「自分探し」という言葉をここ10年、聞くようになりました。その背景には「自分らしさ」というキーワードがあり、自分らしく生きるためには自分というものがどんなものなのか、「自分探し」が必要となるようです。そのために多くの人がボランティア活動をしたり、旅に出たりすることで、自分自身と向き合おうというようなことが盛んになされているようです。
かくいう私もこの「自分探し」という名目により、20年も昔に自転車、時にはバイク、時にはバスや船にのり、旅に出たことがあります。どういうわけかそのような「自分探しの旅」というのはパック・ツアーであってはならず、できる限り貧しく切り詰めた旅でなくてはならず、四方を囲む壁と屋根があれば事足れりというような苦労の多い旅でなくてはならぬという暗黙の掟があったように思います。私もそれに従い、方々を廻りました。それこそ必死で「自分探し」なるものをしていたのですが、それから20年たった今、私は大きな誤解をしていたのだということに気がつかされています。今日はその大きな誤解について、創世記から見ていきましょう。
マック
今日、礼拝でお話したメッセージです。
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「自分探し」の誤解
創世記3章1節―9節
2009年7月12日
「自分探し」という言葉をここ10年、聞くようになりました。その背景には「自分らしさ」というキーワードがあり、自分らしく生きるためには自分というものがどんなものなのか、「自分探し」が必要となるようです。そのために多くの人がボランティア活動をしたり、旅に出たりすることで、自分自身と向き合おうというようなことが盛んになされているようです。
かくいう私もこの「自分探し」という名目により、20年も昔に自転車、時にはバイク、時にはバスや船にのり、旅に出たことがあります。どういうわけかそのような「自分探しの旅」というのはパック・ツアーであってはならず、できる限り貧しく切り詰めた旅でなくてはならず、四方を囲む壁と屋根があれば事足れりというような苦労の多い旅でなくてはならぬという暗黙の掟があったように思います。私もそれに従い、方々を廻りました。それこそ必死で「自分探し」なるものをしていたのですが、それから20年たった今、私は大きな誤解をしていたのだということに気がつかされています。今日はその大きな誤解について、創世記から見ていきましょう。
人が失われた時
この創世記には世界で初めになされたことがたくさん書かれています。すなわち、世界で一番最初の男女、世界で一番最初の結婚、労働、親子、家族、殺人、産業、文明などなど、それを挙げたらきりがありません。
そんな中、今日の箇所にはアダムとエバという人が出てきます。皆さんも聞いたことがあるかもしれません。神様が造られた最初の男性、女性です。彼らは神様によって創造されて、エデンの園という所におかれました。そして、神様はその園を彼らに管理させたのです。神様はその園に生えているいかなる植物を心のままに取って食べてよろしいとアダムに言われました(16)。しかし、神様はたった一本、善悪を知る木からはその実をとって決して食べるなと言われました。神様はそこに神と人との区別を作られました。つまり、人は神によって制限される者であり、人が神をコントロールするということではないということがここに明確に記されています(神をコントロールするとは、すなわち「自分が祈った通りに、はたらいてくださいな」というように、私達は神を小間使いのように使うことがあるということです)。
アダムとエバのエデンの園での生活は楽しかったと思います。何せ、働かなくても木々がたわわに美味しい実を結ばせるのですから。しかし、そんな彼らに蛇が近寄ってきました。蛇は女、エバにこう聞いたのです「園にあるどの木からも取って食べるなと、本当に神が言われたのか。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを神は知っておられるのです」。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいように見えました。
