私達は「あいつ時間にルーズだ」と言いながら、同じことをしている自分には「時間に縛られない生き方が大切だ」と言います。おしゃべりな人に対して「奴は口が軽い」と言いながら、同じことをしている自分に対しては「社交家でよろしい」と言います。あちこちで調子いいことばかり言っている人に対して「奴は風見鶏だ」と言いながら、同じことをしている自分に対しては「よく目配り、気配りをしている」と言います。「あいつはのろまだ」と言いながら、同じことをしている自分に対しては「慎重でよろしい」と言います。あたかも自分はかつて優等生だったかのように我が子に向かい「宿題は早めにやっておくべきものだ」と叫ぶ親はませんか。当人は自分の課題やプロジェクトをラストミニッツでしている時に、子供にいつも言っている同じ言葉をもって自分を戒め、咎めていますか?
マック
今日の礼拝でお話したことです。よかったらどうぞ!
あわれみを受けるために
マタイ5章7節
2009年10月18日
あわれみ深い人達は幸いである。
彼らはあわれみを受けるであろう。
私達はこれまでイエス・キリストの山上の説教から「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」とか「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう」というような言葉を見てまいりました。そして今朝、私達は「あわれみ深い人たちは幸いである、彼らはあわれみを受けるであろう」という言葉の前に立っています。
お気づきになられたかもしれませんが、この言葉はこれまでの言葉とは少しその言い回しが異なります。なぜなら、この言葉には「自分がしていることと同等の取り扱いを自分も受けるようになる」という意味がそこにはあるからです。すなわち私達がもし誰かに対してあわれみの心を持つならば、私達もあわれみを受けるということです。そして、後ほどお話しますが、このことは聖書が一貫して言っていることであり、それは天地万物を創造された神様の自然の法則にも見ることができるものなのです。
例えば私達が湖面に石を投げますと、水面から水がはねます。そのはねかえりの大小は、一重に石の大きさによるのです。小さな石を投げれば「チャポン」ですが、大きな石を投げますと「ドボン」となり、その跳ね返りは大きいのです。また、山々が連なる場所で大声で「ヤッホー」と言いますと、その声の大きさに応じて、私達はその言葉がこだまして返ってくることも知っています。同じように今日の言葉もまさしく、自分の他者に対するあわれみ深さによって、いかに自分が神様からあわれまれるかということに、そのまま跳ね返ってくるということなのです。
そもそも、なぜそのような「跳ね返り」について、イエス様はあえてここで「あわれみ」という言葉を使われたのでしょうか。「心優しい人は幸いだ。その人も優しくされるからだ」と言ってもいいではないかと思うのは私だけでしょうか。なぜ、あわれみなのでしょうか。なぜなら、このあわれみこそが、神様と私達の関係のまず第一に挙げられることであり、私達は常に神様からそのあわれみを受けているからです。
今朝、私達が起きることができたこと、食欲があり、食べるべきものが家にあるということ、事故なく教会にこれたこと、私達はこれらのことを何ら特別なことだとは思っていませんが、これら一連の動作をするために私達の体内では驚くべき生理反応が止むことなく起きており、私達の置かれている状況や環境にも神様のあわれみが注がれています。すなわち「俺は今までも、そして現在も自分の手で働き、それで食べ、今日まで生きてきたし、今まで誰からもあわれみなぞ受けたことなどない」と言うことは、聖書に照らし合わせてみれば、自分の無知を言いあらしていることなのです。
そして、そのあわれみの極みは、私達の罪がイエス・キリストの十字架によって赦されているということ。私達がいつか必ず受けなければならない有罪判決が全て、キリストの十字架によって帳消しにされているということ。それらは私達の善業の積み重ねによるものではなく、私達の努力はそこに何ら介入できないものであり、ただ神様のあわれみによって、その救いの手が私達に差し伸べられているということです。
ですから、今朝開かれているイエス様の言葉には「あなた達は今、実際に十分な神のあわれみを受けている身だ。だから当然、あなたは他者に対してもあわれみ深い者となるべきである。否、そうならざるをえないはずだ。それゆえ、もしあなたがそれでも他者に対するあわれみを失うというのなら、その分相応に私のあなたに対するあわれみも失われるということを承知しておきなさい」というような意味がこめられているのです。
