新年聖会

DAVID先週、金曜、土曜日とロサンゼルスで新年聖会がもたれ、メッセージを取り次がせていただきました。せっかく準備したものですので、以下、その内容を公開します。

今日、イスラエルの国旗は白地に青く染め抜かれた星がその中央にあるもので、それはダビデの星と呼ばれています。今もユダヤ人にとってこのダビデは最も偉大な王です。しかし、どの人間にもその人生の失敗や汚点というものがあるように、このダビデも人間、その人生に失敗を犯しました。その失敗の中でまず私達の心に思い浮かぶ失敗は彼に忠実に仕えていた部下ウリヤの妻、バテシバと肉体関係もち、そのことを隠すために嘘偽りを語り、最後には間接的ではありますが、明らかに意図的にウリヤを殺したということです。

 これらのことについてダビデには弁解の余地はまったくありません。彼はモーセに与えられた十戒のうち「人を殺してはならないこと」、「姦淫してはならないこと」、「盗んではならないこと」、「偽証してはならないこと」、「隣人の家をむさぼってはならない」と十戒の半分を破りました。まさしく、もはや彼は神の前には立ち得ない、その場で断罪され、裁かれても仕方のないところに立たされました。

これが私達人間の赤裸々な姿です。このような人間に対して神は何をなさっているのでしょうか・・・。わたし達はよく「豊かな恵み」という言葉を使いますが、その本当の意味がどれだけ分かっているのでしょうか。

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マック

2013 新年聖会テーマ

「ホーリネスの恵の豊かさに生きる」

2013年1月5日 午後1時30分

 アメリカで車を運転している者にとりまして、自分の車を信頼して委ねることができるボディーショップ(自動車修理屋さん)があるということはとても大切です。中には悪質な所もあるでしょうし、直す必要のないところを大袈裟な問題として部品を交換させるような業者もあるからです。幸いなことに私もあちこち廻り、信頼できる修理屋さんを身近に見つけ、今はそこに落ち着いて、いい関係をもっています。一番、助かるのは彼らが教会の近所でビジネスをしており、車を置いて歩いて教会に帰って来れ、また連絡があれば歩いて車を取りにいけるというのがとても便利で重宝しています。

 このボディショップに私が信頼を寄せるようになったのは、たとえば「この部品は古くなっているけれど、まだ半年は変えなくて大丈夫だよ」というような、自分の儲けではなくて、顧客の側にたって発言をしてくれる人達だということが分かったからです。ですから、この人達に「これは変えなくてはならないね」と言われれば、本当にそうなのだなと思い、その修理を依頼します。

 いつも「オイルチェンジ」のために車を置いてきますと、数時間すると「終わったよ」という電話がかかってきます。緊張する一瞬です。なぜ緊張するのか。「オイルチェンジ以外に、このような不具合がある、この部品は変えなければならない」ということが時々、告げられるからです。これはなかなか緊張の瞬間です。しかし、命にかかわることですので財布を気にしながらも、極力、その言葉に従い必要な修理をしていただいています。

 私達が聖会や修養会に来るというのは、そのようなチェックアップにくるという一面があるようです。このことは今は大丈夫、でもこのことが今の自分にとっては課題だというように、この新年聖会がそのような神様の御前での私達自身をチェックする時となりましたことを確信しています。

 それではこの新年のはじめ、私達は何をチェックしましょうか。今日、皆さんと見ていきたいのはこの新年聖会のテーマになっております「ホーリネスの恵の豊かさ」ということです。「ホーリネスの恵の豊かさ」という「ホーリネス・恵・豊かさ」という言葉はどれも私達にとって、常日頃、聞くとてもシンプルな言葉ですが、気をつけなくてはならないことは、このような聞きなれた、シンプルな言葉だからこそ、私達はその意味をよく知らずに、ただ習慣のようにこの言葉を使っていることがあります。

 「豊か」という言葉を辞書で調べてみました。そこには「 満ち足りて不足のないさま。十分にあるさま」とありました。十分に備わって不足のないさま。豊富であるということです。 「恵み」と言いますと私達はよく「受けるに値しない者に与えられる神の無条件の愛」と言います。これら二つをよくよく考えますと、これは本当にすごいことだと思います。それは「ホーリネス信仰が私達に与えてくれる不測のない十分な神の無条件の愛」ということです。先ほどのチェックアップではありませんが、私達は今一度、この神の愛に立ち返ることができますように、この午後、主のみ言葉に向き合いたいと願っています。

