日本のスマップという人気グループが2003年に「世界に一つだけの花」という歌を世に出し、瞬く間にヒット曲となりました。現在、その曲は21世紀で最も売れている歌となっているそうです。皆さんのために、私は歌いませんが、ちょっとその歌詞を読んでみます。
花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた 人それぞれ 好みはあるけれど
どれもみんな きれいだね この中で誰が一番だなんて 争うこともしないで
バケツの中 誇らしげに しゃんと胸を張っている
それなのに 僕ら人間は どうしてこうも比べたがる? 一人一人違うのに
その中で 一番になりたがる?
そうさ 僕らは 世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい
そして、最後にこんな歌詞でこの曲は終わります。
同じものはないから No.1にならなくてもいい もともと特別な Only one
この歌詞を聞く時に、なぜこの歌が日本人の心をとらえたか容易に理解できます。すなわち格差社会・競争社会と呼ばれるような今日の世の中にあって、あの人の能力とかこの人の業績とか、自分と人を比べることなく、自分は自分らしく毎日を暮らせばいいのだということを歌っているからです。この歌を聞いて不快に思う日本人はほとんどいないと思います。私も個人的にこの歌が好きです。
今朝はこの「世界に一つだけの花」の歌詞を思いながら、「世界に一つだけの麦」というタイトルでお話をさせていただきたく願っています。ここで皆さんの脳裏には「花屋に並んだお気に入りの花」から「何の変哲もない小さな小さな一粒の麦」が映し出されたことでしょう。どちらかというと「世界で一つの花」の方が「世界で一つの麦」よりも聞こえはいいし、確かに歌となります。仮にスマップの歌の「花」を「麦」に置き換えて歌ったら、きっと誰も見向きもしない歌となったことでしょう。しかし、聖書は私達の五感を楽しませる「花」だけでは表現できない、さらに深いものが私達にはあるということを「麦」という植物を通して私達に語りかけているのです。
マック
今日、礼拝でお話したメッセージです。
よかったらどうぞ↓
「世界に一つだけの麦」 2009年8月2日 ヨハネ12章20節‐25節
20 祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。21 彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。22 ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた。23 すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。24 よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。25 自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう」。
日本のスマップという人気グループが2003年に「世界に一つだけの花」という歌を世に出し、瞬く間にヒット曲となりました。現在、その曲は21世紀で最も売れている歌となっているそうです。皆さんのために、私は歌いませんが、ちょっとその歌詞を読んでみます。
花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた 人それぞれ 好みはあるけれど
どれもみんな きれいだね この中で誰が一番だなんて 争うこともしないで
バケツの中 誇らしげに しゃんと胸を張っている
それなのに 僕ら人間は どうしてこうも比べたがる? 一人一人違うのに
その中で 一番になりたがる?
そうさ 僕らは 世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい
そして、最後にこんな歌詞でこの曲は終わります。
同じものはないから No.1にならなくてもいい もともと特別な Only one
この歌詞を聞く時に、なぜこの歌が日本人の心をとらえたか容易に理解できます。すなわち格差社会・競争社会と呼ばれるような今日の世の中にあって、あの人の能力とかこの人の業績とか、自分と人を比べることなく、自分は自分らしく毎日を暮らせばいいのだということを歌っているからです。この歌を聞いて不快に思う日本人はほとんどいないと思います。私も個人的にこの歌が好きです。
今朝はこの「世界に一つだけの花」の歌詞を思いながら、「世界に一つだけの麦」というタイトルでお話をさせていただきたく願っています。ここで皆さんの脳裏には「花屋に並んだお気に入りの花」から「何の変哲もない小さな小さな一粒の麦」が映し出されたことでしょう。どちらかというと「世界で一つの花」の方が「世界で一つの麦」よりも聞こえはいいし、確かに歌となります。仮にスマップの歌の「花」を「麦」に置き換えて歌ったら、きっと誰も見向きもしない歌となったことでしょう。しかし、聖書は私達の五感を楽しませる「花」だけでは表現できない、さらに深いものが私達にはあるということを「麦」という植物を通して私達に語りかけているのです。
麦は蒔かれるもの:「一粒の麦が地に落ちて」(24)