その今日の言葉はとてもシンプルです。しかし、あまりにもシンプルであるゆえに、またそれらが私達の既成の考え方にはないものでなので、かえって理解できないもののようにも思われます。それゆえかイエス様は別の機会に、分かりやすい譬をもってこの「八つの幸い」の解説をそれぞれしていてくださるように思われます。先週、「義に飢え乾いている人達は幸いである。彼らは飽き足りるようになるであろう」という言葉に対して「黄泉にいる金持ちとアブラハムと共に天にいるラザロ」の譬話をお話したとおりです。
そして、今日の「あわれみ深い人達は幸いである。彼らはあわれまれるだろう」という言葉は「一万タラントの負債を赦された人」の譬において、その説明が十二分になされています。マタイによる福音書18章21~35節を読みましょう。
その時、ペテロがイエスのもとにきて言った「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七度までですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七度までとは言わない。七度を七十倍するまでにしなさい。それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。そこで、この僕はひれ伏して哀願した僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。どうぞお待ち下さい。全部お返ししますから。その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」
この譬はイエス様の弟子のペテロの一つの質問によって始まりました。その質問とは「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」というものです。この質問に私達はペテロの心をうかがい知ることができます。なぜなら、当時「三度までは過ちを赦せ」という教えがあったからです。東洋世界にも「仏の顔も三度まで」とあります。三という数字はそのような意味で鍵となる数字です。野球も三度ストライクをとるとアウト、三回アウトをとりますと攻撃と守備が入れ替わります。アメリカでは「スリーストライク法」という法律もあり、これは犯罪において前科が二回ある者が三度目に犯罪を犯すと終身刑となるという法律です。
これらを見て分かるように三という数字は、私達がその数の中で軌道修正できる、回心できるものとして一般に受け容れられている数のようです。ですからその間に結果を残し回心しなさい、それでもダメなら処罰するということになるのです。
ですからペテロが問うた「七度」というのは三を倍にして、さらに一つを加えた数であり、当然、イエス様もそれを認めてくださる、いや、下心としては「ペテロ、あなたはあわれみ深く、よく分かっているな」と誉めてもらえるというような思いがあったに違いありません。しかし、イエス様の答えは想像をはるかに超えていました。すなわち、イエス様はこう言われたのです。「わたしは七度までとは言わない。七度を七十倍するまでにしなさい」
これを聞いた瞬間のペテロの驚きようは大変なものだったと思います。「評価されると思っていた質問」は、全然、イエス様の思いとは異なっていたということが分かったのですから。そして、ペテロはこの瞬間、イエス様が何を言っている意味を理解することはできなかったことでしょうし、イエス様もそう思われたことでしょう。ですからイエス様は「天国は王が僕たちと決算をするようなものだ」として一つの譬を話し始められるのです。
ここには王に10000タラントの負債のある者が、その負債を全く赦されたという話が書かれています。数字の話をしましょう。当時、労働者の一日の給料は1デナリでした。そして、1タラントとは6000デナリと言われています。すなわち10000タラントとは6千万デナリとなります。これを計算しますと一日1デナリ、365日、一日も休まず働いて164383年分の賃金となります。この人はそれだけの給料を赦されたのです。
この譬は何を言っているのか。この譬の重要な問いは10000タラントの負債のある人とは誰なのかということです。皆さん、誰だと思いますか。周りを見回しますか?いいえ、そうする必要はありません、言うまでもない、この人とは私であり、あなたのことなのです。「兄弟が私に対して罪を犯した場合・・・」という質問で始まったこの譬話は、「兄弟が」ではなくて「あなたはどうなのか」というイエス様からペテロへの、そして私達への問いかけへと変わるのです。
それではこの譬における負債とは何か。それは私達の犯した罪を意味するでしょう。それが積もり積もってたまりにたまっている。この数字の大きさは先ほども申し上げましたように、私達の善行や努力によって解決できるようなものではなく、自分では到底、返済できないものであるということを物語っています。
