タイムカードのない世界

神の愛に

「1/4の愛」

とか

「7/8の愛」

というのはありません。

 

マック

 

追伸:午後、O師ご夫妻の引退式に出席のためにロスへ。

たくさんの方々が集い素晴らしいセレモニーでした。

O先生、Yさん、生涯をかけたミニストリーをありがとうございました!

 

今日、礼拝でお話したメッセージです。

よかったらどうぞ

 

 

タイムカードのない世界

2010年7月18日

今日から「耐震補強」という新しいメッセージ・シリーズが始まります。これはイザヤ54章2節の「あなたの住まいの幕を張り広げ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ!」という聖書の言葉からつけられた、今年度の私達の教会の標語、「杭は強固に 幕を広く 綱を長く」のうちの「杭を強固に」を強調したものです。

耐震補強とは、私達が地震等の自然災害に備えて家の構造を見直し、補強するということで、私達ももう一度、その補強の中心となる杭というものを強くしたく願っているのです。そして、その見直しと補強がなされましたら、次のステップ、すなわち綱を長くし、私達の住まいの幕を広げるべく、前に進み出たいと願っています。

そのためにこの度は特にイエス・キリストが語られた多くのたとえ話から、聖書の真理の言葉を私達はみていきたく願っております。今日のテキストとなります聖書箇所でありますマタイ20章1節-16節を読んでみましょう。

天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。2彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。3それから九時頃に出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。4そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。 そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。6五時頃また出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。8さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。9そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。10ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。11もらった時、家の主人にむかって不平をもらして12言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。13そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。14自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。 15自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。 16このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。

皆さんの多くはお仕事をなさっていると思います。多くの場合、始業時間があって、終業時間というものもあるでしょう。あるいは定められた時間はなく、フレキシブルに働いているという方もいることでしょう(ある会社が「家事」というものを給料計算するとどれ位になるかという興味深い計算をしてみましたところ、その額は一年間で14万ドル(1500万円)にもなったといいます。すごい稼ぎです)。

私達がどこかの会社や団体に勤め、その所でとても忠実にまじめに働いているとします。朝は始業時間に出勤し、定刻、あるいは残業をして働きます。そして、その労働に対して、それ相当の給料を私たちはいただきます。それがごく普通の労働者と雇用者との関係だと思うのです。

アメリカのその辺りの最近の事情というものを私はよく知りませんが、私が日本ではたらいていた20年も昔、その職場にタイムカードが置かれている場所が多くありました。出社してカードにその時間を打ちこみ、帰りにまたその時間を打つのです。

そして、そのカードに記されている数字からその月の給料が月末に支払われるという仕組みです(帰り際にそれを押す時、カシャと音が鳴るのですが、その時の気持ちはなんともいえないものでした)。このタイムカードにより、雇用主は社員やアルバイトが今月、どれだけ働いたかということを一目瞭然にしているのです。

そして、そこには確固たるルールがあります。それは多く働いた者は多くの報酬を受けるということ、少ししか働かない者は少ない報酬しか受け取ることができないということです。一月のうち、25日働いた者と3日しか働いていない者では、当然、報酬も違ってくるのです。もし、このルールが崩れたら、その会社は成り立たなくなります。しかし、今日読んだ個所にはあり得ない話が書かれているのです。すなわちこういうことです。

天国はブドウ園の主人が労働者を雇うために、夜が明けると同時に市場に出かけて行くようなものであるといいます。当時の労働時間は主に朝6時から夕方の6時までの12時間とされていたようですから、朝早くこの主人が出かけたということにも頷けます。おそらく彼がその市場に着いてみると、そこには既にその日の仕事を求める人達がたくさんいたのでしょう。

この市場と今日でいうところの職業安定所、(日本のハローワーク)のような役割をもった場所だったのでしょう。わたしも今から20年も前に職業安定所に通ったことがあります。おそらく今は全てコンピューター処理されているのでしょうが、当時の職安には色々な求人案内が掲載されたスクラップ・ブックがあって、そこに働き人を必要とする会社が募集事項を出しているのです。その中から自分に合う仕事を選んで、係員に提出すると色々な手続きをしてくれて、両者の合意がなされると、そこに遣わされていくのです。