皆さん2章16節、17節を見ると神様はこの実を食べるなと男であるアダムに言われたのであって女エバに直接言ったのではなかったことが分かります。蛇は細かいところまで悪知恵で満ちています。神様から直接、その言葉を聞いていない女エバに蛇はまず忍び寄りました。そして、それはエバには美味しそうに、美しく見えたのです。蛇はエバに「神様はこの実を食べるなとあなたに言ったでしょう」とは言いませんでした、「園にあるどの木からも取って食べるなと、本当に神が言われたのか」と問うたのです。
これは、人の確信をぐらつかせる誘導尋問です。彼女はいとも簡単にその実に手を伸ばし、そしてそれを食べたのです。そして、それをアダムにも勧めたところ、彼は「それはよろしくない!」と断固として男として夫として先に造られた者として神に直接聞いた者として反対したかというとそうではなく、彼は女エバに勧められてあっさりと食べてしまったのです(時々、女スパイの活躍なんてことを聞きますが、あながち作り話ではないようです)。
その彼らが、その実を食べてしまった時からある事に気がついたと創世記は言っています。そう、それは彼らが自分たちが裸であることに気がついたということです。そして、それを恥ずかしく思ったというのです。そこで、彼らはその腰にいちじくの葉を巻いたというのです。
皆さん、想像してみてください。アダムとエバ、いちじくの木の前で、自分を隠すために葉っぱをちぎっている姿を。彼らは人類最初の夫婦なのです。その夫婦の間に互いに隠すべきことができたのです!(この辺り、現代夫婦論に結びつきそうです)そして「これは丈夫そう」「これならサイズも合うだろう」ああでもない、こうでもないと彼らは腰にそれを巻きました。これを服と呼べるかは分かりませんが、人類最初に人が自らの体を覆ったものということができると思います。
なんか漫画に描写されるような話です。そして、私たちには何の関係もない太古の話のように聞こえてきます。ある人達にとっては何か苦笑いしたくなるような光景かもしれません。しかし、そんな思いも一つのことに気がついたら吹き飛んでしまうのです。何に気がついたらでしょうか。それは聖書が「このアダムとエバの姿こそが私たちの姿なのだ!」と言っていることです。
私の娘がまだ2,3歳の時でしたが、時々、道端に咲いている草花をとってきて小さなコップに入れて、私の机の上に置いておいてくれたことがありました。父親としては、ニヤけるほど嬉しいことなのですが、それは一日、二日でしぼみ枯れてしまうのです。説明するまでもない、それは娘が悪いのではなく、それらは生きていたものであり、その茎が根元から切られたのですから当然です。
アダムとエバのイチジクの葉もスグに枯れたに違いありません。日差しが強い日には朝に昼に夜に何度も、その葉を変える必要があったに違いありません。イチジクで身を覆うということは、自らを隠すということです。そして、それは別の言い方をすると、それは恥ずかしく思うことであり、それは心の中の何かしらの罪悪感と関係があります。また、心の心配を何かで覆うということも言えるでしょう。もっと言いますと心の空白、虚無を何かで埋め合わせようとすることです。
そして、それはイチジクの葉がそうであるように、やがては枯れてしまうのです。本当に私たちの心にある罪悪感、心配、空白、空虚をなくすことはできないのです。唯一、私たちが出来ることとは次の見た目によい葉を見つけることなのです。
それを繰り返すことなのです。
まさか、今日、私はボストン産のイチジクの葉を巻いていますとか、私はフロリダ、タンパのいちじくを使っていますという人はいないと思います。そんなトレンドを今のところ聞いたことがないのです。しかし、私たちはイチジクの葉こそ腰にまかずとも、自らの心の罪悪感や心配や空虚さを何かをもって埋めようとしていないでしょうか。
今日、このイチジクの葉が色々なものに形を変えて私達の間に存在しています。あの高校、あの大学、あの店で食事をする、あの会社、あの役職、あの土地に家を建てる、子供はあの学校、この学校、孫はあの幼稚園・・・(これの繰り返しです)、こんな女性、あんな男性と結婚、老後はあそこで、ここで、しまいにはわたしの葬式は、恥ずかしくないように墓石の値段は幾ら幾らで・・・。これらは真剣に考えるべきとても大切なことです。さらに、心配事や虚無を埋め合わせるためのしばしの快楽。時にこれらは、どうにかして自分の後ろめたさや自分の弱さを隠すため、恥ずかしくないための現代のイチジクの葉っぱになっていないでしょうか。
