信仰は時を越える

時々、我ながら牧師の仕事というものを不思議に思うことがあります。

セールスマンは、売るべく商品を顧客の前に陳列してその商品を勧めます。ガマの油から新築一戸建ての家まで、人はそれを見、手に触れて購入するのです。しかし、私達牧師は目に見えない、触れることもできないお方が私達になされたこと、なしていてくださること、これからなしてくださることを話し、それを聞く方たちはそのお方を信じることによって、新しく生まれ変わり、新しい人生を歩み始めるのです。冷静に考えたらこれはとても不可能に思えることなのですが、実際にこのことによって、全世界で毎日、多くのクリスチャンが生まれているのです。そのような意味において、クリスチャンと呼ばれる者達の生涯とはその初めから終わりまで、信仰の生涯と言ってもいいのではないかと思います。

マック

今日、礼拝でお話したメッセージです。

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2010年3月14日

信仰は時を越える

へブル人への手紙11章1節-4節

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。2昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。3信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。4信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。

この朝、礼拝に集っていますこの礼拝堂には私達が崇拝の対象となるものは何もありません。確かに私達はこの礼拝堂の中に十字架を見ますが、それは崇拝する対象としてそこにあるのではありません。ここにはイエス・キリスト像もマリア像もありません。なぜなら私達は目には見えない、しかしながら実在するお方を拝すべくこの場所に集まっているからです。聖書に記してありますように、天地万物を造られた神は人が作った木や石の中に住むことはなさりません。そして、それはこのキリスト教会に限ったことではなく、全世界においてこの日曜日の朝、幾十億という人達が教会にやってきて、目には見えないお方を礼拝しているのです。

時々、我ながら牧師の仕事というものを不思議に思うことがあります。それはこういうことです。セールスマンは、売るべく商品を顧客の前に陳列してその商品を勧めます。ガマの油から新築一戸建ての家まで、人はそれを見、手に触れて購入するのです。しかし、私達牧師は目に見えない、触れることもできないお方が私達になされたこと、なしていてくださること、これからなしてくださることを話し、それを聞く方たちはそのお方を信じることによって、新しく生まれ変わり、新しい人生を歩み始めるのです。冷静に考えたらこれはとても不可能に思えることなのですが、実際にこのことによって、全世界で毎日、多くのクリスチャンが生まれているのです。そのような意味において、クリスチャンと呼ばれる者達の生涯とはその初めから終わりまで、信仰の生涯と言ってもいいのではないかと思います。

そこでこれから15回にわたり、聖書の中の15人の人達の信仰の生涯というものを追ってみたいと思います。そして、その人達と重なる私達自身の人生とその時々の信仰というものを見ていきたいと思うのです。特に私達は「自分の足で立つ」という標語と共に歩んでいますから、そのために不可欠な信仰というものを見ていきたく願っています。今日は、その最初として、人類初めの人、アダムとイブの息子達、すなわちカインとアベルという兄弟について見ていきましょう。まず最初に「束の間の喜び」ということを創世記4章からお話しましょう。

束の間の喜び

人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。2彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった(創世記4章1節-2節)

聖書の初めの書、創世記には最初の人、アダムとエバがエデンの園に暮らしていたということが記されています。しかし、その彼らの心に罪が生まれました。その時から彼らを取り巻いていた世界は彼らに容赦なく刃を向けるようになりました。土地は呪われ、彼らに対して茨を生じ、猛獣や毒蛇は彼らを狙うようになりました。

ある日、そんな彼らに一人の男の子が生まれました。人類最初の出産です。それはアダム、イブにとってどんなに大きな驚きであり(何せ前代未聞なのですから)、大きな喜びであったに違いありません。その子に自分と同じ小さな手、足、目、鼻を見ては、そしてそれに触れては、どんなにかアダムとイブは喜びに満たされたことでしょう。彼らの親心と今日の親心に大きな違いはないでしょう。彼らは私達が感じていることを感じたのです。