まず最初に確認しておきたいのですが「麦」とは「種」のことです。そして「種」と「花」とは切っても切れない関係にあります。なぜなら、言うまでもなく種から出た芽はやがて、花を咲かせ、そして、その花が枯れると、新しい種ができるからです。その証拠に「麦」にも花が咲きます。麦の花をご存知ですか。私も今回、調べていて初めて見ました。さすがに麦の花を結婚式や家のリビングに飾る人はいませんが、麦も確かに花を咲かせているのです。
そう考えます時に、花が咲くということは植物のある一時期の姿であると言うことが分かります。すなわちスマップの歌は象徴的に私達について歌っているのですが、それは私達の一部分を歌っているものであるとも言うことができるのです。
そのようなことを考えます時に、イエス・キリストがご自身を一輪の花だと言われなかったことは興味深いことです。いえ、細かく言いますと聖書は確かに「人と花」についても言及はしているのです。例えば、
詩篇103篇15節-17節:人はそのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。
しかし、主のいつくしみは、とこしえからとこしえまで、主を恐れる者の上にあり、その義は子らの子に及び・・・。
イザヤ40章6節-8節:人はみな草だ、その麗しさはすべて野の花のようだ。主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、我々の神の言葉は、とこしえに変わることはない」。
Ⅰペテロ1章24節:「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。
ヤコブ1章11節:たとえば、太陽が上って熱風をおくると、草を枯らす。そしてその花は落ち、その美しい姿は消えうせてしまう。それと同じように、富んでいる者も、その一生の旅なかばで没落するであろう。
これらを見ます時に、聖書が花について言及していることには共通点があるように思われます。すなわち、花は美しいものでありますが、それは「いともたやすく消え失せてしまう」ということです。しかし、それに対して「主の言葉や主のいつくしみは永遠に失せることはない」というのです。言い方を変えましょう。「自分らしさ」とか「ありのままの自分」というものはやがて失われていくものです。しかし、そんな私達に永久に残るものがあるというのです。
おそらく、これらの背景があったのでしょう、イエス・キリストは自分を一輪の花とは言わずに、一粒の麦として語っているのです(花の方が断然、聞こえはいいのですが)。すなわち、キリストは一時の存在を誇る花とは違い、麦には新しい命を生み出す力が満ちており、その一粒の麦が生み出すものは一時的なものではなく、それは永遠に残るものであるということを話しているのです。
そして、このことはご自身がこの後に十字架におかかりになり死ぬことによって、多くの人達が永遠に続く命を得ることができるということを語っているのです。そのこととしてイエスは「一粒の麦が地に落ちて死ななければ」と言われたのです。そして、さらにそれだけではなく、イエス・キリストの生涯全体を見る時に、「地に落ちて」ということは、イエス様の十字架の死だけを指すのではなく、あのクリスマス、すなわちイエス様の誕生の出来事に始まり、その十字架の死までの生涯全てを表しているとも言えるでしょう。イエス・キリストはまさしく一粒の麦として、この地上にお生まれになり、そして生きたのです。
そして、この言葉はそのまま私達全ての人間にもあてはまるものなのです。すなわち、私達もこの地に神様によって蒔かれた、言い方を変えますと神様によって生を受けた者であるということです。そして、私達という小さな麦一つ一つは、この地上で神様から許される年月を生きるように期待されているのです。そして、こんな私達にも朽ちて消えてしまうようなものではなく、永遠に残ることのために生きることができる特権が与えられているというのです。私達に与えられているこの地上での年月は神様が私達に与えてくださっている使命がある限り続くのです。
スマップの歌は、とても聖書的な意味をもっています。しかし、花は種が蒔かれた結果、咲くものです。私達は世界で一つの花です。しかし、その花のユニークさ、独自性を喜ぶ前に、私達は神によって地上に蒔かれた種であることを忘れてはなりません。
麦は実を結ぶもの:もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる(24)
麦は実を結びます。ミレーの有名な「晩鐘」という絵がありますが、あの夫婦は何を祈っているのか。一日の労働を感謝し、大地に蒔かれた種の収穫を祈っているに違いありません。この夫婦は日が暮れても蒔いた種の世話をし続けるのではないのです。その傍らには一日、使用した桑が大地に立てられており、彼らはその祈りの後、家路に着くのです。そして、彼らが立ち去った後、地中では驚くべき命の働きが起きているのです。
マタイ13章1節‐9節には種まきの譬が記されています。このところの「種」を「麦」と置き換えても何も問題はないと思います。読んでみましょう。
