世間様にお会いしたい

皆さんは召される前に一度でいいから会って話してみたいという人がいますか。オバマ大統領、ヨン様、お世話になった恩師という方もいるかもしれません。私にも会ってみたい人がいます。時々、その方のお名前を聞くことがあるので、いつもどんな方なのだろうと、一度、お時間がある時に、あるいはどこかでばったり会うことができないかと思っているのです。

その方のお名前はこんな時に聞くことがあります。息子が父に「父さんよ、大変なことをしでかしてしまったよ」その大変なことを聞いた父が子に「息子よ、もうこれからは世間様に顔向けできんぞ」。

その方のお名前は大企業がマスコミを前に行う記者会見というオフィシャルな場所でも聞くことができます。そこにはその企業の社長を筆頭に役員が並び、そして一同頭を下げて彼らはこう言うのです「世間をお騒がせして申し訳ございません」

そのようによくお聞きするお名前ですから私は「世間様に会ってみたい!」のです。でも、私はどこを探しても「世間様」を見出すことはできないのです。電話帳の「せ」の項目にも世間様は載っていないのです・・・。

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今日、礼拝でお話したメッセージです。                    よかったらどうぞ↓。                            最後に「本日のお持ち帰りつき」

マック

「世間様」にお会いしたい                            2009年6月7日

皆さんは召される前に一度でいいから会って話してみたいという人がいますか。オバマ大統領、ヨン様、お世話になった恩師という方もいるかもしれません。私にも会ってみたい人がいます。時々、その方のお名前を聞くことがあるので、いつもどんな方なのだろうと、一度、お時間がある時に、あるいはどこかでばったり会うことができないかと思っているのです。

その方のお名前はこんな時に聞くことがあります。息子が父に「父さんよ、大変なことをしでかしてしまったよ」その大変なことを聞いた父が子に「息子よ、もうこれからは世間様に顔向けできんぞ」。

その方のお名前は大企業がマスコミを前に行う記者会見というオフィシャルな場所でも聞くことができます。そこにはその企業の社長を筆頭に役員が並び、そして一同頭を下げて彼らはこう言うのです「世間をお騒がせして申し訳ございません」

そのようによくお聞きするお名前ですから私は「世間様に会ってみたい!」のです。でも、私はどこを探しても「世間様」を見出すことはできないのです。電話帳の「せ」の項目にも世間様は載っていないのです。

でもこの世間様はすごい力をもって日本人社会に君臨しているのです。多くの親達が戦々恐々「これでは世間様に会えない」と狼狽し、大企業の社長もいつもこのお方の前ではふかぶかと頭を下げるのです。このように考えるなら、このお方は日本人社会の影の支配者です。このお方はその姿を見せずに時に総理大臣をも震え上がらせ、屈強なスポーツ選手達も恐れをなしてしまうのです。大抵の日本人にとって「世間様が許しません」と言われることは「人間として許されることではありません」とほぼ同義語となっており、これはもうお手上げなのです。

これから何度もこの方の名前が挙がると思いますが山本七平氏が言っている「日本教」という考えの中心においても確かに山本氏はこの世間様を意識していることが分かります。なぜなら、山本氏が指摘しているように日本に見られる日本教の中心にあるのは「神」概念ではなく「人間」という概念なのであり、言うまでもない世間様とは顔の見えない漠然とした人間集団のことを示すからです。

この山本氏は興味深いことを書いています。世界の多くの人々が世界の始まりということについて「創世記」をその土台としていますが、山本氏は日本人にとっての「創世記」とは夏目漱石の「草枕」なのだとその一説を掲げています。

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり三軒両隣にちらちらするただの人である。だだの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。越すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくいところをどれほどか、寛容(くつろげ)て、つかの間の短い命を、束の間でも住み良くせねばならぬ

聖書はその第一ページ、第一行においてこう記しています。「はじめに神は天と地を創造された」。しかし、草枕は「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり三軒両隣にちらちらするただの人である」というのです。この違いこそが日本と諸外国の隔たりといっても過言ではないでしょう。

