「汚れ」は水で流せますか?

私が中学生の頃からやっていたドラマに「三年B組・金八先生」がありますが、このドラマが最近の社会問題を取り上げて数年前にも放映されていました。

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その中で金八先生のクラスの一人の男子生徒にカメラはフォーカスされていました。彼は勉強がとてもできて、すべきことを率先してやるいわゆる、優等生でした。しかし、実際のところ、彼は先生の目が届かない所では仲間達を脅し、その仲間を使って悪の限りをしていたのです。明らかにそこには彼の「人格の崩壊」と「関係の混乱」が生まれていました。

金八先生はやがてそのことに気がついて、彼の家に家庭訪問します。行った先は豪邸で、父親は外交官か何かをしているような家族でした。しかし、父も母も子をかまうことなく、ただただ人目ばかりを気にしていいた仮面家族だったのです。その極みはこの男子学生には兄がいるのですが、その兄は親の見栄により、表向きは近所の人達には海外留学をしているということになっているのですが、実のところ、この兄は何年も自分の部屋に閉じこもったまま一歩も外に出てこないような生活をしており(彼は親の見栄によって人格が傷つけられており、他者との関係というものが崩壊していました)、ドラマはある日、この兄が爆発していく様を映しだしていくのです・・・。

マック

今日の礼拝メッセージです↓

「汚れ」は水で流せますか。                            2009年6月21日

エペソ2章1節-10節                                  ①さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、②かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。③また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。④しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、⑤罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである⑥キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。⑦ それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。⑧あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。⑨決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。⑩わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。

よくお話しするのですが倉本聰という方が、北海道の富良野という町を舞台に脚本を書いた「北の国から」というドラマがありました。その中で一人の20代の少女が東京からこの富良野の町にやってくる場面があります。物静かな彼女にはどこか影があり、それでも富良野に住む人達の優しさに包まれて少しづつ心が開かれていきます。そんな彼女がある時、ポツリと「私の過去を消すことができる消しゴムはないかしら」と言うのです。

大都会、東京で彼女には何かがあったようです。それが何であったか私には思いだせませんが「消したい」ということは、それは「思い出したくない辛い出来事」であったのだろうと想像できます。きっとそれは彼女の心の傷となっていたに違いありません。この彼女の一言の台詞は私達の心を探る力強いものです。

先ほど読みましたエペソ書はパウロという人がエペソという町の教会に送った手紙です。その1節から3節にはこのようなことが書かれています①さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、②かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。③また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。

この言葉の中で私達の目につく言葉に「」という言葉があります。そして、ここにはこのエペソの人々がその罪によって死んでいたというのです。そして、彼らはかつてはこの世のならわしと、諸々の悪の霊に従い、自分の欲のままに生きていた怒りの子であったというのです。

もう、このあたりで私達は分けが分からなくなってしまうのです。なぜなら、「罪」と言われても多くの私達はそれは「犯罪者」だけに関係のある言葉であり、自分には何ら関係のないことだと思うからです。ですからある人達はこのエペソには犯罪者であった人達が数多く住んでいたのだろうと思われるかもしれません。しかし、この聖書の言葉は、否今、読みましたこの言葉のみならず、聖書は色々な箇所で人は誰でも神の前に罪人であるということを記しているのです。

「あなたは罪人である、いや違う」ということは置いといて、一つのことを考えて見ましょう。聖書はこの罪がもたらすものについて二つのことを取り上げていると思います。それは罪は「関係の混乱」と「人格の崩壊」をもたらすものであるということです。

私達は人間社会に生きていますから、必ずや共に生きている人達の影響を受けます。それは親兄弟であり、友人であり、そして教師や上司、同僚であったりするわけです。そして、私達が体験的に知っているようにそれらの人達から私達は心の安心や信頼というものを受けてきましたし、同時に裏切られる気持ちや悲しい傷も同時に受けてきました。

そして、そのパターンというものは幾百もあることでしょう。その出来事によって私達と私達と関係する人達との関係は混乱したことが必ずやあったはずです。そして、その混乱はどうして起きたかというとその時、停電だったからとか、株価の暴落があったからということではなくて、自分と相手の心の中にある我と欲がぶつかり合い、あるいは自分もしくは相手の一方的な我と欲というものが互いの関係を混乱させてきたということが分かります。聖書はその我と欲を罪と呼びます。そして、この関係の混乱は言うまでもなく、各々の人格の崩壊にいたります。

