先日、Erwin McManusという牧師の「ポストモダンに対する説教」というセミナーに行ってきました。彼は「近代の次の時代」を意味する私達が今日、生きているポストモダンという新しい時代を意識して、その時代に対する教会のあり方というものを米国で語り始めたおそらく最初の牧師でしょう。そのような意味で彼は時代の空気をよく読んでいました。
マクマヌス牧師はその新しい時代における変化というものをしっかりとらえておりながら、いつの時代においても変わらない人間の姿というものに触れています。すなわち彼は人間にはその心を突き動かし行動に移させる三つのものがあるといいます。果たして2000年前の人間も、この現代世俗社会に生きる私達をも突き動かすこの普遍的な三つのものとはなんだと思いますか。
マック
今日、礼拝でお話したメッセージです。
よかったらどうぞ!
世俗のカラクリ、見つけたり!
2009年2月22日
コリント第一の手紙13章13節
先日、Erwin McManus という牧師の「ポストモダンに対する説教」というセミナーに行ってきました。彼は「近代の次の時代」を意味する私達が今日、生きているポストモダンという新しい時代を意識して、その時代に対する教会のあり方というものを米国で語り始めたおそらく最初の牧師でしょう。そのような意味で彼は時代の空気をよく読んでいました。
マクマヌス牧師はその新しい時代における変化というものをしっかりと捕らえておりながら、いつの時代においても変わらない人間の姿というものに触れています。すなわち自身が大学で心理学を専攻したことにより、人間にはその心を突き動かし行動に移させる三つのものがあるといいます。英語でいうところのドライブンという言葉で、それはあなたを突き動かすものという意味です。果たして2000年前の人間も、この現代世俗社会に生きる私達をも突き動かす普遍的な三つのものとはなんだと思いますか。
ある意味、これからお話することは私達がこの世俗世界に向かって、これからの時代に何を語り、何を意識、集中して自分自身も生きていけばいいのかということを明確に指し示すものとなるでしょう。一つ一つを短く説明しましょう。
私達を突き動かすもの、その一。それは「Intimacy」(愛情)ということです。これは「Belonging」、すなわち何かに所属しているという安心感であり、シンプルに一言で言いますなら「Love」、愛ということです。私達が体を鞭打っても、時に自分を犠牲にしてでも成そうとする行動は愛の力によるものです。
もし私達がこの「Intimacy」、すなわち愛情というものに触れずに生きていると私達は孤独になります。また、その感覚を獲得するために、私達は一時的なIntimacyを求めるようになります。そして、その多くは不道徳につながります。今日、反乱している一時的な異性との性的な関係と、それに伴う諸々の悲劇は、この「Intimacy」すなわち人と人のぬくもりを求めようとしている人間の叫びです。
私達を突き動かす二つめのこと、それは「Meaning」です。私達は意味あることに腰を上げるのです。意味のないことのために私達の心が動かされることはありません。しかし、今日、私達はその意味を失った時代に生きています。私達の科学は研究対象のWHAT, HOW, WHEN, WHEREを解明しています。 しかし、
WHYとい問いかけには答えられないことが多くあります。DNAを解読することはできます。しかし、なぜそこに情報がインプットされているのかは分からないのです。そして、この意味の中で最大の問いというのは「生きる意味」ということで、このことで思い悩んでいる人は、私達が想像する以上に多いのです。
私達を突き動かす三つめのこと、それは「Progress」ということです。私達は誰もが「明日は今日よりもいい日になる」と願う気持ちがあります。それがあるから今日を一生懸命に生きることができ、明日を期待して眠ることができるのです。しかし、これがなければ私達の生活は退屈なものとなりやがて、惰性、無感動・無関心となり失望にいたることがあります。多くの若者がせっかく就いた仕事を三年ほどで辞めていくという現象の背景には、このプログレスを仕事の中に見いだすことができない、その叫びがあります。
ポストモダンというものは漠然としたもので、掴み所がありません。しかし、この時代に生きている私達、その私達が生きている世俗とは、この「愛情」「意味」「進歩」を願い求める人間が日夜、生きている場所なのです。
今日、ここにこられた皆さん、この三つは私達の人生というものをチェックするものとしてとても有効なものです。もし、私達がこの三つを存分に経験することができているのなら、私達の生涯は生きがいで満ちたものとなるでしょう。しかし、実際のところ私達の世界はこの三つを見いだすことができない故に、私達の心には孤独・不道徳・疑い・迷信・失望が満ちてくるのです。
それでは本論です。これら三つについて聖書は何を言っているかご存知ですか。実はパウロというキリストの使徒が、コリントという町に送ったコリント第一、第二の手紙の中にこの三つのことが書かれています。
まず、なぜコリントの手紙なのかということですが、これまでも機会ある度に何度もお話していますようにこのコリントの町は変な言い方ですが「世俗の中の世俗」と呼ばれるような町でありました。まさしく「コリントのような」という表現は「道徳的に退廃している」ということと同じ意味が当時ありました。すなわち、それは今日の私達の世界と同じように「愛」と「意味」と「進歩」が失われていたのです。ある意味、2000年前のコリントとは今日のサンデェイゴであり、また東京を現していると言っても過言ではないと思います。
このコリントの町に住んでいた人達は「愛」「意味」「進歩」というものを失っていたゆえに、そこでは多くの問題が生じてきたのです。すなわちパウロがその手紙の中で繰り返し書いているように、このコリントには不品行、享楽、退廃的な生き方が満ちていたのです。