やがて、もう一人の男の子が与えられました。二人の兄弟が戯れる姿はこの夫婦にとってどんなに大きな喜びであったこでしょうか。純真無垢、無邪気そのものの彼らの姿。アダムとイブは地を耕し、そこから苦労しながら糧を得るという、その繰り返しの毎日を過ごしていたと思いますが、この二人の子供の存在は彼らの大きな慰めとなったに違いありません。

人が与えられている賜物は異なります。その関心も異なります。やがてこの兄弟は成人となり、それぞれがすべき仕事を始めました。つまり、兄カインは土を耕す者となり、弟アベルは羊を飼う者となりました。二つ目のこと、「人の現実」というものを見ていきましょう。

人の現実

3日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。4アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。5しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。6そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。7正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。8カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した(創世記4章3節-8節)

時々、とてもきれいな花を見て感動することがありますが、後になってそれが造花であることに気がつくことがあります。造花は手入れがいりません。時々、その埃を払ってやれば、あとは水もいらず、太陽に照らす必要もありません。その花はいつまでも枯れることなく、特に人の手を煩わすこともなく、そこにあり続けるでしょう。

しかし本物の花は違います。その美しさはやはり人が作ったものとは全く違いますし、そこには香りも伴います。しかし、同時に私達はその花のために毎日、水をあげなければなりませんし、それが鉢植えであるなら、なおさら太陽の光にあてたり、肥料を加えたりと手入れが必要となります。生きている限り、虫はつくでしょうし、いつかは必ず枯れて、土に還っていくことでしょう。

同じように私達も生身の人間です。生きているゆえに、その心があるゆえに、私達には多くの喜びがありますし、それらは私達の生きがいとなります。しかし、同時に生きているということは、それだけで色々な問題やチャレンジに向き合うことです。そして、その問題は時に深刻な悲劇につながることがあります。

今までお話しました兄弟、カインとアベルは成長し、ある日カインは土を耕す者ゆえに地の産物を携えてきて神様への供え物としました。同じようにアベルは羊飼いゆえに、その群れの初子と肥えたものとを持ってきて神様に捧げました。それに対して神様はアベルとその供え物とを顧みられましたが、カインとその供え物とは顧みられなかったと聖書は記しています。

細かいことは、後にお話しますので結論から言います。このことに対して、カインは心の中に複雑な苦い思いがわきました。その思いはやがて怒りに変わりました。その心を知る神様は彼にこう尋ねました。「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。7正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」創世記4章6節‐7節

神様はここで大切なことを言われました。罪が門口に待ち伏せています。もう、罪がすぐそこにあります。それはあなたを慕い求めるかのようにあなたに寄り添います。ですから、あなたはそれを治めなければなりません。それとはこの場合、何か、それはカインの心の中にある妬みであり、怒りです。

今日、米国において「Anger Management」のクラスはとても盛況だといいます。怒りをマネージするクラスです。怒りによって失敗をする私達は心の怒りを治めることができずに色々な問題を生み出すのです。それを治められないために口から出る言葉やその態度によって、人生を棒に振る人がたくさんいます。

カインはそれを治めることができませんでした。それゆえにカインがしてしまったことは最悪のものでした。そう、彼は血を共有する自分の弟を殺してしまうのです。しかも、彼はこの弟に向かい「野原に行こう」と声をかけるのです。そこからその殺害は計画的なもので、準備周到なものであったということが分かります。私達は知っています。今日もどこかで殺人事件が起きると警察はどこから調査を始めるかということを。まず親兄弟から始めるのです。それが何を意味するかお分かりになると思います。

皆さん、これが人間です。人の心に小さな火種がつくと、それがやがて燃え、全てを焼き尽くすのです。三つ目のこと、「アベルの信仰」というものを見ていきましょう。

アベルの信仰

ここで一つ、私達が考えなければならないことがあります。なぜ、神様はカインの供え物を顧みることなく、アベルの供え物を喜ばれたのかということです。その供え物には違いがあったのでしょうか。そうです、アベルとカインの供え物には違いがありました。カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。4アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。