と、このようなお話をしますと私達は大抵、自分が10000タラントも負債があるということに対して驚き怪しみます。自分は完全な善人ではないことは認めるけれど、こんなに多くの負債を負っているのか。あいつが10000タラントなら分かる、でも俺も10000タラントなんておかしいのではないかと。
そんな誤解のからくりを解かせていただきます。三浦綾子さんがその小説の中に「誰の心にもその人だけの定規がある」と書いています。そして、その定規は人を計る時と自分を計る時とではその目盛りが違うと彼女は指摘します。言うまでもない、人を計る時にその目盛りは細かく、自分の場合にはその目盛りは大雑把だということです。
皆さん、私達は自分が思うほどに自分のことなど分かってはいません。自分のことは自分がよく知っているといいながら、何も分かっちゃいないのです。それは他者に対する思いと自分に向けられる思いを考える時に明らかになります。
私達は時間を守らない人に対して「あいつ時間にルーズだ」と言いながら、同じことをしている自分には「時間に縛られない生き方が大切だ」とぬけぬけと言います。おしゃべりな人に対して「奴は口が軽い」と言いながら、同じことをしている自分に対しては「社交家でよろしい」と言います。あちこちで調子いいことばかり言っている人に対して「奴は風見鶏だ」と言いながら、同じことをしている自分に対しては「よく目配り、気配りをしている」と思います。「あいつはのろまだ」と言いながら、同じことをしている自分に対しては「慎重でよろしい」といいます。あたかも自分はかつて優等生だったかのように我が子に向かい「宿題は早めにやっておくべきものだ」と叫ぶ親はませんか。その親は自分の課題やプロジェクトをラストミニッツでしている時に、子供にいつも言っているのと同じ言葉をもって自分を戒め、咎めていますか?
万事、こんな調子で私達は生きていますから、誰も自分に10000タラントの負債があるなどと露だに思わないでしょう。しかし、私達が考えられない、信じられないと言っても、名誉棄損で神様に厳重に抗議しますと言っても、神様の目から見たら、実際に誰でもこんな莫大な負債を神に対して負っているということは嘘偽りでもない真実なのです。
イスラエルの二代目の王、ダビデがこのことのいい例となっています。ダビデは王の立場を利用して、自分の忠実な部下ウリアの愛する妻、バテシバを奪い、彼女に身ごもらせます。やがてこの事実を知るナタンという人がきてダビデにこんな話をします。
ある町に一人の富んでいる人、一人の貧しい人がいました。富んでいる人は非常に多くの羊と牛を所有していましたが、貧しい人には一頭の雌の小羊の他は何も持っていませんでした。その小羊は彼の子供達と成長し、彼の食物を食べ、彼の碗から飲み、彼のふところで寝て、彼にとっては娘のように育ちました。時に一人の旅人がその富んでいる人のもとにきました。彼は自分の羊、牛からその旅人のために調理するのを惜しみ、その貧しい人の大切な小羊を取って、これを自分のところにきた人のために調理したというのです(サムエル記下12章1節-6節)。
この話をナタンから聞いていたダビデは激怒してこうナタンに言いました。「主は生きておられる。このことをしたその人は死ぬべきである」それを聞いたナタンはダビデに言いました「あなたがその人です」。そうなのです、ナタンが話したことは全て、ダビデがバテシバとその夫ウリアにしたことなのです。しかし、ダビデは自分がしたことは棚に上げて、この人は死ぬべきであると激怒したのです。
もう一つ、お話しましょう。ある日、イエスの元に姦淫の現場を捕えられた女が連れてこられました。連れてきた者達は、律法に記されているようにこの女を石で打ち殺すのかとイエスに詰め寄りました。イエスは黙って地面に何かを書いていました。人々はイエスに問い続けるので、イエスは顔をあげてこう言われれました「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。人々は年寄りからはじめて、一人一人出て行き、ついにイエスと女だけになりました(ヨハネ8章1節-11節)。彼らはこの女がしていいたことを咎めました。あたかも自分自身は全く潔癖であるかのように。しかし、イエスの一言によって彼らは皆一人一人、彼女に石を投げることなどできないという自分に気がつくのです。
私達もダビデと同じです。自分がしたこと、していることに関しては、まるでそれが何事でもないかのようにふるまい、他者の過ちを咎める。私達は姦淫の女を捕えてきた人々と同じです。自分のことは棚に上げて、さぁ、この女は撃ち殺されるべきだろうと詰め寄る。私達は人のことは厳しく裁きますが、自分のことに関しては全く問題としようともせず、そ知らぬ顔をしています。そんな私達は神様の目から見たら皆、実際似たり寄ったりで、それぞれ一様に莫大な負債を神様に負っているようなものなのです。