人格とは何でしょうか。国語辞書によれば人格とはその「個人がもつ一貫した行動傾向・心理的特性」と記してあります。その人をその人たらしめる性格とかパーソナリティーとも言えるでしょう。これを聖書が記しているように私達が神という存在から命を与えられているものとするならば、私達は神様によってそれぞれがユニークな人格を与えられているということになります。

しかし、そこに罪というものが加わる時に、その私達の人格が壊れてしまうというのです。先ほどの東京から出てきた女性に見てとれる影は、彼女の人格が過去の何かしらの出来事によって、損なわれてしまっている状態をあらわしていたもので、この人格の崩壊に苦しむ人達は私達の回りにいくらでもいます。否、私達もそうですし、ある意味、自分の人格に傷を負っていないという人は皆無ではないかと思われます。

その症状たるや自分の心内をただ聞いてもらうために、莫大なお金を払っている人達が巷には満ち、自分の体や心を傷つける人達や、他者との関わりを拒否するために自分の部屋から出てこない引きこもりと呼ばれる人達が激増しているのが現状です(ある人達は日本人の70%が引きこもりだといいます。というとここにいます10人に7人はひきこもりということになります。私達は明らかに部屋の中に閉じこもることなく社会生活を送っていますが、ここでいうひきこもりとは、自分の心を誰にも開くことができずにいる人達をさします)。

今やこの混乱の崩壊はさらに広がり、環境の破壊や核の問題にまで広がっています。再び申し上げますがこれらの問題の根源は二酸化炭素が増えてしまったとか、隣国の脅威があるからということではなくて、人間の心にある我と欲が生み出しているものだからです。こう考えてきます時に、聖書が取り上げている罪という問題こそが人間が抱えている問題の根源にあることが分かります。

そして、このようなことについて私達、日本人はあまり他国人には見られない感覚をもってそれを察知しているようです。どういうことかといいますと私達日本人の心の中には「穢れ」という感覚があるということです。その証拠にこの穢れから清められるために今日でも私達の日常ではよく祭壇に塩を供えたり、お葬式の後に塩を使って身をきよめたり、きよめの塩を玄関先に盛ったり、嫌な客が帰った後に塩をまいたり、相撲においても取り組み前に塩を使って土俵を清めている力士達を私達は見ます。

さらに、これらの穢れに対して禊(みそ)ぎということが私達の間でなされることがありますが、禊とは「身についた罪、または穢れを水によって洗うことによって清める」ということです。おそらく世界広しといえども、日本人ほど衛生に気を使い、入浴を愛する民族はいないと思いますが、学者達の間ではこの入浴も禊のあらわれであるという人がいます。

そもそも日本という国は古代から山々と平地が複雑に執り成す自然から豊富できれいな水をもつ国であり、その水が常に人々の生活の中心にありました。それゆえに「水」というものは私達にとってとても大切なものだったのです。その証拠に私達の間には水に関係する言葉がたくさんあります。考えつくだけでも「水くさい」「水いらず」「水を差す」「水掛け論」などがあり、おそらく探せばそれほど「湯水のごとく」あるのではないかと思います。

そして、そのような言葉の中に今日、みていきたく願っている「水に流す」という言葉もあるのです。この言葉は私達日本人というものを考える時にとても大切な言葉となります。私達は「例の件は水に流して、まぁ、そこのところは何とかよろしくお願いします」と握手を交したり、お酒をついだりする場面をよく見かけます。この「水をに流す」という言葉は過去のことをとやかく言わず、すべてなかったことにすることを意味しますが、先ほどもお話しましたように、この言葉にも水と共に成り立っている日本の風土が深く関わっているのです。

ご存知のように日本には豊かな森があります。そして、その森の中の湧き水が川となり、海に流れます。日本の川というのは南カリフォルニアにある川とは全く違い、水量が豊富で急流なので雨が降り土砂で濁ってもすぐきれいになります。ですからその川にゴミが流れていても、すぐに目の前から消え去っていくのです。ですからまだ法律の規制が何もないその昔には、この川は巨大なごみ捨て場となっていたのです。

そのような川に取り囲まれていた私達日本人にとって、水というものは私達の穢れをも洗い流す作用があると考えるようになったというのはある意味、当然であり、それはやがて私達の罪をも洗い流す禊ぎとなって、私達の間に定着したのです。そして、それが人間と人間の間において「水に流す」というような言葉となって現在も広く使われているのです。

そもそも日本の農業の中心は稲作でした。そのために人々は同じ川の水を使うという気持ちから共同体ができ、水源を管理し、水を確保し配分し始めました。さらに稲作という農作業は一人の力ではできないもので、共同作業が必要でした。そこでは勝手な行動はできず、お互いに気を配ること、余計ないざこざは極力避けるということが絶対に必要なこととされました。それゆえにお互いのしこりが残らないように互いの過ちを「水に流す」方法がとられていったのです。