ここを読みますときに、カインが捧げた物は「地の産物」だったとだけ記してあります。それが何であったのか分かりません。しかし、この出来事の前後、神様とカインの会話等を読んで想像できることは、どうやらカインの捧げたものというのは、いいところはまず全て自分でとり、最後に残った余り物のようなものであったということが考えられます。それに対して、アベルはその群れの中、最も貴重な初子と肥えたものを持ってきました。ここで「初子」、そして「肥えたもの」とわざわざ記しているということは、明らかにそれがアベルにとって特別なものであったということでしょう。

アベルは羊飼いとして羊を飼っていました。羊飼いは羊をわが子のように育てます。彼はその生まれたばかりの初子を神様に捧げたのです。さらにそれだけではなく手塩かけて、牧草を与え、その牧草を一番、多く食べた最も肥えたもの、すなわち群れの中でも最も価値ある羊を捧げたのです。彼は自分が神に捧げるものとして、それらこそが相応しいものであると思ったに違いありません。皆さん、それはまさしく彼の信仰でありました。

神様はカインの捧げた穀物を喜ばれないのでしょうか。神様は穀物より家畜を喜ばれるのでしょうか。いいえ、後にモーセは「穀物の捧げ物」についてもレビ記や申命記の中に触れていますし(レビ2章、申命記26章10節)、カインが捧げることができるのは、その生業上、穀物だったのですから、それでも十分に神に捧げるものとなりえたのです。

ですから、それは「捧げる物」の問題ではなく、「捧げる人の心」、もっといいますと「その信仰の問題」であったに違いありません。そして、そのアベルの信仰の決断についてヘブル書はこう記しています。

信仰によって、アベルはカインよりもまさった生贄を神に捧げ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。(ヘブル11章4節)。

皆さん、アベルは信仰をもって神に捧げたのです。しかし、その尊い信仰が兄の妬みを生み、彼は殺されたのです。ですから信仰など持たなければ、こんなことは起きなかったのではないかと思いませんか。しかし、私達のこのような問いかけに対して、ヘブルの著者は言っているのです「彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている」。英語はとてもシンプルに力強くこう言っています「And by faith, he still speaks, even though he is dead」この言葉は明らかに彼は死んだけれど、生きているということです。

信仰者とは現在よりも未来を信じる者たちです。私達は現在の諸々の問題も不公平、不可解に見える事柄も、それらがいつまでも全うされるものではないことを知っています。キリストはピラトによって死に追いやられ、そのキリストを命かけて伝えたパウロも皇帝ネロによって殺されました。しかし、その後の歴史はその結末を全く転倒させています。すなわち、キリストの死は全ての人間の希望となり、今日人々は自分の息子にパウロという名前をつけ、犬に向かってネロと呼びます。

私達は時々、このように問いかけられることがあります「なぜ現在の快楽、利益、安全を捨てて、不安定で問題をはらむ将来に期待するのか」と。これに対して私達は答えます「いいえ、不安定なのは現在であって、将来は不安定ではないのです。なぜなら、私達の将来は神が握っているからです」。

アベルは信仰によって、彼のできる限りをもって神に仕えました。彼はその時、死にましたが、その信仰は決して朽ちることはなく、今も彼は生き、その言葉が私達に語りかけてくるのです。確かに私達の信仰は一時、消滅してしまったかのように見える時もあるでしょう、しかし、その信仰は永久に残るのです。ですから、私達も神様の真実を信じ、その信仰に基づいて今を生きるのです。

大賀ハスというものをご存知でしょうか。そうです、あの水の上に咲く花のことです。今から60年も前、東京都内で弥生時代の船着場の遺跡発掘がなされていました。その発掘作業に参加していた一人の中学生が一粒のハスの種を見つけました。その辺りを探しますとさらに二つ、計三つのハスの種が見つかりました。