イエス様の譬の中の人達は朝早くから待っているというのです。きっと彼らには家庭があったことでしょう。その日、一日の労働がないということは、その日の食べ物がないということを意味したことでしょう。この主人はそんな人達と一日一デナリ(当時の一家族の一日の生活費程度)の約束をして、彼らをブドウ園に送ったのです。

このブドウ園の背景は、雨季を控え、一刻を争うブドウ園の収穫期のことだと言われています。このブドウが熟れて腐ってしまうのを避けるために、最も短い期間に収穫をしなくてはならないのです。その期間が少しでもずれ込みますと、収穫しても収入が少なくなってしまうのです。この事実は当時、その地域に住んでいた人々にはよく知られたことであったに違いません。

さて、この主人はその後、朝9時頃に再び市場に行ってみたというのです。そうしますと、そこにはまだ何もせずに立っている人達がいたというのです。そこで彼はその人達に言うのです。「あなたがたも、ブドウ園に行きなさい。相当な賃金を払うから」と。そして、それだけではなく、この主人はその後、昼時の12時頃と午後3時ごろにも出ていって、同じようにそこに何も知らない人達を認め、彼らに「あなたがたもブドウ園に行きなさい。相当な賃金を払うから」と言ったというのです。

そして、さらに驚くべきことに、午後五時に彼がそこに行くと、まだそこで立っている人々がいたというのです。もう薄暗くなっていたことでしょう。彼は言いました。「なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか」彼らは「誰も私たちを雇ってくれませんから」と言いました。彼らは自分を雇ってくれる人を待っていました。働きたくても自分を雇ってくれる人がいない。家には自分の家族がひもじい時を過ごしている。せめて、半日、3時間、1時間でもという気持ちで待ち焦がれて、その時にいたったのでしょう。一日の終わり、もう日が暮れてしまう時にも待っている人がいたのです。

普通なら、たとい待っていたとしても「気の毒になー」で終るでしょう。「今、雇っても一時間も働けないだろう」が普通です。しかし、この主人は違いました「あなたがたもブドウ園に行きなさい」言われた人はビックリしたことでしょう。「今から、言ってもわずかな賃金にしかならない、なぜ、こんな一日の終わりにこのお方は自分などを雇うのだろう?!」皆さんこの人達は、これから三交代の夜間の仕事を始めるのではないのです。電気がない時代、ましてや野外のブドウ園で仕事などできません。彼は終業時間、間近の最後の時間のために連れてこられたのです。

そして終業の時間になりました。働いた者たちが全て主人の前に呼ばれました。レビ記19章13節などを見ると、「賃金はその日のうちに支払われるように」と定められていますから、彼らにもそのことがなされたのでしょう。労働者にとって一番嬉しい時です。夜が明けるとすぐに雇われた者たちは、少なくとも10時間以上は働いているでしょう。ある者は7時間、4時間、そして1時間。タイムカードがあればその実際に働いた時間が正確に表示されて、それぞれの分に応じて日給が払われるでしょう。

そんな彼らを前に主人は言いました「最後に来た人から初めて、順順に最初に来た人々にわたるように、賃金を払ってやりなさい」まず最初に夕方5時頃来た人が最初に並びました。「どうせ俺たちは僅かの賃金だろう」これが彼らの正直な気持ちだったと思います。しかし、彼らの手に握らされたコインは日給にあたる一デナリでした!!。その他の者達にも主人はそれぞれ一デナリを手渡していきました。

最後に一番早く、つまり夜が明ける頃、連れてこられた者たちの番となりました。彼らは心の中に期待をもったことでしょう「彼らが一デナリもらえるなら、俺たちは一体、いくらもらえるのだろう!!!」しかし、彼らにも同じ一デナリが手渡されたのです。

彼らはおそらく今この話を聞いています全ての私達ももつでありましょう、その同じ気持ちを主人に向かって言い表しました「この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日中、労苦と暑さを辛抱した私たちと同じ扱いをされました」(12)本当にそうです。彼らが来たのは一日の終わり、それこそ汗をかく前に就業時間はやってきたのですから。