 私達のテーマとして与えられている聖書の言葉は詩篇23篇5節、すなわち『あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油を注がれる。わたしの杯はあふれます』です。

 

 多くの皆さんはこの言葉が詩篇23篇に記されていることをご存知かと思います。

 1主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。2主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。3主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。4たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。5あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。6わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。

 この詩篇23篇の作者はダビデ、彼はかつて年若い時にベツレヘムで羊飼いをしていました。しかし、その彼が神様によって引き上げられ、イスラエルの二代目の王となりました。その生涯は波乱万丈であり、おそらくその晩年、彼はその自分の生涯を一つ一つ思いおこし、実に主こそ私の牧者であったということを振り返っているのです。今日はこの5節のみ言葉を三つに分けてその中に隠されているホーリネスの恵の豊かさを私達の心に語りかけてみたいと思います。

 「敵の前での宴」(ありえない待遇)

 

あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油を注がれる。わたしの杯はあふれます』 

 昨年、イスラエルを一人で旅しました。そのイスラエルにハロデというギルボア山麓にある泉わく場所があります。そこは旧約聖書に記録されているあのギデオンがミデアン人との戦いの前にイスラエルの兵士たちが泉からどのように水を飲むか、その様を観察した場所です。ギデオンは周りに注意を払いながら、手で水をすくって飲んだ兵士だけを選び、実際、その兵士は数少なかったのですが、彼らと共に戦に勝利した、あの泉がある場所です。今はこの泉から湧く水を使ったプールがあり、地元の人達が集うような場所となっておりましたが、確かに泉が今でも湧いており、しばし、その所でギデオンとイスラエルの兵士達のことを想像しながらしばしの時を過ごしました。戦というものはそもそも、そういうものです。隙あらば私達は奇襲を受けてしまうゆえに、本来、水を飲む時さえも細心の注意をしなければならないような緊張感が必要とされるものです。

 しかし、ここではその敵の前というありえない状況で宴が設けられるというのです。普通で考えますのなら、敵の前で宴を設けようなどということは考えもしません。ましてやそんな所では食事も喉を通りません。しかし、ダビデはここで「あなたはわたしの前でわたしの前に宴を設け」と記しているのです。

 多くの場合、詩を書く作者はその詩の中に自分の体験を盛り込みます。そう考えますのなら、この言葉はかつてダビデ敵の前で宴が設けられたという経験に基づいて書かれていることなのでしょうか。

ダビデの生涯にはかつてこんなことがありました。彼は先代のサウル王の妬みと憎しみを受け、命が狙われ逃亡生活をしていた時があります。その時のことが記されているサムエル記上25章を見ますと、サウルの執拗な殺戮に満ちた追跡を受けていたダビデはパランの荒野においてナバルの妻アビガイルによって食事が与えられたと記されています。

彼の生涯、追跡を受けたのはサウルだけではなく、彼はわが子アブシャロムの謀反にもあい、わが子に命を狙われながら都落ちしたことがありました。そのことが記されていますサムエル記下16章によりますと、ダビデがアブシャロムから逃れ、さ迷っていました時にメビボセテの僕、ヂバが彼に食事を提供したということが書かれています。またサムエル記下17章にも、同じように息子アブシャロムに追われている時に、ハジライとその仲間達が「ダビデが荒野で飢え疲れかわいている」と聞きつけ、大量の食物をダビデに与えたと記録されています。

まさしく「わたしの敵の前で、わたしの前に宴をもうけ」というのは、彼の想像から生まれた詩的な表現ではなく、それはまさしく彼が時にはサウロ、時にはわが子から追われながら、日夜その身を横たえる場所を変えつつ、荒野をさまよう日々を過ごしていた時に「あの時にあの状況で、口にした食事のことは決して忘れない」という彼の体験であり、それは彼を知り、彼を慕う者たちからの好意の捧げものだったのですが、ダビデは自分に刃を向けて追い迫っている敵がいるという緊迫した状況の中、神様が本当ならありえない宴をその時に設けてくださり、自分は神の守りの中、安心してしばし憩い、力を新たにすることができたのだとその時のことを思い起こしていたに違いありません。