このハスの種は東大農学部、ハスの権威である植物学者であった大賀一郎博士のもとに持っていかれ調査されました。そこで分かったのは、その種は発掘現場と同じ時代のもので、実に今から2000年前の種だったのです。この種はその後、大賀博士の手によって発芽が試みられ、三つのうちの一つが発芽し、それから立派なハスの花が咲いたというのです。そして、その花は「世界最古の花」として天然記念物となり、今も千葉県の公園において咲いているというのです(これがその2000年前の種を基にして裂いたハスの花です)。全く死んでしまったと思われていた種の中には何千年もの間、命がとどまり、時が来たときにそれは花開いたのです。

信仰によってアベルは彼の最善を神様に捧げました。しかしながら、彼はそのことによって兄に殺されました。彼の全ては終わったように思えました。しかし、実際はそうではありませんでした。実に「彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている」のです。彼は死んだのですが、今も生き、私達に語りかけてくるのです。そして、驚くべきことにその彼の死は、あるお方の予表となったのです。ヘブル書の記者はそのことを12章22節‐24節にこう記しています。

22しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、 23天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、24新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。ヘブルの記者は何を言わんとしていたのか、そうです、彼はアベルの名を指し、私達人間にとって最も大切なイエス・キリストの死のメッセージを力強く語ったのです。

このアベルとカインの物語には人類初というものが二つあります。一つ、それはこの時に始めて人が人によって殺されたということ。この出来事は人類の負の遺産として、私達に受け継がれています。この遺産により、私達の間に起こる悲劇はこれからも止むことはないでしょう。

しかし、それと同時にもう一つの人類初の出来事がありました。それはこの時に初めて人は神を信じて、自らの行動を決めたのです。私達は「自分の足で立つ」という標語を掲げて歩んでいますが、このアベルこそ信仰によって自分の足で立った最初の人なのです。その彼の信仰に対する代価は死となりましたが、その死は一時的なものであり、決して無駄なものではなく、彼は今も生き、私達に語りかけてくるのです。そして、言うまでもありません、彼が私達に残していったその信仰こそが、私達がこの世界で自分の足で立ち、生きていくにあたり、絶対不可欠、そして最も大切なものなのです。

最後にヘブル人への手紙10章35節-39節を読んでこのメッセージを終えたいと思います。35だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。36神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。37「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。38わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。39しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。

お祈りしましょう。

本日のお持ち帰り

へブル人への手紙11章1節-4節

1)セールスマンは、商品を前にして物を売ります。しかし、福音を伝えることはそのようにしてできるものではありません。そこには必ず「信仰」がともないます。あなたにとって信仰とは何ですか。

2)創世記4章1節‐8節を読みましょう。ここにはどんな出来事が記されていますか。兄カインが弟アベルを殺した根本的な原因は何でしょうか。それは突発的なものでしたか。計画的なことでしたか。あなたは自分の怒りを抑えられますか。抑えるための有効な方法がありますか。

3)人類二代目にして兄が弟を殺害するというこの衝撃的な出来事をあなたはどう思いますか。今日、私達はカインの血をどんな形で受け継いで生きているでしょうか。どんなところにそれが見受けられますか?

4)カインとアベルの神様への供え物の違いは何ですか。なぜ、アベルのものは神様によって顧みられたのですか。あなたは神様に何かを捧げる時に葛藤がありますか。最善なものを捧げることにより、知ることができた神様の祝福というものを体験したことがありますか?

5)カインとアベルの違いは彼らの信仰ということができます。ヘブル11章4節に「信仰によって、アベルはカインよりもまさった生贄を神に捧げ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている」とありますが、「彼は死んだが、信仰によって今も語っている」とはどんな意味なのでしょうか。

6)ヘブル人への手紙10章35節-39節を読みましょう。ここからあなたはどんなチャレンジを受けますか?

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