そして、現在でも日本人は厳しい責任の追求や執拗な抗議を好まずに、白黒はっきりさせるとその後の人間関係にしこりが残る可能性があるために意図的に互いに穏やかな人間関係を維持しようとします。そして、それが美徳と考えられています。いつも、どこかで誰かに襲われる、脅かされるのではないかというような緊張があるアメリカ社会に住む私達にとっては、この日本の和の精神というものは素晴らしいものに思えます。

しかし、私達は今日、一つのことに集中してみたいと思います。それは「罪」の問題です。そもそも「禊」とは水で穢れや罪を洗い清めるといった意味として使われています。この日本の穢れの対象の中には歴然と「罪」というものがあります。日本では「罪をなすりつける」と私達は言いますが、これは罪を穢れとしてとらえているからこそ、あたかも自分の手についている汚れた泥を他者になすりつけることによって、自らがきれいな者となるように罪も自分の心にある汚れのような感覚で私達はそれを見ているのです。

よく芸能人や政治家がなにか不祥事をはたらくと、もう二度と公の舞台には出ないだろうと思われていながら、時が経つと再びその現場に復帰することがあります。そして、その時にマスコミは言うのです、「禊がなされて復帰しました」と。これは狭い島国で、一度の罪で追放されてしまってはやり直す場も無く、生きる道を断たれるゆえの互いのセーフティーネットなのかもしれません。

しかし、ここで一つの問題に私達は向き合うことになるのです。それは先ほどお話した私達の間に今も起きている、いやあなたの身と心に起きている罪の結果である「関係の混乱」と「人格の崩壊」という問題は「水で流して解決できるものなのか」ということです。余計な軋轢を生みたくないから、人目を気にするばかり、「ああ、いいよ」と見過ごしていけばいいものなのでしょうか。

金八先生というドラマがありました。私が中学生の頃からやっていたドラマでしたが、数年前にもここ最近の社会問題を取り上げて放映していました。その中で金八先生の教え子の一人にフォーカスが与えられていました。彼は勉強がとてもできて、すべきことを率先してやるいわゆる、優等生でした。しかし、実際のところ、彼は先生の目が届かない所では仲間達を脅し、その仲間を使って悪の限りをしていたのです。明らかにそこには彼の「人格の崩壊」と「関係の混乱」が生まれていました。

金八先生はやがてそのことに気がついて、彼の家に家庭訪問します。行った先は豪邸で、父親は外交官か何かをしているような家族でした。しかし、父も母も子をかまうことなく、ただただ人目ばかりを気にしていいた仮面家族だったのです。その極みはこの男子学生には兄がいるのですが、その兄は親の見栄により、表向きは近所の人達には海外留学をしているということになっているのですが、実のところ、この兄は何年も自分の部屋に閉じこもったまま一歩も外に出てこないような生活をしており(彼は親の見栄によって人格が傷つけられており、他者との関係というものが崩壊していました)、ドラマはある日、この兄が爆発していく様を映しだしていくのです・・・。

皆さん、聞いたこともないという話ではないと思います。程度の差こそあれ、私達の家庭や近所でもありうる話です。さきほどの「関係の混乱」そして「人格の崩壊」が見事にあらわされている例です。ここで皆さんにお聞きしたいのです。この家庭の抱えている問題、全てを私達は「水に流せますか」。その子供達にこの親は自分がこれまでしてきたを「水に流せ」と言えますか?この子は自分のそれまでの人生を水に流すことができますか。

もう一度、先ほどのエペソ書を読みます。その続きも読みます。①さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、②かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。③また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。④しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、⑤罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである⑥キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。

このところに罪過と罪によって死んでいた私達、「関係の混乱」と「人格の崩壊」がうごめく世界に生きている私達に対してこう書いています。4節、しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、⑤罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである⑥キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。

ここにはイエス・キリストという名が出てきます。ここを読む時に「罪過に死んでいた私達」がこのキリストによってもう一度生かされるということが書かれています。そして、私達はこのキリストによって救われるということも書かれています。単刀直入にお話しましょう。へブル人への手紙9章22節にはこう書かれています「血を流すことなしには、罪のゆるしはありえない」。