ここ最近まで、この世間様は良い意味で日本社会の至上道徳となっていました。すなわち、互いが互いの遺脱した言動を抑制するものとして機能していたのです。しかし、もはや「世間様を騒がせても何も感じない人達」が続々と出てきて(ある意味、それはポストモダンの世界に飲み込まれている現代では時間の問題だったのですが)、この「世間様体制による言動抑制機能」は今や崩れかけています。

しかし、未だ違った形において力強くこの世間様が日本社会に君臨しており、これからお話していきますが、この「世間様体制」から生じる「各々の心の底に蓄積される問題」というものがありまして、これが今日の日本人社会(この場合、海外に住む日本人である私達も含みます)を包み込んでいるのです。

さらにこの世間様の中に身を置いて生きていくということは、世間様が左だと言えば左を、右だと言えば右を向いている限り、自分に害がおよぶことはなく安泰に生活できるということですので、その結果、「物事を自分で考える」ことがなくなり、自分が本当に願っていること、本当に正しいことを決断することがなくなります。これが最悪に作用しますと、かつて私達日本という国全体が誤った一つ方向に歩み始める可能性すらもいまだ多分にあるのです。

ここまでお話して、もうパンドラの箱を開けてしまっていることにお気づきでしょうか。日本社会になぜ聖書に記されている「GOD」が伝わらないのか、その構造が見えてきたでしょうか。日本社会には昔から世間様が神様に変わる確固たる地位を得ていますゆえに、そこに神様、GODが入る余地がないのです。

本来信仰を持つということは、その人の個人的決断によってなされますが(実際に日本国憲法もそのことをうたっているのですが)、日本には憲法の上に見えない法があり、信仰の決断の時に私達は神を見上げるのではなく、周りの人達を見回すのです。私達、私達日本人にとって「一番恥ずかしいこと」は「人と違うことをすること」であり、私達日本人にとって「良い人」とは「世間を騒がせない人」のことを意味するのです。

皆さん、私達はこの日本人に向けて聖書の言葉を語っているのです。こんな日本人である私達がキリスト教徒になったのです。今までお話したことは私達の心にも幼い時から染みついていることですから、時に私達は時にクリスチャンになってからも「神様がおるべき場所」に「世間様を置くこと」が多々あるのです。このようなことは信仰者の信仰姿勢や教会形成においても起こりうることで、そのような意味で山本氏は「日本教キリスト派」と日本のキリスト教を呼んだのです。

さて、これらを踏まえて聖書を見ていきましょう。今までお話したような意味での「世間様」という言葉はさすがに日本独特のもので聖書にはでてきませんが(通訳の西井さん、ご苦労様です)、確かに人間は日本人でなくとも、いつもどこか心の中に世というものに特別な力を感じており、世を恐れて生きているということが聖書の中の人物を通しても分かります。その典型的な一人の人、すなわち今朝、私達が揃ってその名を唱えた人、ポンテオ・ピラトという人について見ていきましょう。これから読みます聖書の言葉はイエス・キリストがいよいよ捕えられ十字架にかけられるのか否かという緊迫した状況の中で、ローマ帝国ユダヤ州を管轄していた総督ピラトの前に連れてこられた時のことです。

20ピラトはイエスをゆるしてやりたいと思って、もう一度、彼ら(そこに集まっていた群衆)に呼びかけた。21しかし彼らは、わめきたてて「十字架につけよ、彼を十字架につけよ」と言いつづけた。22ピラトは三度目に彼らにむかって言った、「では、この人は、いったい、どんな悪事をしたのか。彼には死に当る罪は全くみとめられなかった。だから、むち打ってから彼をゆるしてやることにしよう」。23ところが、彼らは大声をあげて詰め寄り、イエスを十字架につけるように要求した。そして、その声が勝った。24ピラトはついに彼らの願いどおりにすることに決定した。ルカ23章13節26節

このところに来るまでにピラトは鞭打たれてボロボロになったイエスと群集を前にどうにかイエスを釈放してやりたいと願っていました。しかし、そのような思いが心にありながら、彼は最終的に、このイエスを十字架にかけることを承諾したのです。この時のことをルカは群集の声がピラトの心にある思いに勝ったといっています。もっと詳しくいいますと「ピラトは自分の心にある思いに従わずに、自分が同意できないこと、納得できないことであっても群集の声の大きさに従った」ということです。