しかし、この主人は言われます「友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。なぜなら、確かに私はあなたと一デナリの約束をしたのだから」(13)そうなのです。この朝早く来た者たちと主人との間には一デナリの契約が仕事の前に決まっていたのです。この主人は何も不正なことをしてはいないのです。この主人は言われた約束を守ったのです。労働者達は不満を言う権利がないのです。

この行動の背後には主人のこんな気持ちがありました。それは「私は、この最後の者にも同様に払ってやりたいのだ」(14)という気持ちです。この主人には世の雇用者の常識を超える考えがありました。彼は雇い人が自分のために、どれだけのことをしてくれたかを見て、その報酬を与えるお方ではなく、雇い人へのあわれみと恵みによって報酬を与えるお方なのです。

私の三人の子供達は基本的に、親の指示に即座に従いません。部屋をきれいにしておくようにと言っても、やらないことも多々あります。そのような意味において毎日が戦いです。しかしながら反対に本当によく言うことを聞き、部屋をきれいにする時もあります。

私はそんな彼らと一日の終わりの食卓につく時に、「お前は今日、部屋を掃除しなかったから今晩の餃子は四つだけ」とか「君はよくやったから七つ」というようなことは言いません。親心としては彼ら三人がその日に何をしたとしても、たとえそれが私の目に不十分なこととして見えても、それぞれがお腹がいっぱいに食事を食べて欲しいと願うのです。親は彼らの勉強時間や掃除をした時間によって、与えるものを区別したり、制限をしたりしません。なぜなら、彼らを等しく愛しているからです。

先に言いましたように、このことは世の中では通用しません。特に最近の世の中は実力主義、成果主義となりましたから、人の実績というものが高く評価されます。結果を残した者達にはより多くの報酬が与えられ、そうでない者にはその報酬が少ないという、それはとても分かりやすい世界なのです。これが世の中の計算なのです。

しかし、今日お話したことが神の計算なのです。すなわち、この主人は夕方五時頃に来た人に対して、朝一番に来た人の12分の一の報酬を与えることが出来たでしょうし、当然、遅くきた者もそれに納得したでしょうが、この主人は全ての人に同じ報酬を与えたのです。言い方を変えますならば、神様が私達に与えてくださる愛と恵みは同じものなのです。神様の愛と恵みには12分の6とか12分の1というものはないのです。神様はそのような計算表を用いず、タイムカードを無きものにしたのです。

人の一生は季節のようなものだといいます。そこには春があり、夏があり、秋があり、そして冬があります。さらにその一生を一日に置き換えることもできます。そのような意味において、神様から声をかけていただいた時間ということを考えます時に、聖書に出てくるサムエル、エレミヤ、バプテスマのヨハネ、テモテという人達は朝に呼ばれた者、ペテロやパウロは昼頃に呼ばれた者、そして、真夜中には、あのイエス様の十字架の横に釘つけら、数時間の命が残された犯罪人が神様のもとに立ち返ったのだということができるのではないかと思います。

私はこの譬えを読む度に、神学校時代に出会いました一人の方を思い出します。その方はその年、50も半ば過ぎてからイエス・キリストと共にその人生を歩み始め、退職後に牧師になるべく神学校で学んでおられたのです。彼はいつも「自分は午後五時に神様に呼ばれた者なのです」と言いました。人生に割り当てられている時間ということを考えたら、その言葉は正しいと思います。しかし、同時に彼はこうも言いました。そんなに遅く神様に立ちかえった私に対して神様は午後五時の愛ではなくて、これ以上ない愛をもって迎えてくださった。だから私は残る人生、その愛に応えて生きていきたいと。

私達はいつ、主に呼ばれた者でしょうか。朝一に呼ばれたのでしょうか。最後の最後にすんでのところで飛び込んで今があるのでしょうか。こんなことを考えている方いませんか「私は30年も信仰生活してきたけれど、あの人この人と同じなんて、なにか損をしているようだ」と。

いいえ、その時が早ければ早いほどに私達はその人生を楽しむことができます。「楽しむ?」と思われる方いるかもしれません。しかし、聖書は言っているではありませんか「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ」(伝道の書12章1節2節)