皆さん、私たちが今日、見聞きする、そして自らが体験する「関係の混乱」と「人格の崩壊」はとても深刻なものです。そして、それを生み出している私達の心の中にある罪と言う問題はもう絶望的です。私達は人を刺したり、蹴飛ばしたりしたことはなくても何度、その心の中であなたの機嫌を損ねさせた人、怒りをおこさせた人、悲しませた人に対して人には言えない思いをもったことでしょうか?自分が考えていることに対して、ぞっとしたことはありませんか。往々にして当人は気がついていないものですが、それらの思いは私達の言葉や態度となって私達の内から外に出て悪臭を放っているものです。私達はそれらを全て「まぁ~まぁ~」と水に流せばいいのでしょうか。あるいは雪解けの冷たい滝に身を打たれれば、それらはきれいに洗いきよめられるのでしょうか。

聖書は人の罪は水で流されるものだとは言っていません。人の罪はとても重大なことゆえに、それが赦されるためには血の犠牲がともなうというのです。それほどまでに私達の罪は重いというのです。そして、実際に旧約聖書の時代にはこの人の罪のために年間、何千頭もの牛や羊の血が流されていたのです。犠牲という漢字には牛という字が含まれているとおりです。ヘブル9章13節から14節にはこう書かれています。

ヘブル9:13〜14
13もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、 14永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。

かつて人の罪は傷のない家畜の命によって赦されていました。しかし、今やイエス・キリストがご自身を傷なき者として捧げてくださったことにより、その流された血により、私達は死んだわざ、すなわち「関係の混乱」「人格の崩壊」の原因となる罪が赦され、取り除かれるというのです。

今日の聖書の箇所にこう記されているとおりです。わたしたちは御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血による贖い、すなわち罪過のゆるしを受けたのである。エペソ1章7節

おそらく米国の国立公園を管理しているレンジャーは黒熊やガラガラ蛇に遭遇した時にどう対処したらいいかということを心得ているでしょう。彼らは黒熊に遭遇した時にリンゴをもって近づき許しを乞えとか、ガラガラ蛇のわき腹をなでれば彼らは落ち着くというような対処法を説明することはありません。

聖書は驚くなかれ、その三ページ目から「人の罪」を取り扱っている書であり、聖書全巻はその人の罪というものがどんなに悲惨なものであるか、そこから生じる人間の「関係の混乱」と「人格の崩壊」を書いている書です。そのような意味において、聖書は罪の専門書であり、その事例の数は人間が書き記した書物の中で比類がないでしょう。その聖書が罪というものは水に流して忘れるものであるとか、洗って消えるものではなくて、それは「赦される」ものなのだと言っているのです。「罪は水に流すものである」と「罪は赦されるものである」ということの違いは天と地ほどにとてつもなく大きいのです。

今日、見てきておりますエペソ書の最後にはこうかかれています。 それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。⑧あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。⑨決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。⑩わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。

私達はイエス・キリストが私達の代わりとなって十字架にかかり、その血を流してくださったその愛によって救われるのです。そして、それはあなたが「昔よりはまともな人間」になったからあなたは神の愛からもれていませんということではないのです。あなたの良き行いゆえにあなたの罪の身代わりとなり、あなたの罪を赦すというのではないのです。「もし、あなたがこのイエスが自分の罪のかわりに、十字架にかかり、その血を流してくださったのだ。私は自分の罪をあなたの前に悔い改めます」と心から祈るならば、そしてキリストは確かにこの祈りを受け入れてくださると信じるなら、あなたの罪は必ず赦されます。それは全く神の恵みなのです。無条件の私達がこれまで体験したこともない圧倒的な愛の力なのです。

皆さん、一番最初にお話した東京からでてきた富良野の少女の話を思い出してください。「私の過去を消すことができる消しごむはないかしら」そんな思いを持っている方いませんか。神様とてあなたの過去を消すことはできないでしょう。しかし、神様はあなたの消し去りたい過去に赦しを与えることができるお方です。

あなたは「誰かとの関係の混乱」に陥っていませんか。「神から与えられている人格が壊されていませんか」あなたをそんな思いにさせている罪を神様は解決してくださいます。それを水に流せば解決するなんて、そんな虫のいい話、きっとあなたもそんなことは思っていないでしょう。しかし、キリストの十字架にはいかなる罪でもそれを赦す力があるのです。

今日、主イエスのもとに来て下さい。イエスは言われました「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である・・・。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」マタイ9章12節-13節

あえて説明する必要はないと思います。神の前に丈夫な人はいないのです。神の前に義なる人、すなわち正しい人はいないのです。そのような意味において、私達は癒されるべき病人です、罪人です。キリストはそんな私達を招くためにこの地にこられ、十字架にかかられたのです。

皆さんの生涯の上にこのキリストの愛と恵みが輝きますように。お祈りしましょう。

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