これぞ学習!

学校では爬虫類と哺乳類の違いや、国会の組織というものや、三角形の面積の出し方について教えてくれます。しかし、学校教育が教えてくれないものも多くあります。すなわち、日本に限って言いますなら、義務教育とされています小学校、中学校(この場合は公立の学校に限定しますが)、ある意味、一番、頭も心も柔らかく何でも吸収してしまうようなこの時期に、その9年もの年月の間に配布された全ての教科書、どのページをめくっても書かれていないことがあるのです。例えば、

なぜ自分は生まれてきたのか。

自分は死んだらどうなるのか。

自分とは何か。

なんのために生きているのか。

なぜ願ってもいないことをしてしまうのか。

なぜ学ぶのか。

なぜ働くのか。

結婚とは何なのか。

生きる目的は何なのか。

なぜ人を殺してはいけないのか。

どうして、人は時に手を合わせて祈るのか。

というようなことに対して、私達は学校教育において教えられることはないのです・・・。

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マック

今日、礼拝でお話したメッセージです。

よろしかったらどうぞ!↓

これぞ学習!

2009年1月18日

箴言1章7節

主を恐れることは知識のはじめである。

人それぞれ違いはあると思いますが、私達の多くは学校という学び舎において学習したというある時期がその人生にあったのではないかと思います。私達はそこで、字を書いたり、読んだり、計算というようなものを学びました。そして、それがあって今日の私達の社会生活があるのはまぎれもない事実であります。そう思います時に私自身、これまで学ぶ機会を与えてくれた国の制度、そして色々なことを教えてくださった恩師達への感謝が尽きません。

しかし、ここにきて私達はこの学校教育だけではどうしても不十分ではなかろうかということを感じているのではないかと思います。実際に人間というものをトータルで見る時に、必ずしも多くを学んだ人が人間としても優れているかというと、そうではないということは既に周知のとおりです。

学校では爬虫類と哺乳類の違いや、国会の組織というものや、三角形の面積の出し方について教えてくれます。しかし、学校教育が教えてくれないものも多くあります。すなわち、日本に限って言いますなら、義務教育とされています小学校、中学校(この場合は公立の学校に限定しますが)、ある意味、一番、頭も心も柔らかく何でも吸収してしまうようなこの時期に、その9年もの年月の間に配布された全ての教科書、どのページをめくっても書かれていないことがあるのです。例えば、

なぜ自分は生まれてきたのか。

自分は死んだらどうなるのか。

自分とは何か。

なんのために生きているのか。

なぜ願ってもいないことをしてしまうのか。

なぜ学ぶのか。

なぜ働くのか。

結婚とは何なのか。

生きる目的は何なのか。

なぜ人を殺してはいけないのか。

どうして、人は時に手を合わせて祈るのか。

というようなことに対して、私達は学校教育において教えられることはないのです。私達は生物や保険体育の時間に、どうしたら命が誕生するのかということを教えられます。学校教育において、なぜ物体は落ちるのかというような計算式を書き記すこともできるようになるでしょう。しかし、それらの知識を詰め込んでいく前に、全てのことの前提となること、すなわちなぜ自分は生まれてきたのか、なぜ学ぶのか、何のために生きているのか、なぜ働くのかというような最も大切な問いかけは、未だ全て未回答のまま私達の間に放置されています。なぜ、未回答なのか、なぜならこれらの問いに対する答えを人は自分の世界の中で見出すことができないからです。

今、人間社会が病んでいると言われます。なぜ私達は人間が壊れていく姿を目の当たりに見ているのでしょうか。なぜなら、私達の間には今挙げたような未回答の問いがあるからです。「勉強しろ、就職だ、結婚だ、マイホームだ、リタイアメントだ」とガムシャラに突っ走ってきても、先に挙げた本質的な問いに対する答えをもし持たないのなら、私達はどこかで行き詰ってしまうでしょう。

いいえ、あえて申し上げますなら行き詰ることなく暮らし続ける唯一の方法があります。それは「考えることを止めること、すなわち思考を停止して生きること」です。何も考えなくなれば、どうにかやっていける。しかし、それは人間、ホモサピエンス(Homo sapiens)、「知恵のある人」のあるべき本当の姿でしょうか。

これまでは色々なもので私たちは誤魔化してきたのです。今までは誤魔化しがきいたのです。しかし、もはや誤魔化しのきかない世の中になったのです。私達はこれまでは、心の破れをどうやら繕ってきたのです。いいえ、繕うというようりも、破れを見ないようにしてきたのです。ほころびを見ないようにがむしゃらに走ってきたのです。しかし、もうその破れやほころびは、どうにもならないものとなって、私達の身近な世界で次々と裂け始めているのです。その叫びが幼子から高齢者の間から聞こえてくるのです。その叫びから起きる悲劇が私達の世界には満ちているのです。そのような世界に生きる私達に希望はあるのでしょうか。

