妬みが動機になっていませんか?

また、わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、これは人が互にねたみあってなすものである。これもまた空であって、風を捕えるようである』(聖書:伝道の書4章4節)

アンデルセンの童話にある「裸の王様」において、実際には裸でいる王に対して「王様は裸だ」と民は言うことができませんでした。しかし、一人の少年は、はっきりと「王様は裸じゃないか!」と言ったのです。なぜなら、それが事実であったからです。同じようにソロモンは私達が口に出さないようなことを、はっきりと言いました。

「この世界を突き動かしているのは私達の妬みではないか!」と。

確かに、私達人間が織りなす人間ドラマには常に「比較」や「妬み」が内在しています。これらは映画、小説、ドラマには不可欠な題材であり、それは何も創作された物語の世界だけではなく、これらは私達の世界において、人を動かす大きな原動力となっています。今日、これらのことは幼稚園にも高齢者施設にも存在しているのです。

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Still Autumn comes after summer

A father had four sons.  The father sent them to see a pear tree that grew in a distant land to teach them that they should not jump to conclusions. The first son was sent out in the winter, the second in the spring, the third in the summer, and the fourth in the fall.  They all went there and came back.  The father called the four together and had each one talk about what he had seen.

The son who went in the winter, said, “The pear tree I saw had not a single leaf on it, it was hideous, and some of its branches were broken off.”

The son who went in the spring, couldn’t believe what he was hearing and said, “The tree I saw was covered all over with fresh greenery, and it was filled with the promise of what is to come.”

The son who went in the summer, in agreement said, “The tree I saw was full of fruit, smelled sweet, and was full of life.”

The son who went in the fall, as if not understanding “green leaves” said, “There was no fruit on that tree, but its leaves were bright red, and were falling to the ground one after another, and in a way, the tree looked like it had accomplished an important task.”

The father who was listening to their four stories said to them, “What you all saw is all correct. The tree you saw was exactly the same, and within it was all the seasons.”  The father then added, “Don’t get caught up in your own one season and draw conclusions. If you give up in winter, you will never see the promise of spring, the beauty of summer, or the harvest of autumn.”

 

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それでも夏の後に秋がくる

ある父親に四人の息子がいました。父はその子達に遠くの地に生えている梨の木を見てくるようにと、最初の息子は冬に、二番目は春に、三番目は夏に、四番目は秋に送り出し、それぞれがそこに生える同じ木を見て、帰ってきました。父は四人を呼び、見てきたものについて一人一人の話を聞きました。

冬に行った息子は言いました「私が見た梨の木には葉が一つもなく、その姿は醜く、ところどころの枝が折れていました」。春に行った息子は、その言葉が信じられないように「自分が見た木には一面、新緑が覆われていて、その木はやがてくる約束で満ちていた」と言いました。

夏に行った息子は、その通りだと言わんばかりに「自分の見た木にはたわわに実がなり、甘い香りがし、木は命で満ち溢れていた」と言いました。秋に行った息子は「緑の葉」ということが理解できないかのように、「その木には実などはなく、しかし、その葉は真っ赤で、しかし、その葉は次々と地に落ちていっていた、ある意味、その木は大切な役目を成し遂げたような姿だった」と言いました。

四人の話しを聞いていた父は彼らに言いました。「お前達の見た光景はどれも全て正しい。お前達が見た木は全く同じもので、その木の中に全ての季節があったのだ」と言い、さらにこう言いました。「お前達は自分の一つの季節だけに捕らわれて、結論を出してはいけない。もし、お前が冬にギブアップしたら、春の約束、夏の美しさ、秋の収穫を見ることはできない」・・・。

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酒と仕事と男と女

私達は「おもしろきことなき世をおもしろく」というテーマのもと、伝道の書から御言葉をみています。今日はその伝道の書2章1節から11節を見ていきたいと思います。ここには主に三つのことが書かれています。すなわち「酒」と「仕事」、そして「異性」について書かれています。

そこからうかがい知れますことは、かつてソロモンは自らを元気づけようと酒を求め、生きがいを見つけようと大きな事業を成し、人生を楽しもうと女性を求めたということです。

このソロモンの言葉は今から約3000年も前のものですが、人は今も変わらず、同じことに関心を抱いているということは、説明するまでもありません。特にコロナ下において、極度にストレスフルな日々を送っている私達は、現実から逃れられる一時の慰めや刺激を求めようとすることがあるかもしれません。今日は伝道の書を通して、そんな私達の足元を確認したいと思います。

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おもしろきことなき世をおもしろく(2)天来の知恵を賜りたい

『ドラゴン桜』という漫画があり、ドラマにもなりました。元暴走族の弁護士・桜木建二が経営破綻状態となった「落ちこぼれ高校」と呼ばれている高校の運営を請け負うこととなり、経営を回復するために進学実績を上げようと、5年後に東大合格者100人を出す計画を考案するというドラマです。

なぜこの異色の教師が生徒たちに「東大に行け」というのかといいますと「東大卒の者達が日本の官僚となり、この国のルールを作っているからだ」と彼はいいます。少々、無理のある論理ですが、確かに「ルールを造るものがその場を治める」ということはあながち間違ってはいないと思われます。桜木はこの国のルール、すなわち法律を作る者達が日本を治めていくのだと生徒に語っているのです(その方達が本当に相応しいかどうかは別として・・・)。