そして、この敵というのはダビデのように身の危険を感じさせる迫り来る敵を意味するでしょうし、同時に私達自身の内側にある「敵」、すなわち、私達と神様との親密なかかわりを妨げようとする私達の内にある罪、パウロがローマ書7章で申していますように、私達が善と知っていながら、それをする力がない、そのような私達自らの内なる心そのものが、自分の敵となってしまうような、ある意味、私達にとって一番、厄介な敵としても考えることができます。ダビデはサウルやアブシャロムからは物理的に逃れることができますが、私達の内なる心はいつも私達と共にあるからです。

さて、それではそのような内なる敵により窮地に追い込まれた者達に対して設けられた宴というものが聖書には記されているのでしょうか。これがこのような宴というものが聖書の中には数多く、特にイエス・キリストと共に聖書の中には記されているのです。

まず思いますのはイエスの弟子であったペテロの心でしょう。かつてイエスを裏切り、イエスを知らないと言い放ち、そのような意味でその罪悪感と敗北感と共にその人生を歩まなければならないはずだったペテロの前に復活のイエスはあらわれ、自ら炭火を起こして魚を焼き、彼と共に食事をしました。本来なら「この裏切り者め、一度ならず三度もよくもわたしを知らないと言えたものだ!」と言うことができたイエス様はそのありえない状況の中でペテロのために食事を備えて待っていたのです。言うまでもない、このガリラヤ湖畔の食事こそがペテロの後の人生の原点となります。

あの罪人の代名詞とされていた取税人を生業としていた木の上にいるザアカイに対してイエス様は言われました「ザアカイ、急いで下りてきなさい。今日、あなたの家に泊まることにしているから」。この言葉はイコール、今晩、共に食卓を囲もうではないかということです。自らが悪い事をしていることを知っていたザアカイの心をそれまで誰も開くことができなかったのですが、このありえない状況の中で彼の心は開き、その回心にいたったのです。

パリサイ人や律法学者達は度々、イエスに向かって「この人は罪人達を迎えて一緒に食事をしている」とつぶやき非難しました。彼らは汚れた者と呼ばれ、話すことも咎められていたその人達と共に食卓を囲むというこのありえない状況の中でイエス様は彼らと食を共にしました。

父親の財を先取りし、それを全て浪費し、体のみならずその心の悪臭も抜け落ちないような様で帰宅した放蕩息子をその父は抱きしめ、まず彼のためにしたことは彼のために肥えた子牛をほふり、食べて楽しもうではないかと祝宴を用意したのです。それは彼の兄にとってはありえない弟への待遇でしたので、彼はその心の中に暗き思いをもちました。言うまでもないあの父は神様をあらわし、弟は私達を意味します。

このように、この「敵の前に宴を設け」というのは、本来ならありえない神様の私達に対する待遇なのです。ありえない待遇とはまさしくダビデのような緊迫した状況の中に私達に神様が与えてくださる、この世が与えるのとは異なる平安を意味し、また本来、神様の前に出ることなどできない私達、罪人がイエス・キリストが備えたもうその食卓に共にあずかることが許されているということなのです。

あのイエス様が十字架にかかる直前にも、エルサレムの二回座敷でイエス様は弟子達と食卓を囲み、そして、パンとブドウ酒を弟子達に分け与えました。それはご自身が流す血、ご自身が十字架上において裂かれるその体を意味しました。今日、私達が聖餐と称しているその始まりです。あの時、あの場所でイエス様は弟子達に言われたのです。イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。(ルカ22章15節)。

ホーリネスの恵の深さとは、本来、神様にとてもではないけれど近づくことができないような生き方をしていた者達が、あなたと食事をしようと切に望んでいたと言ってくだあるお方の招きを受けて、本来、つくことができないその神の祝宴の席に座ることができるということなのです。そして、そのことを何よりも願っておられるのはイエス・キリスト御自身なのです。

現在、千葉県で牧師をしていらっしゃる、もとヤクザだった鈴木啓之(ひろゆき)先生という方がいます。以前、私達の教会にも来てくださいました。先生はヤクザ歴17年という筋金のヤクザ、博打に恐喝、関西でその名を馳せますが自らの過失により最後は仲間から命を狙われ、妻子を関西に残し、愛人と共に関東へ逃亡生活。極道の世界からも見放されるというような中、クリスチャンである韓国人の妻はそんな彼のために祈り続けました。ある時、東京から久しぶりに大阪の家に帰ってきた時、わが娘を心配して妻と共に暮らしていた義理の母が、先生の顔を見るとまず一言、韓国でこう言ったそうです。『ごはんは食べたの・・』