この 出来事は聖書中、最も重要なことの一つですので福音書と呼ばれる書、全てに記されています。マルコによる福音書はここで「イエスを十字架につけよ」と叫ぶ群衆を見て「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした」マルコ15:15)とさらにピラトの細かい心内を描写しています。ヨハネはピラトが何度も群集から「もしこの人を許したなら、あなたはカイザル(ローマ皇帝)の味方ではありません。自分を王とするものはすべて、カイザルにそむく者です」と言われ、イエスを十字架につけるために彼らに引き渡したと記しています(ヨハネ19:12-16)。

総督ピラトにはイエスをどう処分するかという権力が与えられていました。そして彼はその心の中ではイエスに罪を見いだすことができずに釈放することが適切だと思っていたのです。ですから実際に彼の考えに反対する人が何千人いても、彼は自分の考えを押し通すことができたのです。しかし、彼の心の思いは群集の叫びに揺れ、彼の上にいるローマ帝国のカイザルという名によっていとも簡単にくつがえってしまったのです。

さて、このピラトは彼が群集の声に負けてしまう前にしばしの間、イエスを前に話した会話というものがヨハネによる福音書18章33節-38節に記されています。

33さて、ピラトはまた官邸にはいり、イエスを呼び出して言った、「あなたは、ユダヤ人の王であるか」。34イエスは答えられた、「あなたがそう言うのは、自分の考えからか。それともほかの人々が、わたしのことをあなたにそう言ったのか」。35ピラトは答えた、「わたしはユダヤ人なのか。あなたの同族や祭司長たちが、あなたをわたしに引き渡したのだ。あなたは、いったい、何をしたのか」。36イエスは答えられた、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。37そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」38ピラトはイエスに言った、「真理とは何か」

皆さん、このイエスとピラトとの会話の中に一つのことが浮き彫りになります。すなわち彼は総督でありながら、人の命をその手に握ることができるような人でありながら、「真理とは何か」とイエスに尋ねているということであり、その真理を知らないうちは、心の中に自らの言動を決める確固たる規範というものがありませんので、それが正しいと思われないようなことであっても世の圧力に屈してしまったということです(これもまた順々にお話していきますが、私達日本人が真に従うべき事実よりも「場の空気」で物事を決めていくのもここに原因があります)。

ピラトはこの出来事により、今日全世界、「使徒信条」を唱える全ての教会から「(イエス・キリストは)ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と人類史上、最も不名誉な言葉を唱えられる人となってしまったのです。

さて、このピラトの姿を足がかりとしてさらに見ていきたいのですが、聖書を注意深く読んでいきますと、その多くの箇所で「世」という言葉の周辺には常に「真理」と「自由」いう言葉があることを私達は見出します。ここに「世間様」に支配されている日本人として生きる私達に一筋の光が照らされるのです。すなわち私達がその生涯「世間様」の動向によって生きるのか、それとも「真理」に従い生きるのかという選択のチャンスが私達に与えられているからです。そして、そのことにより私達が自分の生涯を「自由」と共に生きるか否かということが決まると聖書はいうのです。

このことをⅡコリント4章1節-6節からパウロの言葉をもって確認してみましょう。

1このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せずに、2 恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。3もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者どもにとっておおわれているのである。4彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。

5しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。6「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。

パウロは言いました。「彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである」。当時の「この世の神」とはパウロが向き合っていたコリントの町に存在した諸々の偶像の神々を意味したことでしょう。しかし、私達、日本人にとって「この世の神」とはまさしく「世間様」ということができるでしょう。この世間様が私達の思いをくらませてしまうと、今までお話してきたようにキリストの本来の栄光の福音の輝きが見えなくなってしまうのです。そして、パウロはここでもそうならないように「神の言葉を曲げず、真理を明らかにし・・・」ということを私達に勧めているのです。

さらにこのパウロはガラテヤ1章10節においてもこう記しています。

10今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。

ここでパウロは言ったのです。私は今、人に、すなわち世に喜ばれ、その歓心を得ようとしているのだろうか。いつの時代も変わらないのです。私達日本人への言葉としてこの言葉を適応しますならが、「私たちは世間様に喜ばれようとしているのか、世間様の歓心を得ようと努めているのか」という問いかけになります。そして、パウロはもし私達がそうであるなら、私達はキリストの僕ではないというのです。