それでは「万物のルール」を造られたのは誰なのでしょうか。そう、その存在を私達は「神」と呼んでいます。その神はこの世界の万物の法則に対して、どのように向き合えばいいのかを知り尽くしており、その御思いが書かれているものが、私達の手元にあります「聖書」なのです。そうです、そこには私達に必要不可欠な「真の知恵」が書かれているのです。

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おもしろきことなき世をおもしろく(1) コロナから始まる新しい生き方

かつて幕末の時代、高杉晋作という侍がいました。彼は奇兵隊という武士と庶民から成る部隊を組み、外国艦隊からの攻撃に備え、江戸幕府との戦いに臨みました。しかし、その彼は28歳の若さで結核により亡くなり、その病床で「おもしろきことなき世をおもしろく」という辞世の句を詠みました。

高杉のこの詩に私達は深い共感を覚えます。外国の脅威を受け、幕府の圧政のもとに暮らし、その志(こころざし)半ば、28歳の若さで、倒れてしまう人生、それは「おもしろくない人生」と私達には思われます。しかし、高杉はその自分の人生を受け止め、その人生を「俺はおもしろく生きてきたぞ」と最期に詠ったのでしょう。

私達は今もコロナという「おもしろくないもの」に向き合っています。これから、この先も私達の向かう先に何が待ち構えているのか私達は知りえません。生きていくことは大変なことです。「生きていこう」という思いを持ち続けることが難しい時もあります。「よかった」と思うのも束の間、次には「どうしたらいいのだ」ということの連続、それが人生です。

そして、このことは今、始まったことではなく、古の昔から人はこの思いを抱えて生きてきました。聖書の中には高杉のように自分の人生に対して「おもしろくないな」と何度もつぶやいた人が出てきます。その彼は「伝道の書」という書を私達の手元に残しました。これからの日曜日、この伝道の書から「おもしろきことなき世をおもしろく」というテーマのもと、メッセージを取り次がせていただきます。

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なぜ、私達は教会に帰るのか。

Zoomになり、スーツが売れなくなったと言われています。そうでしょう、それを着て出社したり、セールスに出たり、結婚式すらも制限されたのですから。オンラインのビジネスミーティングに出席する時に、上着だけボタンシャツを着て、下は半ズボンという方達がきっと大勢いたことでしょう。

教会と自宅の往復の時間に小一時間かかる方もいるでしょう。それに比べ、オンライン礼拝はベッドルームから歩いて10秒あれば出席できます。その気楽さを喜んでいる方もいるかもしれません。しかし、今日はあえて「私達は教会に戻らなければならない」ということをお話します。

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人生観の確立(6):死生観

レオナルド・ダ・ブィンチやマキャヴェッリとの親交もあったというイタリアの政治家、チェザーレ・ボルジャは言いました。「私は生きている時に、死以外のあらゆるものに対して備えをしていた。今、私は死なねばならぬ。そして、まだ何の備えもない」。

かつて沖永良部という島にいた時に80歳ほどになる女性がおりました。その方は毎晩、眠れないというのです。「なぜ?」と問えば、自分の葬儀には誰が来てくれるのだろうか、その時にはこの家では狭いのではないかと思うと、眠れないというのです。「そんなこと心配しなくて大丈夫、その時におばあちゃんは、そこにいないんだから」と話しましても、彼女の不安は消えないのです。その時に思いました。死ぬことの恐れと心配は尽きることがないのだと。

彼女は自分の葬儀について心配していました。しかし、多くの方達はこの備えを予めしています。墓は既に購入している、火葬の手続きも済ませているという方は大勢います。「終活」という言葉は日本ですっかりと定着しましたでしょう。

しかし、先のボルジャが言っていることは、このような葬儀や埋葬の備えではないのです。ボルジャが言っているのは私達の「心の備え」です。死に対する心備えとは何か。それは「死とは何か」ということを知ることです。私達が死ぬ時、自分はどうなるのだろうかということを知り、その死を心にしかと受け止めることです。

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父親が荷を下ろすところ

子供がまだ幼い時に、彼らは「パパならなんでもできる」と思っています。「パパが一番、力持ちだ。パパにお願いすれば大丈夫だ」と思っています。息子がまだ幼い時に「パパはすぐに飛んでくるよ」と言いましたら、彼は言いました「パパ、飛べるの?」子供は時に父は飛ぶこともできると思っています。

しかし、そのような頼もしい父親像も、彼らが成長するにつれて一つ、また一つ、消えていきます。「そんなのいやだ」などと父親は言っておれません。言うまでもなく、私達は実際のところ、何でもできるわけではないからです・・・。

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人生観の確立(5):倫理観

この度の東京オリンピックのために新しく建築された建物に新国立競技場があります。その競技場を設計したのは隈研吾という日本人建築家です。隈氏は日本のみならず、常に世界数カ国で同時に仕事をしている世界的に有名な建築家です。その人の仕事の流儀というものがとても興味深いのです。

一つの土地に何かを建築する時に、当然そこには敷地面積、周りの環境、建築素材、予算などさまざまな制約があります。しかし、彼はその「制約」を「創造の源」としてとらえているというのです。その制約があるからこそ、そこに深い考えが生まれ、工夫が生まれるというのです。彼はそのインタビューの中で、「もし予算や敷地に制約がなかったらどうしますか?」と尋ねられ、「制約がなかったら制約を探しに行きます。まさに宝ですよ、制約は」と答えています。

ふんだんな独創性が問われるその建築の現場で「制約こそが宝」と言い切ること、ここに私達は神様が私達に与えられる制約、今日の言葉で分りやすくいいますならば、神が私達に与えられる「倫理の真髄」を見るのです。

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