木から切り取った直後の葉はしばらくはいいのです。しかし、時がたてば、それらは枯れていくのです。そして、また次のものへ、しかし、また枯れていく。そして、それは言うまでもない、決して満たされることのない私たちの心を表しています。この創世記のアダムとエバの出来事ほど私たちの世界の現実と問題を指摘しているものはありません(聖書はスゴイ書物だと思いませんか)。
今も探しておられる神
さて、その禁断の実を食べてしまった彼らは、園の木の間に神の顔を避けて隠れたと8節に書かれています。そのアダムとエバに対して神様は言われました。「あなたはどこにいるのか?」この言葉はアダムとエバに語られた神様から人間への人類最初の問いかけです。ですから、こんなに古い言葉はありません。しかし、この問いかけほど新しい問いもありません。どれくらい新しいかというと、今も私たちに語りかけられている言葉なのです。今日、あなたに神様が語りかけている言葉なのです。
創世記においてアダムとエバは神のみ手の中にいました。それは彼らにとってエデンという園でした。彼らは神の近くにいたのです。もっと言いますと、彼らは本来彼らがいるべき場所にいたのです。しかし、「神のようになれる」という誘いに彼らは心惹かれて、今や本来いるべき場所から迷いでて、神の顔を避けるようになったのです。そのままで素晴らしい神の作品であったにもかかわらず、彼らはその作品を何かで隠さなければならなくなったのです。そして、驚くべきことは神様自ら、そんな彼らを探し尋ねているというのです。
このぶ厚い聖書は実にその3ページ目に「神様自らが人を探し求めているのだ」と書いています。もっと具体的に強い言葉で言いましょう「神様は枯れてしまうイチジクの葉を追い求めている、私たちを探し求めているのです!」
そして、その神の思いはこの後、イエス・キリストのうちに「失われた者を探す情熱」として現れました。このお方は、アダムとエバを探す創世記の神の姿をその譬えの中で分かり易く話されました。ルカによる福音書を見ますとイエスによって言われたたくさんの譬えが書かれています。そして、その中に「失われた羊の譬え」「失われた銀貨の譬え」「放蕩息子」の譬えが書かれています。どれもこれも誰かが失われたものを探しているという譬えなのです。
100匹の羊を飼っている人がいました。そのうちの一匹がいなくなりました。その牧者は99匹を残して、その失われた一匹を探すというのです。そして、見つけたら友人や隣り人を呼び集め喜ぶというのです。
ある女が銀貨10枚を持っていました。しかし、その一枚をなくしました。その女は明かりをつけて家中を掃き、それを見つけるまで探し続けるというのです。そして、見つけたら同じように女友達、近所の女たちを集めて喜ぶというのです。
いうまでもない一匹の羊を探す羊飼いも一枚の銀貨を必死に探す女も父なる神の姿を現しているのです。
そして、放蕩息子の譬えです。ある父親に二人の息子がいました。その弟の方が早々に自分が将来受け継ぐべく遺産を父からもらいたいと父に願うのです。そして、彼の願いは叶い、彼はその財産をもって旅に出、その先でそれらのお金を使い尽くしてしまうのです。そして、最後には豚の食べる飼料でその空腹を満たしたくなるほどに彼は落ちぶれていきました。しかし、彼は気がつくのです。家に帰ろう。聖書はそれを「本心に立ち返って」と記しています。彼は本心に立ち返って家に帰るのです。豚と共に過ごしていた日々、体中から不快なにおいがしたことでしょう。ヨレヨレ、ドロドロの格好で家に近づきます。それは彼の心の状態を表していたことでしょう。それは枯れることのないイチジクの葉を求めたなれの果ての姿でありました。
心臓が高鳴ります。門前払いされるのか、罵られ笑われのか、ふと目を上げるとあちらから駆け寄ってくる人がいる。だんだんと顔が見えてくる。ああ、父さんだ。聖書は言います「まだ遠く離れていたのに、父は彼を認め、あわれに思って走りより、その首を抱いて接吻した」父は来る日も来る日も家の彼方に息子の姿を探していたのです。息子よ、今どこにいるのか、お前はどこにいるのか、お前は本当はここに私と共にいるべき者なのだ!最初の人アダムとエバに神様が投げかけた言葉こそが聖書が一貫して、私たちに語りかける神様のお心です!