しかし、それと同時にパウロはそのような状況から私達はどうしたらいいのかということについても触れているのです。これは本当に驚くべき事です。結論からお話しますが、このコリント第一の手紙13章13節にはとても有名な言葉が記されています。すなわちそれは「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」という言葉です。
なぜ、パウロはこの信仰・希望・愛という三つをあえて選んで書いているのでしょうか。なぜ、その三つはいつまでも存続するものなのでしょうか。なぜなら、この三つこそが人間が、いつの時代も追い求めている、変わらない愛情・意味・進歩とそれぞれ結びつく言葉だからです。すなわち「愛情」に対しては「愛」、「意味」については「信仰」、「進歩」については「希望」ということです。現代心理学が人間を動かす要素を見いだして、それを発表する前から、パウロはこのことについて既に記しているのです。一つ一つを見ていきましょう。
いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである
愛情(Intimacy)=「愛」
先ほどもお話しました、Intimacy、愛情を失った人はどうなるのか。その人は孤独となり、仮の愛を求めるようになります。もっと言いますと人のぬくもりを求めるのです。そして、その一番手っ取り早い方法は一時的にそれを与えてくれる者と出会えばいいということになるのです。
コリントという町の名前は当時、世界に鳴り響いていました。何によってか。コリントの町から見上げることができるアクロコリントスという山の頂上にある神殿に使える数千もの巫女達の売春によってその町は有名だったのです。またその手紙にパウロが記していますように、この町には女性だけではなく男娼という、男でありながらその身を売っていた人達がいたというのです。愛を失った人は時代は変われどテンポラリーな偽のインティマシーに走るのです。聞くところによると売春が世界一古い商売だと言われますが、ある意味頷けるのです。
今日はどうでしょうか。本当の愛が失われているために同じことが起きていませんか。私達はこのようなことを一部の人達だけの話と思いがちですが、このことは私達が思う以上に私達を蝕んでいます。問題が夫婦と家庭を個人の心と体を壊している現実を私達はいたるところで目撃するのです。その原因は本当の愛の不足です。
ですから、パウロはそのようなコリントの町に向けて聖書の中の輝ける宝石、コリント第一の手紙13章において本物の愛を書いたのです。すなわち、「愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、全てを耐える。愛はいつまでも絶えることがない」(コリント第一の手紙13章4節―8節)ということを書いたのです。
ある人がここに記されている全ての“愛”を“イエス”と置き換えても何の違和感もないといいましたが、私達にとっての本当の愛とは、命を捨てるほどに私達を愛してくださったイエス・キリストの愛のことであり、そのキリストの無条件の愛の中に私達が生き始める時に、私達はその愛に突き動かされて生きていくことができるのです。そして、先週もお話しましたように自分は愛されているということを知る者達は、ここに記されている愛に自らが生きることができるようになるのです。二つ目のことです。
いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである
意味(Meaning)=「信仰」
今から7、8年前にNHKで「命の重さを実感できますか」というテーマに、色々な立場の人が討論した番組がありました。しかし、その放送の中に、納得できる解答は示されず、苦悩する若者の実態だけが浮き彫りにされました。寄せられた証言にはこのようなものがありました。
Tさん 28歳
日本にいる、80万人のひきこもりの若者は「生きる意味が見つからない」とか、「自分の存在価値が分からない」と言っています。ハッキリ言って命の実感はないし、生きる意味とか、教えてほしいですよ。オレ、このままなら死にますよ。放っておけば、本当に。
Bさん 21歳
「生きる」が分からない。自分で自分を生かしていくことに、意味が見いだせない。心臓が動く、生きるだけでなくて、それ以上を求めてしまいます。考えられる限り、考えようと思います。でも、きっと分かんないだろうなあ。僕の何倍も生きている人も分かってなさそうなんだもの。
芥川龍之介はその名の文学賞が作られたような偉大な小説家でしたが、その最後を35歳という若さで、服毒自殺によって閉じました。彼はその旧友に送った手記の中でこう書いています。
誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない……僕は君に送る最後の手紙の中に、はっきりこの心理を伝えたいと思っている。(中略)君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであろう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示しているだけである。(中略)少くとも僕の場合はただ、ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対するただ、ぼんやりした不安である。
芥川龍之介の伝記を読みますと、彼はこれらの葛藤と苦しみの中を悩み追い詰められ、薬を常用し、時にはアヘンを服用し、遊郭に通ったりしてもがき苦しみ、神経を衰弱していくのです。そして、その原因を彼は「何か僕の将来に対するただ、ぼんやりした不安である」というのです。言い方を変えますならば、自分自身の内に自分が生きる明確な意味を見出すことができずに、いいしれぬ不安が心を支配していたというこです。
そして、そのことはコリントの町の人達の間にもあったのです。彼らのうちにある意味の喪失感が、彼らをしてパウロがⅠコリント6章9節に記しているように不品行、姦淫、泥酔するというような行動へと芥川と同じように駆り立てていたのです。人間はいつの時代にも変わりません。しかし、パウロはそんな彼らに対して、はっきりと人の生きる意味というものをその同じ手紙の中に書き記しているのです。