先に触れたⅡコリントにおいて彼は「しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない」(Ⅱコリント4章5節)と自分はキリストの僕なのだと記していました。彼にとって自分は「世の神々の僕」ではなく、「キリストの僕」であるということは、とても大切なことであったのです。 

キリストの僕となる時に私達が与えられる特権とは何でしょうか?イエス・キリストははっきりとそれをヨハネ8章31節で言っています。

イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた「もし私の言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、本当に私の弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。

皆さん、私達が世間様の前に跪いている限り、私達は真理を知ることはできない、本当の自由を得ることはできないと聖書はいうのです。ある方はそれでも構わないと思われるかもしれません。なぜなら、物事を考えないで不特定多数の中で生きるということは、私達にとって難しいことではないからです。しかし、もし聖書が言うように、キリストを知ることによって、この私達のたった一度の人生を、自分の気持ちに正直に、主体的に自由に生きることができるとするならば、これ以上の幸いがあるでしょうか。

今朝、度々、触れていますように、世間様と共に私達が生きる最たるものは(また詳しく7月にお話しますが)「自分で自分のことを決断できなくなる」ことです。心の中に自分がしたいこと、やりたいことがあるのに、世間様の無言の力が常に私達には注がれているので、自分の思いに偽って私達は生きることになるのです。ある人はこれを「抑圧」と言いました。そして、抑圧とは不自由の極みを意味する言葉です。

「この進路に進みたいのに」、「これがしたいのに」、でも周りの空気を読みながら自分の思いを抑圧する。その抑圧はレストランでメニューを前に「これが食べたい」と心の中で思いながら「皆と同じでいい」と周りに合わせることから、結婚という人生最大の決断の時ですら「世のトレンド」なるものに我が結婚はのっているのかということを気にして結婚を決めるというようなことまで日本社会の隅々に浸透しています。私達、日本人は「自分の思いや考えを限りなく押し止め周りに合わせる」人を「大人」として評価していますから、この流れが変わることはありません。ですから私達は必死に「人様に笑われないように」「みっともなくないように」「肩身がせまくならないように」世間様の様子を恐れながら生きざろうえないのです。

今日、心理学者は抑圧された思いや願望は心の中で消えることはないと言います。それはそのまま心に残り、蓄積されていき、やがて爆発するのです。現代、日本語辞典はその現象を「切れる」と呼んでいるのです。張り詰めたヒモはやがて切れるのです。「あの人が」という人達が信じられない行動に出ることをよく見聞きしますが、それは抑圧されていたものが噴出したということなのです。

これらの人達と私達の違いは何でしょうか。とてもシンプルです。彼らはたまたまその抑圧の限界点に達した人であり、私達はいまだそこに達していないか、あるいはどうにかこうにか理性によって自分を押さえているということです。

人の視線によってその人生を決め、常に人からどう見られているかに恐れ、自分には願い・考え・思いがあるのに、世間様を気にするあまり、その思いを全て心の中に押さえ込んで生きていくのか、キリストの僕となり、弟子となり、真理を知り、創造者なる神に造られた者として、私達も創造的な人生を送るのか、キリストが約束する本当の自由というものを人生に見出し、その中で生きていくのか、これらのことを私達がどう受け止めていくかというところに、私達の未来があるのではないでしょうか。

私は最後に私達日本人にとって一番、難しいお勧めの言葉をもってこのメッセージを終えなければなりません。このようなお勧めではなく何とか日本人向けに別の言葉で言うことができないかと考えたのですが、やはり他にはありません。

すなわちその問いかけとはこういうことです。

「これらのことを決断するのはあなたの親兄弟でもない、あなたの親戚でもない、あなたの両隣に住む人でもない、誰彼でもない、あなた自身です」。

お祈りしましょう。

本日のお持ち帰り                                   「世間様」にお会いしたい                        2009年6月7日                                                

①あなたは「世間様」を気にしていますか?「世間様」はあなたにとってどんな存在となっていますか。

②夏目漱石の「草枕」に書かれている「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり三軒両隣にちらちらするただの人である」という言葉と創世記一章一節の「はじめに神は天と地を創造された」の違いは何だと思いますか。この違いから起こることは何でしょうか。日本人にとって「良い人」とは「世間を騒がせない人」であるということについて思い当たることがありますか。