1その日、イエスは家を出て、海べにすわっておられた。2ところが、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわられ、群衆はみな岸に立っていた。3イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。4まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。5ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、6日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。8ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。9耳のある者は聞くがよい」。
この譬の解釈はその蒔かれた場所というものが私達の心ということです。私達の心が土の薄い石地なのか、いばらの地なのか、それとも良い地なのかということをあらわしています。そして、石地といばらの心に蒔かれた種は枯れてしまったけれど、良き地に落ちた種は30倍、60倍、100倍の収穫となったというのです。皆さん、この譬話から一つことを心にとめましょう。それは、一粒の麦がしかるべき地に落ちるならば、一粒が一粒の麦を生むのではなく、一粒の麦が30倍、60倍、100倍の麦を生むということです。
命あるものからは命が生まれます。しかし、そこには「死」が伴います。その命に固執しているかぎり、次なる命は生まれません。豊かな収穫を得た麦畑に、蒔かれた種の姿形はありません。同じようによくよく私達の人生を考えてみましょう。私達が何かの実り、この場合の実りとは純益とか利益ということだけではなくて、誰かが成長したとか、あの困難・試練を乗り越えたというような時には、必ずその人の近くにいる人達が己に死ぬということがあったと思います。
子育ての苦労はどこにあるかといいますと、自我の塊である子供というものを親が全身で受け止めなければならないことです。時にこれはとてもしんどいものであり、また忍耐を要するものです。そして、このようなところを通る時に親は何度、己に死ぬのでしょうか。親が死ななければ子は育ちません。
夫婦の間において、私達は時に自らが死ぬということをしなければ、生身の人間が何十年も連れそうことなどはできません。教会もそうです。私達のこの一年の標語は「自分の足で立つ」ということであり、これまで私達は「日本人として生まれて」というシリーズを見ており、自分で考え、自分で決断し、自分の人生に責任を持つということをお話していますが、それは当然、傍若無人な人間、ただ自分の主義主張しかしない自己中心な人間になろうということではなくて、時に永遠に残るもののために己を捨てることができるまでに自由な決断ができる人間になろうということなのです。
詩篇126篇5節‐6節には有名な言葉があります。:涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。
この聖書の言葉は種をまく人の苦労と収穫の喜びを表しています。おかしな言い方ですが、この人によって蒔かれた種も地中で涙を流さなければ、すなわちその命を失わなければ、喜びの収穫は決してないのです。
皆さん、私達は花の美しさに心が奪われます。私達が自分らしい花を咲かすことに精進することは大切です。そんな私達を見た人は何かよい影響を得るかもしれません。しかし、聖書に記されているようにそんな花々もやがては枯れてしまうものです。私達のオリジナリティー、「自分らしさ」もいつかは朽ちてしまうのです。そのような意味で「自分という花を咲かせる」ということだけでは、やはり虚しいのです。なぜならそれは自分だけに固執していることだからです。
ある人が言いましたように、私達の人生の本当の幸せは「どれだけのものをかき集めたか」ということによって決まるのではなく「どれだけのものを与えることができたか」ということによってその祝福度が変わるのです。
地に落ちた種は新しい命を生み出します。そこに私達の本当の喜びと生き甲斐があるのです。そして、それはその種が死なない限り、起きないことなのです。もし、私達がいつまでも残るものをこの地上に残すことを願うなら、そのために私達は「世界でただ一つの花」になるのではなく、「世界でただ一つの麦」にならなくてはならないのです。
ふるいにかけられるもの:自分の命を愛する者はそれを失い(25)
イエス様はかつて愛弟子ペテロに向かいこう言われました。ルカ22章31節‐32節: 31 「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。32 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
麦は収穫されるとふるいにかけられます。すなわち見た目はみな同じ麦なのですが、その中身があるかないか、ふるいにかけることによって見分けるのです。今読みましたルカによる福音書でペテロはどのようなふるいにかけられたのでしょうか、それは全く今日開かれている聖書の言葉で言われていることです。すなわち「自分の命を愛するか、それともそれを失うか」ということです。あのペテロが大祭司の官邸で直面したことは、まさしく「自分の命を捨てる覚悟をもってイエスの弟子を貫き通す」か「自分の命を救うために自分を偽る」かということであり、彼は実際のところその意味においてふるいにかけられたのです。
皆さん、私達が「ふるいにかける」という言葉を使う時には、そこには「何かの基準に達しない人達が落とされる」という意味があります。すなわち、その容姿とか学力とか身体能力というものが問われるというこです。