このお母さんがとった行動は本来、ありえない待遇です。わが娘と孫を不幸のどん底に落としいれ、ぬけぬけと家に帰ってくるような者をこのお母さんはありとあらゆる言葉で罵ることができたでしょう。しかし、彼女はありえない言葉で先生を迎え入れたのです。そして、このことが先生を回心へと導いていくのです。

そして、それは人事ではない、わたしたちもこのありえない待遇を今、神様からいただいているのです。「ホーリネスの恵の豊かさ」とはこのように私達に対する神様のありえない待遇にあらわされているのです。そして「ホーリネスの恵の豊かさに生きる」という「生きる」ことの原動力になることは、私達がこの自分自身に対するありえない神様の待遇という恵みの豊かさに心感じて、それに応答することなのです。二つ目のことをお話しましょう。

わたしの頭に油を注がれる(ありえない選び) 

『あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油を注がれる。わたしの杯はあふれます』 

 ダビデは自らの人生を振り返りつつ、敵の前で宴を設けてくださっうた神様のことを思ったに違いないとお話しました。それでは「わたしの頭に油を注がれる」ということはどうでしょうか。彼の人生のそのような経験はあったのでしょうか。

 ルカによる福音書7章を見ますと、イエス様を食事に招いたパリサイ人、シモンに対してあなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、私の足に香油を塗ってくれました』(ルカ7章46節)と記されています。すなわち、頭に油を注ぐというのは客人に対する最大限の歓迎の意をあらわすものであり、ダビデもそのようなことを数多く経験したに違いありません。特に王となってからは彼の頭に油を塗るための専属の僕というものもいたかもしれません。そのことを通して先にお話しましたことと関連して申し上げますのなら、ダビデはありえない神様の待遇をも何度も経験したことでしょう。

 しかし、そのような思い出以上に「頭に油が注がれる」ということについて、彼には決して忘れられないられない、あの日の出来事を思い出していたに違いありません。「あの日」とはいつでしょうか。そうです、彼の人生において油を注がれた時、それは彼の家にサムエルが訪ねてきた時のことです。

 ダビデの時代、イスラエルでは王、祭司、預言者の任職の時に、油が注がれました。ダビデも若い時、その油を注がれた時がありました。そうです、イスラエル初代の王サウルが神様によって退けられた後、預言者サムエルがダビデの家庭を訪れたというサムエル記上16章に記されている出来事です。少し長いですが、とても私達の心に触れる出来事ですので読んでみましょう。

 1さて主はサムエルに言われた、「わたしがすでにサウルを捨てて、イスラエルの王位から退けたのに、あなたはいつまで彼のために悲しむのか。角に油を満たし、それをもって行きなさい。あなたをベツレヘムびとエッサイのもとにつかわします。わたしはその子たちのうちにひとりの王を捜し得たからである」。2サムエルは言った、「どうしてわたしは行くことができましょう。サウルがそれを聞けば、わたしを殺すでしょう」。主は言われた、「一頭の子牛を引いていって、『主に犠牲をささげるためにきました』と言いなさい。3そしてエッサイを犠牲の場所に呼びなさい。その時わたしはあなたのすることを示します。わたしがあなたに告げる人に油を注がなければならない」。

 

 4サムエルは主が命じられたようにして、ベツレヘムへ行った。町の長老たちは、恐れながら出て、彼を迎え、「穏やかな事のためにこられたのですか」と言った。5サムエルは言った、「穏やかな事のためです。わたしは主に犠牲をささげるためにきました。身をきよめて、犠牲の場所にわたしと共にきてください」。そしてサムエルはエッサイとその子たちをきよめて犠牲の場に招いた。6彼らがきた時、サムエルはエリアブを見て、「自分の前にいるこの人こそ、主が油をそそがれる人だ」と思った。7しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。8そこでエッサイはアビナダブを呼んでサムエルの前を通らせた。サムエルは言った、「主が選ばれたのはこの人でもない」。