またある人はこう思っているかもしれません「今日はいい話を聞いた。神様は誰に対してもそんな待遇をしてくださるのなら、そうだ私は死ぬ直前に神を信じよう。それまでは好き放題、自分の思うままに行きよう。そして、ちゃっかり最後の最後に神の憐れみと恵みをいただこう」。

そんな方には慎んでこんな言葉をお贈りします。It is not safe to delay repentance (意図的に遅らせた悔い改めは安全ではない)。先延ばしにされたことの多くは成し遂げられることがないということを私達は知っています。何かに対して一歩を踏み出す時、そう思った時にし始めないということだけで、それが成就する確率はとても低くなります。否、そのほとんどは成し遂げられることなく、脇に脇に追いやられ、やがて私達の考えから消えていきます。

それが「いつか家庭菜園を始めよう」とか「いつか湯布院の温泉に浸かりたい」というようなことならいいのです。しかし、覚えてください、私達が選択しようとしていることは「永遠の命」に関わることなのです。「ちゃっかり最後に」と思っていたのに、その最後に十分な時が与えられていると誰が保証できましょう。

パウロは言いました「私達は神と共に働く者として、あなた方に勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる「わたしは恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救いの日にあなたを助けた」。みよ、今は恵みの時、みよ、今は救いの日である(Ⅱコリント6:1-2)

聖書は大胆にも言うのです。「今は恵みの時、今は救いの日」だと!大人になってからだとか、数年後だというのではないのです。これに対してはへブル人への手紙を書いた著者も言っています「今日、あなたがたがみ声を聞いたなら、荒野における試練の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心をかたくなにしてはいけない」(ヘブル3章7節、8節)。

主にある兄弟姉妹、なぜ今日のメッセージが杭を強固にすることになるのでしょうか。なぜなら、私達は驚くべき神の恵みによって神の子とされているということこそが、私達の信仰の生命線だからです。「私達に注がれている神の恵みの深さを知る」ということこそが、その杭を深く打ち込むことになるからです。

エペソ書2章8節‐9節がこのことを説明尽くしています「あなたがたの救われたのは、実に恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは誰も誇ることがないためなのである

私達が「何かを成しえたからだ」とか、「それが早かったからだ」とか、「遅かったからだ」ということではなくて、神様は私達がいかなる状態にあっても愛していてくださるのです。なぜなら、我らの神は我らを監視する管理者なのではなくて、我らの父だからです。

「こんな者なのにこんなに愛されている。だから神様に喜んで仕えていこう」そこに私達の日ごとの原動力があるのです。そのことこそが私達の力の源なのです。このことを知った私達にとっての、残された人生とは、その父なる神の愛と恵みに応答して、その父なる神の栄光のために生きていくということなのです。

本日のおもちかえり

2010年7月18日

1)マタイ20章1節-16節を読んでみましょう。もし、あなたが朝暗いうちから働いている者だったら、あるいは、あなたが夕方、五時頃に雇われた者だったらこのイエス様の例え話に記されているような取り扱いを受けたらどう感じますか。

2)なぜ、この例えに記されている主人は全ての労働者に等しい給与を与えたのですか。このようなことが私達の社会の雇用関係の中にありますか。

3)普通、給与は労働者が実際に働いた時間の長さによって決められます。しかし、神様の私達に対する愛と恵みには私たちの功績によって1/12とか8/12というように計算することができません。なぜですか?14節の「私は、この最後の者にも同様に払ってやりたいのだ」という主人の言葉に、あなたは主人のどんな思いを感じますか。

4)あなたは自分自身を何時に神様のもとに立ち返った者だと思いますか?若いうちに神様を知ることによって与えられる特権は何でしょうか?(伝道の書12章1節2節)。「神様がそんなに寛容なお方なら私は死ぬ直前に神を信じよう。それまでは好き放題、自分の思うままに行きよう。そして、ちゃっかり最後の最後に神の憐れみと恵みをいただこう」という考えをあなたはどう思いますか。。

5)エペソ書2章8節‐9節を読みましょう。私達が救われたのは何によりますか。それが神様の一方的な恵みであるとするならば、私達はその神様の愛と恵みにどう応答していきますか(このところに神のために私達がなすはたらきは義務感からすべきものではないという根拠があります)。具体的にあなたができることを考え、実行しましょう。

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