あなたがはた知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい(コリント第一の手紙6章19節-20節)
だから飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。(コリント第一の手紙10章31節)。
フランスの哲学者、パスカルは有名な「人間はひとくきの葦にすぎない。だが、それは考える葦である」という言葉を残しました。ここまではよく知られています。しかし、彼のこんな言葉はあまりよく知られていません「人間は明らかに考えるために作られている。それが彼の尊厳のすべてである。ところで考える順序は、まず、自分の目的から始めねばならない」。(瞑想録)
私達は考えます。そこに人の尊厳があるとパスカルはいいます。しかし、その考えは最初に自分が進むべき目的を考えることから始めなければとも彼は言っているのです。そして、それは私達をして神の栄光を表して生きていく、それこそが私が今、生きている理由なのだということを信じる信仰による目的なのです。
最後のことです。
いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。
進歩(Progress)=「希望」
私達を突き動かすもの、それは私達が進歩しているということを実感することです。そこに希望があるのです。
誰の言葉だったか忘れましたが「たとえ明日世界が滅びるとしても、私は今日リンゴの種をまくだろう」という名言があります。なぜなら、そこには成長があり、成長には希望があるからです。
しかし、私達の社会はこの成長を期待させないような構造となりつつあります。どこに私達はプログレスを見出せばいいのでしょうか。パウロはこのコリント第一の手紙の中でこう書き記しました。
あなたがは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。(コリント第一の手紙9章24節-25節)
古代オリンピックの起源は紀元前8世紀までさかのぼると言いますから、パウロは今日の陸上競技の原型となるような競技を身近に見聞きしていたのでしょう。競技者が後を振り向かず、少しでも自らを早くゴールに到達するために前に向かって走る姿を見ていたのでしょう。そして、それを自分の信仰生涯になぞらえたのです。
彼はさらにその競技者の姿を細かくピリピ書3章13節で言い表しています「兄弟たちよ、わたしは既に捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かって体を伸ばしつつ、目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」(ピリピ3章13節-14節)。
競技者達が少しでも自らの体を前に進めることであり、それこそが走る者達の日々の進歩なのだということを彼は学んだのでしょう。キリストを目指す彼にとって、後ろに後退するという発想はなく、彼は常にキリストを目指して前進していたのです。
そして、パウロはさらにその止まることのない、絶えずキリストの栄光のために前進する生涯を神秘的にこのように表現し、コリントの人達を励ましたのです。
主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。私達はみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである(コリント第二の手紙3章17節ー18節)
皆さん、それが貧困であれ、個人的な堕落であれ、強制的な社会的差別であれ、コリントの町には、明日に希望をもてない人達がたくさんいました。そのところから湧いてくる何の進歩もない失望感がこの町をおおい、それゆえに町が退廃していったのです。
しかし、パウロはそんな彼らに言ったのです。もし私達がキリストと共にその人生を歩むなら、たとえ様々な環境的な要因が思わしくなくとも、私達はいつも前を向いて前進することができる。私達は主から名を呼ばれるその日まで成長し続けることができるのだ、その証拠にもう既にあなたは今、キリストの栄光の中にいるのだ、だからその栄光から栄光へと現に今も、日ごとに主の姿に変えられているのだと書いているです。
皆さん、このような経済的困難な時代ですから、全てのことが停滞してしまっているような、何の変化も進歩もないどころか、全てが下降してしまっているような世界に私達は生きているように思えることがあります。しかし、パウロはそんな私達に対してもキリストにある希望を語りかけるのです。私達はキリストにあって日ごとに進歩することができるのです。
皆さん、今日のメッセージタイトルは「世俗のカラクリ、見つけた」ということです。すなわち、私達はなかなか気がつきませんが、この世界も私達も「愛」と「意味」と「進歩」によって動いていくのです。
このことは私達自身がその心に手をおいて考えてみればお分かりになるでしょう。
私達の家族や友人達の姿を観察すればお分かりになるのでしょう。そして、今日、この三つはどれも失われているのです。
そして、そのことに対する呻きが世界をおおっているのです。しかし、聖書はそのことに対して、どうすればいいのかということを愛と信仰と希望という言葉によって既に2000年前に記しているのです。
皆さん、私達はもう一度、このことを確認しませんか。あなたの日々の生活に「愛」と「意味」と「進歩」がありますか?この三つを持ち合わせている人達について聖書が何と言っているかご存知ですか?
そうです、あのキリストの弟子であったヨハネがヨハネ第一の手紙5章5節にこう書き記しているのです。「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」
あなたの日々の生活に生きがいと喜びが溢れてきますように。
お祈りしましょう。