 9エッサイはシャンマを通らせたが、サムエルは言った、「主が選ばれたのはこの人でもない」。10エッサイは七人の子にサムエルの前を通らせたが、サムエルはエッサイに言った、「主が選ばれたのはこの人たちではない」。11サムエルはエッサイに言った、「あなたのむすこたちは皆ここにいますか」。彼は言った、「まだ末の子が残っていますが羊を飼っています」。サムエルはエッサイに言った、「人をやって彼を連れてきなさい。彼がここに来るまで、われわれは食卓につきません」。12そこで人をやって彼をつれてきた。彼は血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人であった。主は言われた、「立ってこれに油をそそげ。これがその人である」。13サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油をそそいだ。この日からのち、主の霊は、はげしくダビデの上に臨んだ。そしてサムエルは立ってラマへ行った(サムエル記上16章1節13節)。

 主が油を注いでくださる、そのことを彼がこの詩篇23篇に書き記した時、ダビデは幼き時にベツレヘムの草原で羊を追っていたあの日の空の色を思い起こしたことでしょう。なんだか偉い預言者が家に来るらしい。父や兄たちは何だかそわそわとし、自分は目障りだと朝早くから羊を連れて野外に出されてしまった。いつもは兄達も共にいるのに、今日は自分だけにその仕事が任されて、広い広い青空に浮かぶ雲を眺めながら羊と共に野を歩いている、その時に遠くから声がする。

 「お~い、ダビデ~、お~い、ダビデ~、すぐに来いよ~」。分けが分からないまま、言われるがままに連れて行かれた先には威厳ある人がいる。そうそこには噂には聞いたことのある預言者サムエルがいる。サムエルは自分の顔を見て、こう言った「立って、これに油をそそげ。これがその人である」。それまで箸にも棒にもかからずに、数にも入れられず野にいたダビデは兄達を前にサムエルによって、その頭に油が注がれました。

 今でも自営業を営んでいる家庭ではその跡は長男が継ぐというような習慣が残っています。ですから長男にはプレッシャーがあり、長男には大輔などというたいそうな名前がつけられ、それ以降はどうでも言いというわけではないでしょうが、次郎、三郎、四郎、五郎なんて名がつけられることがあります。その習慣は現在とは比較にならないほどにダビデの時代は大切なことでした。その時代にダビデは八人兄弟の末っ子だったのです。あらかじめ彼が数に入れられずに野に送られていたということは当然といえば当然でした。しかし、神の目はそのように誰の目にもとめられない、ありえない身分のダビデの上に注がれ、彼がサムエルから頭に油を注がれたのです。

 ダビデにとってその油注ぎはサムエルという人間がしたことではなくて、それは神ご自身が自分に油を注いでくださったことなのだということを彼は心に刻んだのでしょう。先にもお話しましたように、後に彼は先代のイスラエルの王であったサウロの狂気に満ちた殺害の追跡を受けますが、その時にサウロの息の根を止める機会は何度もあったのですが、最後までサウロに対するリスペクトを忘れませんでした。なぜなら、神様がかつてこのサウロにも油を注がれたということを知っていたからです。彼にとって「油注がれる」ということは、それほどまでに大切なことであり、彼は自分のような者にも神が油を注がれたということを生涯、最も大切なこととして受け止めて生きたことでしょう。

 このようにありえない身分の者が、神様によって見出され、用いられたという、そんな人は聖書の中にたくさんいます。いいえ、厳密に言いますと神様に用いられた人達というのは皆、そのような人達であったのです。その中の一人、今日のキリスト教があるのは彼のはたらきによることが大きいとされる聖書の中の一人のキーパーソン、パウロはコリント第一の手紙の中で自分の身分というものをよくよくわきまえ、復活されたイエス・キリストと自分との関係についてこのような言葉を残しました。

 3わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、4そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、5ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。6そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。7そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、8そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。9実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。10しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである(コリント第一の手紙15章3節‐10節)。

さらに息子のような弟子、テモテに送った手紙の中ではさらに細かくかつての自分という者がどんな人間であったかということを包み隠さずにこう表現していました。

13わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。14その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。16しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。17世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァメン。(テモテ第一の手紙1章13節‐17節)