しかし、神様がふるいにかける時に何がその基準となるのかといいますと、それは「自分の命を愛したのか、それともそれを捨てて生きてきた」のかということなのです。そして、もしそれを捨てるのなら、豊かに実を結び、永遠の命にいたると聖書は私達に約束しているのです。反対に自分の命を愛する者は、皮肉にもそれを失ってしまうというのです。
使徒行伝20章35節にはパウロの言葉として「わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また「受けるよりは与える方が幸いである」と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」と記しています。
実際にこの「受けるよりは与える方が幸いである」という言葉を語られているイエスの言葉は聖書には記されていません。しかし、パウロは実際にイエスと共に年月を過ごした弟子達から、イエスはいつもこの言葉を言っており、またそのように生きておられたということを聞いていたのでしょう、彼はそれを受けて常に人々にこのことを教えていたのです。
イエスがこの言葉を語り、それに生きていたということ、それは今日、開かれている言葉にもうかがい知れますし、こんなマタイ16章24節-26節に記されている言葉からもうかがい知ることができます。
それからイエスは弟子達に言われた。「誰でもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人がその全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
イエス・キリストは私達の人生の極意をここで語っているのです。そして、それは私達が思い描くものとは全く逆のことなのです。先ほども申し上げましたように、私達は「どれだけのものをかき集めるか」に心を奪われ、この地上での人生を終わります。しかし、イエスはそんな私達に言うのです。たとえその努力によって、あなたが全世界を手中に収めたとしても、自分の命を損したらどうなるのかと。あなたはそれを買い戻すことはできないのだと。
私は時々、これから結婚するカップルとその準備をすることがあります。その時に聞くことがあります「あなたはなぜ、この人と結婚しようと思ったのですか」。その時に「彼(彼女)なら私を幸せにしてくれると確信したからです」と言われる方がいます。この確信はとても大切なものです。しかし、私達はこの確信では不十分なのです。シンプルに言いますと「私を」という心構えで結婚生活を続けることは難しいのです。すなわちこの確信と共に「私は彼(彼女)を幸せにしたいと思ったからです」という言葉が不可欠なのです。もし私達が互いに「私に、私を」と言っているなら、「Give me your love」というのが結婚生活であるなら、その生活はいつか行き詰ってしまうでしょう。当然です、互いに愛を奪いあっているのですから。それでは互いに引き裂かれてしまいます。しかし、もし私達が「私はあなたに何ができるでしょうか」「I want give my love to you」と互いに向き合うなら、そこには永遠に続く命が生まれるのです。
先にも申し上げましたように私はスマップの「世界に一つだけの花」が好きです。それはとても聖書的な歌です。確かに神様は私達を一人一人ユニークに作ってくださったのですから。しかし、神様が私達に望まれていることは、願っていることはそれだけではありません。神様は私達に「世界に一つだけの麦」として生きることを望んでいるのです。そして、ひいてはそのことは私達が最も幸いな人生を歩む秘訣なのです。お祈りしましょう。
本日のお持ち帰り 「世界に一つだけの麦」
ヨハネ12章20節‐25節を読みましょう。
あなたは「一粒の麦が地に落ちて」(24)とあるように、麦は蒔かれるものであるということについてどう思いますか。あなた自身をを一粒の麦とするならば、あなたが地に落ちたということは何を意味しますか。
「花」について聖書はなんと言っていますか(詩篇103篇15節-17節、イザヤ40章6節-8節、Ⅰペテロ1章24節、ヤコブ1章11節)。
あなたは「もし(麦が)死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」(24)とあるように、麦は死んで実を結ぶものであるということについてどう思いますか。私達の人生の本当の幸せは「どれだけのものをかき集めたかではなく、どれだけのものを与えることができたか」ということによって決まるという言葉をどう思いますか。
ルカ22章31節を読みましょう。この言葉はイエス様がペテロに語られた言葉です。ここの記されている「ふるいにかける」とは、ペテロが自分の命を愛するのか否かということを意味します。あなたは「自分の命を愛する者はそれを失い」(25)とあるように、日々、ふるいにかけられているということについてどう思いますか。
あなたはこの世界にただ一つのかけがえのない麦の種です。あなたはそれを一粒のままで終わらせますか。それとも、30倍、60倍、100倍にしますか(マタイ13章1節-9節)。その唯一の秘訣は種が死ぬことです。あなたにとって「死ぬ」ということはどのような意味をもっていますか。あなたが日常生活で実行できる死にはどんなことがありますか。