私は「自分探し」という名目で日本を旅し、まだ自分が見使わず、分からず、中国、長江をのぼり、タイのヒッピー街に身を潜め、インド、ガンジス川の流れを見つめました。しかし、先にお話しましたように、それから20年たった今、私は大きな誤解をしていたのだということに気がつかされています。それは私が自分を探すのではなく、神様が自分を探しておられるということであり、「あなたはどこにいるのか」というその応答に答えた時こそ、私達は本当の自分を見出すことができるということです。
先ほど、今でも私たちは「イチジクの葉」で身を覆っているといいました。私もあちこちで見つけてきた「いちじくの葉」で私自身を覆っていたのです。今、思えば若い頃、自由が与えられたと思っていた自由は、とっかえひっかえのイチジクの葉であったということに気がつきます。どうにか自分の心を満たそうと色々な本を読んだり、人と会ったり、映画を見たり、それによって多くのことを教えられましたが、それらは私にとってイチジクの葉っぱでした。
ここにいては何も見つからないと思って、神様はとうとう私をインドにまで導きました。そこに枯れないイチジクの葉を求めて行ったのです。しかし、インドにも朽ちないイチジクの葉はなかったのです。しかし、神様のあわれみによりインドのべナレスという町で神様は「あなたはどこにいるのか」と自分に語りかけてくださいました。もし、それがなかったら、私はネパールにもチベットにも行っていたでしょう。しかし、そこでも朽ちないイチジクの葉を見出すことはなかったことでしょう。
最後に創世記の出来事をもう一つお話しして終わりましょう。この創世記の3章の終りの方を見ますとこんな言葉を見出します(3:21)「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」
わずか一節の短いみ言葉です。スイスイと聖書を読んでいれば見過ごしてしまうような箇所です。しかし、皆さん、このところに私たちが求めている答えがあるのです。神様は自ら、いちじくの葉をとっかえひっかえ変えているアダムとエバを見て、彼らに皮の衣を与えたのです。これはいちじくの葉が一日、二日で枯れてしまうものであるということに対しては、皮の衣とは永遠に朽ちることがないということの対比となっております。
ここを見る時に私たちは分かるのです。私たちの恥、罪というものを本当に覆うことができるものは、私たちが自分で探し獲得するのではないということ、いいえ、それは獲得できないものであり、それは私たちに命を与えて下さったお方が私たちにくださるものなのです。
そして、それは皮の衣だったのです。皮の衣とは動物の血が流されて、はじめて得ることができるものです。彼らの恥、罪を覆うためには動物の血が流されたのです。そして、それはあるお方の予表となっているのです。それはイエス・キリストの十字架です!キリストの十字架こそが私たちの心を本当に包みこむことができるものであり、それは朽ちることがないのです。
このお方は私たちのためなら、どこまでも探しに行くと言ってはばからない方です。あなたが私の元に帰るならば、私はあなたがどんなに悪臭を放っていても、私はあなたを抱きしめて迎えると言われるお方です。このお方が十字架にかかり、私たちの罪は全て赦されたのです。
今から1650年前にアウグスティヌスという神学者がいました。彼の母は、とても信仰深い母親で、彼はこの母親から「母の乳と共にキリストの名を吸い込んだ」というほどに影響を受けました。彼は若くして弁論術の教授になりますが、
その生活は荒れていました。盗みとそれに伴う興奮から人のものを盗み、一人の女性と同棲生活を続け子供までもうけ、結局この女性と別れて、別の女性と婚約しますが、婚約期間中に別の女性と関係を持つというような生活を続けます。
彼は後にこのような生活をしていることへの罪の意識もあって、マニ教というこの世界のすべてを否定する教義をもつマニ教に帰依しますが、それによって希望を見出すことができません。アウグスティヌスは、苦しみの中でもだえ、もう死ぬしかないと思っていたその時、家の外から子供達が「とって読みなさい。とって読みなさい」と遊ぶ声が聞こえてきたのです。もちろん、それは子供の遊び歌ですから、彼に向かって子供が語りかけたのではありません。しかし、アウグスティヌスはその歌を聞き、同室の友人が持っていた聖書を手にとって読みます。