この他、アブラハム、ヤコブ、ノア、モーセ、ヨブ、ダビデ、ソロモン、エレミヤ、サムソン、ヨナ、エレミヤ、マタイ、ペテロ、ザアカイ、サマリヤの女、マグダラのマリヤ、聖書中の人物をあげればきりがない、彼らは皆、神に用いられるというような性分を全く持ち合わせていないにも関わらず、神様の本来、ありえない選びによって捕らえられ、引き上げられ、そして大きく用いられていったのです。

そして、それは人事ではない、わたしたちもこのありえない選びを神様から今、あずかっているのです。「ホーリネスの恵の豊かさ」とはこのように私達に対する神様のありえない選びにあらわされるものです。そして「ホーリネスの恵の豊かさに生きる」という「生きる」ことの原動力になることは、私達がこの自分自身に対するありえない神様の選びという恵みの豊かさに心感じて、それに応答することなのです。三つ目のことをお話しましょう。

杯はあふれる(ありえない赦し)

『あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油を注がれる。わたしの杯はあふれます

 今日、イスラエルの国旗は白地に青く染め抜かれた星が三つその中央にあるもので、それはダビデの星と呼ばれています。今もユダヤ人にとってこのダビデは最も偉大な王です。しかし、どの人間にもその人生の失敗や汚点というものがあるように、このダビデも人間、その人生に失敗を犯しました。その失敗の中でまず私達の心に思い浮かぶ失敗は彼に忠実に仕えていた部下ウリヤの妻、バテシバと肉体関係もち、そのことを隠すために嘘偽りを語り、最後には間接的ではありますが、明らかに意図的にウリヤを殺したということです。

 これらのことについてダビデには弁解の余地はまったくありません。彼はこれらのことの後、どうなったのでしょうか。このことについて神様は預言者ナタンをダビデのところに送ります。サムエル記下12章を読みます。

 1主がナタンをダビデのところにつかわされたので、彼はダビデの所にきて言った、「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。2富んでいる人には非常に多くの羊と牛の群れがいますが、3貧しい人は自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の小羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子供たちと一緒に暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。4ある時、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取りあげて、自分の所にきた人のために調理しました」。5すると、ダビデはその男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った、「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ」(新改訳:サムエル下12章1節‐5節)。

 ナタンは例え話をします。私達がその例え話を聞いておりますと、その情景がありありと浮かんできます。ナタンはこの例えばなしをダビデに語り、ダビデはそのことが自分のことを言っているとは気がつかずに、聞きながらも心に憤りを感じたのでしょう。こういいました「主は生きておられる。このことをしたその人は死ぬべきである」。しかし、この後にナタンはすかさずダビデに向かって言いました。この時の彼の口調は激しいものであったに違いありません「あなたがその男です」(サムエル記下12章7節)。

 ナタンが語った譬え話は貧しくともわが娘のように子羊と共に暮らす一人の男について語っています。この子羊は家族の一員のようにして彼が食べる食物を食べ、彼の懐でやすみ、そして彼の杯から飲み、共に暮らしていました。しかし、これらのささやかな彼らの幸せな生活に対して、ダビデがしたことはウリヤとバテシバが愛用していた「杯」を暗い土間に投げ捨て、こなごなに壊してしまうようなことでした。彼は自分の部下とその妻のささやかな幸せを滅茶苦茶にしたのです。

 彼はモーセに与えられた十戒めのうち「殺人をしてはいけないこと」、「姦淫をしてはいけないこと」、「盗んではいけないこと」、「偽証してはいけないこと」、「隣人の家をむさぼってはいけないこと」と十戒の半分を破りました。まさしく、もはや彼は神の前には立ち得ない、その場で断罪され、裁かれても仕方のないところに立たされました。

 しかし、ダビデはさいわいでした。彼にはナタンの言葉を打ち消し、彼を亡き者にする権力があったでしょうが、彼はナタンの言葉を聞き、心底、心を砕き必死になって悔い改めました。この時のこと、すなわち『これはダビデがバティシバに通った後、預言者ナタンが来た時に読んだもの』というタイトルと共に詩篇51篇にはこの時にダビデが書き記した言葉が残されています。

 1神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。2わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。3わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。4わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるとは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません(詩篇51篇1節‐4節)。

 16あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。17神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません(詩篇51篇16節‐17節)。

