一杯で「はい」と答えますか。群衆たちのように、「なんだそんなもん」と答えて、自分の生活を優先させますか。
最後に一つ、日本で昔見たテレビのことを思い出したので話します。以前、NHKでシャーロックホームズのドラマをやっていました。確かイギリスBBCが作成したものを翻訳し、放送したものだったと思います。きっと今日の鍵の言葉の一つであるミステリーということから思い出したのかもしれません。
その話は、ウェールズのある没落した貴族のお城での出来事から始まります。その貴族の跡取り娘と、友人の歴史学者がそのお城に隠されている宝物を捜すのです。何年もかけて、地図や古文書を調べ、やっと宝物のありかを突き止めました。その日は、とうとうその宝物を取り出す日です。娘は、うれしくて仕方ありません。大金持ちになれる、もう一度貴族として羽振りの利いた暮らしができる。きらびやかな王冠がでてくるか、宝石がざくざく出てくるか。
場所は、普通誰も来ないような地下室の床下です。宝物を2人じめするため2人で取り出すことにしました。ロープをつたって、歴史学者が穴に下りました。鍵のかかった箱がありました。引き上げてから開ければよかったのに、あせった考古学者は、穴の中でその箱を開けてしまいます。中からでてきたのは、さびた金属のかけらのようなものでした。穴の上からのぞいていた娘は、あまりの期待はずれに、狂ったように笑い出しました。何年もこんなことの為に時間もエネルギーも浪費したのか。自分たちを馬鹿にするような高い笑い声を上げました。穴の底の考古学者は、それらが単なる金属片でないことはひと目みて分かりました。歴史学的価値の高いもの、それだけでなく、もう一度磨いてつなげれば、素晴らしい価値の高い王冠になる、その家に代々伝わった宝物に他ならないのです。穴のしたから一生懸命説明しようとします。しかし、穴の上の娘には、ただのさび付いた金属片にしか見えません。彼女は、笑いながら、絶望と共に穴の蓋を閉じます。数日後、彼女の死体が庭の池に浮かびました。
まさに、捜していたものを見つけたのに、その表面が予想と違っていた為に、その宝物を手に入れそこね、愛していたパートナーと自らを殺してしまった人の話です。隠された宝、福音の指し示す宝、神の国の恵み、礼拝の価値、同じようなドラマが今日も世界中で、そしてこの教会でも、繰り返されているのではないでしょうか。みくにの言葉を信仰持ってしっかり受け止め、隠された宝を自分のものとし、多くのよき実を結ぶ私たちでいたいですね。その為に良い地となる必要があります。その為に、私たちの心が耕され、やわらかくされる必要があります。お祈りします。