さらにこの譬話を見ていきますと、この人は10000タラントの負債を赦された、その帰りの道で100デナリを貸している友人に出会うと、その首を絞めて「借金を返せ」と言いました。この人はひれ伏して『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだにもかかわらず、彼は承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れました。
この話を聞きますと何とむごい人かと私達は思います。しかし、聖書は私達に「この人はひどい人だ」と評論家になるためにこの譬を記しているのではないのです、ただひとえにあのナタンがダビデに向かって語られたら言葉「あなたがその人です!」と指摘され、私達がハッと目覚めるようにこの譬は記されているのです。
この人の一部始終を見ていた人達は非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話しました。そこでこの主人は彼を呼びつけて言いました『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」(マタイによる福音書18章21~35節)
ここにこの山上の教えの解釈があります。あわれまれているのだから、あわれむべきではないか。もし、あなたが兄弟を赦さないのなら、私の天の父もまたあなたに対して同じようにする。言い方を変えれば、もしあなたがあわれまないのなら、父なる神もあなたをあわれむことはない。なんと道理にかなったことでしょうか。
イエス様が主の祈りの中に「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という一節をいれた意味が分かりますね。これは日々、罪、過ちを犯す私達がすべき祈りなのです。
ルカ6章27節‐38節においてイエス様は言われました。36あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。37人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。38与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。
皆さん、神様は私達にあわれみ深い人になる、ならないということを自ら決めることができる自由意志を与えています。同じように人を裁くか否かということも私達にゆだねられています。しかし、私達は心に刻まなければならない、私達が量るその量りで私達も量りかえされるということを。
ですから、今日の御言葉「あわれみ深い人達は幸いである。彼らはあわれみを受けるであろう」という言葉に合点がいってくださったと思います。今から私達は自らの量りの目盛りをもう一度、見直しましょう。私達に対する神様のあわれみに日毎に目が開かれ、その応答として私達もあわれみ深い者へと変えていただきましょう。お祈りしましょう。
本日のお持ち帰り
マタイ5章7節
「あわれみ深い人たちは幸いである、彼らはあわれみを受けるであろう」という言葉には「自分がしていることと同等の取り扱いを自分も受けるようになる」という意味があります。あなたは神様からこのような取り扱いを受けるということについて、どう感じますか?
あなたが今日、神様から受けている「あわれみ」にはどんなものがありますか?あなたが今日、起床できたことはあなたの力によりますか?あなたに日常の必要が与えられていることも全て自分の力によりますか?
マタイによる福音書18章21~35節を読みましょう。あなたは他者のあやまちについて、何度までなら赦しますか?イエス・キリストその件について何と言っていますか?この言葉に対するイエス様の根拠は何だと思いますか?
当時、労働者の一日の給料は1デナリで、1タラントとは6000デナリの価値があります。すなわちここに記されている10000タラントとは365日、1日も休まず働いて164383年分の賃金となります。この人がそれだけの負債を赦されたということについて、あなたはどう思いますか。
この負債を赦された人が100デナリの負債がある友人の首をしめて「借金を返せ」と迫ったこと、返せないと知ると彼を獄屋に入れたということについて、あなたは何を感じますか?
聖書は「10000タラントの負債のある人」は「あなただ!」と言います。この大胆な指摘についてあなたはどう思いますか。同意しますか?反論しますか?
あなたは「誰の心にもその人だけの定規」があり、それによって私達は他者を厳しく測り、自分に対しては甘く測る傾向があるということについてどう思いますか。あなたは本当に自分のことを正確に理解しているでしょうか?「あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」(ルカ6章38節)という言葉についてあなたはどう思いますか。