③十字架にかかるイエスを前にユダヤの総督ピラトは群集の声に負け(ルカ23章23節)、また群集を満足させようと思って(マルコ15:15)、イエスを十字架にかけることを許可しました。あなたはこのピラトの心理をどう思いますか。あなたの心にもこのようなものがありますか。

④ガラテヤ1章10節のこのみ言葉をどう思いますか。「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい」

⑤キリストの僕となる時に私達が与えられる特権とは何でしょうか?ここでイエスが言っている真理とは自由とは何でしょうか。イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた「もし私の言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、本当に私の弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。ヨハネ8章31節

⑥あなたは残された人生、世間様を喜ばすために生きますか?それとも神様を喜ばすために生きますか?

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世間様にお会いしたい」への6件のフィードバック

  1. マック先生
    「世間様」のメッセージに日本人社会の根強さから抜け出せない人々を思います。人の視線を気にしないで、自分の意見をはっきり言える者とならせて頂きます。いや、もうなっているかな!
    本日のお持ち帰りを載せてくださってありがとうございました。お友達といっしょに致します。

  2. 俺はバカだから、
    「そうだよな、宇都宮の近所付き合いに気を使うことなく、やりたきゃ、モヒカンにすりゃあ、いい訳よな。」
    と解釈したね。

  3. ここ最近まで、この世間様は良い意味で日本社会の至上道徳となっていました。
    この良い世間様は良いと思うんだよね。
    でも世間様がいるから神様が入ってこないっていうのは分かる気がするな。
    俺なんか典型的なそのタイプだと思う。
    日本人として日本に住んでるからこの世間様とも上手く付き合っていかないとなんないんだよね・・・
    たしかに世間様は手強いよ(笑)
    この世間様に流されない基準っていうのを自分の中に持たないとね、
    あ、それが神か

  4. 今日、丁度世間様にお会いする機会があったよ(笑)、仕事が終わって家に帰ったら飲みに行く話があって急遽バスに乗って駅まで行ったんだ。ガラガラのバスに乗って2つ目のバス亭で10数名のテニス部の高校生が乗ってきた、大きなテニスバッグを通路にドンと置いて席に座って大きな声でしゃべって、
    うるさいとは思ったが、高校生には普通だと思って黙っていたんだ。次バス亭で仕事が終わったサラリーマンが10名ぐらい乗ってきたんだけど席は埋まっているのに、通路の荷物をどけるそぶりもないんだよ。次のバス亭でも人が乗ってきたけど荷物をどけないし
    オレは子供3人と乗っていたんだけど、長男坊が明らかに心配そうな顔で俺を見るんだ(お父さん喧嘩するんじゃないの?)って感じ・・・
    子供に注意するふりして「お客さんのジャマにあんるようにバッグは置いちゃダメだぞ」って高校生に聞こえるように言ったんだけど・・・
    オレは駅の一つ前ので降りる用だったんで、降りる時に「通路は空けとけよ」って高校生に言って降りたんだけど、高校生は明らかに不満顔だった。
    高校生の気持ち分からないではにけど、いいものは良い、悪いものは悪いって言う大人が必要だと思うんだ。
    そういう大人がいたから世間様が成り立っていたんだろうね。
    他人の子を自分の子と同じように怒るのって凄く勇気がいるんだけど、その勇気を世間様がくれていたんだと思うんだ。
    「日本教キリスト派」っていうのは昔は、そんなに悪い事ではなくて、ベースは日本人はすでに持っていたって事じゃないのかな。
    今はちょっと問題なんだろうけど・・・

  5. たしん、さんぼ
    奇しくも二人ともかつて「立派なモヒカン」だったじゃないかい。君たちはあの時、何を考えていたのだろう(何も考えていなかったんだろー笑)。
    「日本人として日本に住んでるからこの世間様とも上手く付き合っていかないとなんないんだよね・・」ってほんと、そうだよな。わしは、外国でこんなことを言っているんであって、本当に日本国内に住んでいる方々を思う時に、その幸せと共にチャレンジを思うよ。
    感想や体験談をありがとう。とても勉強になっています。

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