聖書を開くとこう書いてありました。「宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」(ローマ人への手紙13章13節–14節)
皆さん、アウグスティヌスの生涯もある意味、イチヂクの葉をとっかえひっかえと身にまとうような儚い快楽に寄って立っていたものであったに違いありません。しかし、その彼が「イエス・キリストを着なさい」という言葉に出会ったのです。
この時の心境をアウグスティヌスはこう言っています「その句を読み終えるや、いなや、たちまち心は、光のようなものに満たされて静まり、おおっていた闇も、すっかりかき消されて、もはや、何の疑いも残らなかった」。その後、彼は教会の指導者となって人々のキリスト愛と恵み、救いがどれほど完全ですばらしいものであるかを証しするように変えられていきます。この経験を通して、彼は有名な言葉を私達後世の者に残すのです「人は神を見いだすまで、神の懐に抱かれるまで、本当の安らぎ、喜びを知ることはできない」。
皆さんの中には生まれて初めて今日、聖書を開いたという方いるかもしれません。
教会の礼拝に初めて来たという方いるかもしれません。もしかしたら、この中には私のように「枯れることがないイチジクの葉っぱ」を探しにアメリカに来た人がいるかもしれません。もし、そんな方がいるならば、今日、覚えて下さい。そんなあなたを神様は探しておられるということを。
ここに「イチジクの葉」があります。これはニ週間ほど前に木から切り離したきものです。その時はフレッシュで葉にも張りがありました。しかし、今はどうでしょうか。握り締めればバリバリと朽ちてしまうのです。皆さん、神様の最高傑作である皆さんご自身をこのようなもので一時的に覆い隠すようなことはやめましょう。
今日、皆さんにお尋ねしたいのです。「あなたはどこにいますか?」。これまでのイチジクの葉を捨てて、確かにイエス・キリストという皮衣を着せていただきましょう。その皮衣は決して朽ちてしまうことがないものなのですから。お祈りしましょう。
本日のお持ち帰り
「自分探し」の誤解
創世記3章1節―9節
①あなたは「自分探し」をしたことがありますか。何をしましたか。あなたはその時「自分」を見つけましたか?
②蛇の語りかけにより、アダムとエバは神様から禁じられていた実を食べてしまいました。そして、その時に彼らは自分達が裸であることを知り、それを恥ずかしく思い、イチジクの葉で身をまといました。「罪」と「恥」とはどのような関係にあるのでしょうか(日本人は罪意識よりも恥にとても敏感です)。
③「イチジクの葉」は何を象徴していますか。あなたにとってイチジクの葉は何ですか。その葉が枯れた時に(失われた、奪われた、失くした、壊れた)、あなたは何を感じましたか?そのことからあなたが学んだ教訓は何ですか?
④アダムとエバは葉を身にまとい、園の木の間に神の顔を避けて隠れました。神の前から隠れようとする心理は、どのような心からきているのでしょうか。
⑤その二人に神様は「あなたはどこにいるのか?」と言われました。この言葉はアダムとエバに語られた神様から人間への人類最初の問いかけであり、今日もこの言葉は私達人間に語りかけられているものです。今回のメッセージタイトルは“「自分探し」の誤解”ですが、私達は何を誤解していたのでしょうか。
⑥創世記3章21節には「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」と書かれています。神様自ら、日毎に枯れるの葉を変えているアダムとエバを見て、彼らに皮の衣を与えたのです。この皮の衣は何を表していますか(皮が出来るためには何が必要ですか)。
⑦アウグスティヌスがその享楽の生活の中から見いだした言葉、「人は神を見いだすまで、神の懐に抱かれるまで、本当の安らぎ、喜びを知ることはできない」という言葉をあなたはどう思いますか。
⑧最後の質問です。今、あなたはどこにいますか?