 彼がなしてしまったことは神様の豊かなあわれみによってでしかどうすることもできないものです。神様の豊かさは私達の罪をも赦してくださる。私はウリヤとバテシバの杯を砕いた。それはもはや私には修復はできない。私ができることはただ、私の魂を主の前に砕くことだ、あなたはわたしの悔いた心を軽しめられません。どうかあなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがを拭い去ってください。神様は彼のこの切実な悔いた心を受け、その罪を赦してくださいました。彼はその心境をこのように記しています

 1そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。2主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。3わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。4あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによってかれるように、かれ果てた。5わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた(詩篇32篇1節‐5節)

 確かに彼はその罪ゆえに後に起きてくる耐えがたき苦しみを受けなければなりませんでした。聖書が記しているとおり、彼は自分が蒔いたものを刈り取らなければなりませんでした。わたし達は厳粛な思いで、そのことは受け止めなければなりません。

 しかし、彼の罪は神の前に赦されたのです。それはありえない赦しでした。彼がしてしまったことは人がなしうる最悪のことでした。ダビデが晩年に自分の人生を振り返った時に「杯」という言葉から思い起こす光景は自分の罪ゆえに、こなごなに自分が壊してしまったあのウリヤとバテシバの杯であったはずなのです。

 しかし、彼はその詩篇23篇において「わたしの杯はあふれます」と言っているのです。それは彼がなしてしまった罪は過去のものとなって、ウリヤの死を忘れ、私は今、このあふれんばかりの杯を楽しんでいますということではなく、神様の豊かな恵み、すなわち「受けるに値しない者に与えられる神の無条件の愛とあわれみ」が溢れんばかりに私に注がれていますということを彼は語っているのです。

皆さん、もし私達がその心に手をあてれば、私達も誰かの大切にしている杯を壊してしまったという体験をもつものです。罪というのはそもそも私達の関係を混乱に陥れるもの、その関係を壊すものでありますから、それは人事ではないのです。しかし、神はその私達の罪を赦してくださる。神はその一人子イエスを私達のもとにお送りくださり、私達が負うべき罪を全てその身に負い、私達の身代わりとなり、その罪の罰を受けてくださったのですから。

かつて自らを罪人の頭と呼んだパウロはローマ書5章でこう言っています『6わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。7正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。8しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。9わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう』(ローマ書5章6節-9節)

 そして、それは人事ではない、わたしたちもこのありえない赦しを神様から今、いただいているのです。いただくことができるのです。「ホーリネスの恵の豊かさ」とはこのように私達に対する神様のありえない赦しにあらわされるものです。そして「ホーリネスの恵の豊かさに生きる」という「生きる」ことの原動力になることは、私達がこの自分自身に対するありえない神様の赦しという恵みの豊かに心感じて、それに応答することなのです。

今日、見てまいりました詩篇23篇は羊なるダビデと羊飼いなる神様との関係を表していますが、そのダビデの時代から1000年後、イエス・キリストは自らは「よき羊飼いであり、私達はその羊なのだ」ということを何度も話され、こう言われました。

7「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。8わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。9わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。10盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである11わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる(ヨハネ10章7節‐11節)

キリストは私達の羊飼いです。その羊飼いは私達を養い、私達を守ってくださる。そして、私達にまことの命を得させる。命を得させるということは、このよき羊飼いは羊のために命を捨ててくださったことによって私達が得ることができたことです。これらを私達の牧者なるキリストは豊かに与えてくださるのです。

皆さん、新しい一年が始まりました。今日、お話しましたように私達がもし神様から「ありえない待遇」「ありえない選び」「ありえない赦し」を与えられているのなら、私達はそのまさしくその「豊かな神の恵み」に心から応答してこの一年を歩んでいこうではありませんか。

人から頼まれているからではない、聖書に書かれているからしぶしぶではない、これらの豊かな神の恵みを知っているからこそ、私達は心から喜んでこの主と共に歩んでいくのです。最後に今日お話してまいりましたダビデがその詩篇23篇を閉じるために選んだ最後の約束の言葉をもってこのメッセージを終わりましょう。

 『まことにわたしの命の日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるでしょう』(詩篇23篇6節)主の豊かないつくしみと恵みは私達を追ってきます。さぁーこの場を立ちあがり、神様が与えてくださっている生活の座に主と共に帰りましょう。

 

 

 

 

 

 

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