今日、開かれております聖書の箇所は「主を畏れることは、知識のはじめである」という実に短い言葉です。この一文に実はこれらの破れやほころびを修復する力があるのです。最初に「神なしに本当の学習はない」ということを見ていきましょう。

神なしに本当の学習はない

「主を畏れることは、知識のはじめである」この言葉の主語は何でしょうか。その主語は「主を畏れること」です。そして主とは神のことです。すなわちこの言葉は「神を畏れることが、知識のはじめである」ということであり、それは知識というものは神を畏れるところから始まるということです。いい方を変えますならば、神という存在ぬきに知識も何も始まらないということです。そのことを明確に言いえている出来事が100年ほど前にありました。       

あの5000円札の肖像画となっています新渡戸稲造が、ベルギーの法学者・ラヴレー氏の家で歓待を受けている時に「日本の学校では宗教教育というものがないのですか?」と尋ねられ、「ない」と答えると「宗教なしで、いったいどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか?」と問われ、その質問に愕然とし、即答できずに、彼はこの問いかけがきっかけとなり名著「武士道」を書きました。

ラヴレーが言った宗教という言葉に日本人はあからさまな嫌悪感と疑念をもちます。でも先日もお話しましたようにキリスト教とは「宗教」ではなくて「神との個人的な関係」だと申し上げましたように、このラブレーの言葉もこう言い換えることができるのです。すなわち彼はこう新渡戸に聞いたのです「日本の学校では神との関係を教えないのですか?どうして、神との関係に触れずに、子孫に道徳教育を授けることができるのですか」。

このラブレーの問いかけから100年以上たって私達は今、この問いの重さをひしひしと感じているのです。皆さん、この中にもキリスト教は宗教だと思っている方いましたら、そうではないということを知って下さい。そうではなく、まぎれもなく私達は今、生きている。この疑うことのできない事実、そしてその私達に命を与えられた神との個人的関係に生きることがキリスト教です。そして、自分の根源がこの神と共にあったのなら、私達の人生、その終りまで、否、永遠にこの神との関係を持つことがキリスト教なのであり、それによって私達は本当の知恵というものを得ることができるのです。

先にも触れましたようにこれからの時代、テクノロジーや科学の分野はますます発達していくことでしょう。しかし、一つ確実に取り残されていくものがあります。もうこのことは今でも明白となっていることですが、それは人の心の問題であります。

様々な分野においてこれからも私たちの世界では開発がなされ、生活の便利さは増していくことでしょう。しかし、それらの物が華やかになるのと反対に、人の心はますます閉ざされ、病んでいく。明らかに心に異変が起きている。その異変の奥底には何があるのか。先に挙げた問いに対して答えがないということ、それが私達の心にジワリジワリと効いてきているのです。

しかし、私達がまず主を畏れること、すなわち神との関係を築いていく時に先にあげた問いは、その時から一つ一つ、そして全て明確な答えを得ることができるようになるのです。ここにきて初めて、私達は学校において学ぶ諸々の知識・知恵を吸収する土台ができあがるのです。ここにきて初めて、私達が学びうる諸々の知識を蓄えるスタート地点に立つことができるのです。この土台なしに知識を積み上げることには限界があり、また時にそれはとても危険なことにもなりうるのです。

二つ目のこと、「神の知識は私達を祝福する」ということを見ましょう。

神の知識は私達を祝福する

今週、就任しますオバマ大統領が選挙戦において何度も言っておりました、これからの時代、彼が言う「変化」ということがまさしくキーワードとなるでしょう。私達自身はこれからその変化の中に身を委ねることになるでしょうし、私達の子や孫達の時代になる時にはいったいどんな大きな変化が彼らを襲うのかと思います。そんな激動の時代に備えて私達は何を学ぶべきなのでしょうか、どのような教育をすればいいのかと思います。

先のみ言葉をと同じ箴言の14章にはこのような言葉が記されています。「主を畏れることによって人は安心を得、その子らは逃れ場を得る。主を畏れることは命の泉である、人を死のわなから逃れさせる」(箴言14章26節、27節)

先に「主を畏れること」こそが「知識のはじまり」だとお話しました。ということはこの箴言14章の言葉をこのように言い換えることができるかと思います「神が与える知識によって人は安心を得、その子らは逃れ場を得る。神が与える知識は命の泉である、人を死のわなから逃れさせる」。

ここにはこれからの時代を生きる私達に、また私達の子達にも希望となることが書かれています。すなわち、これからの厳しい時代、神にある知識を有する者たちは安心を得、逃れ場を得、命の泉を与え、死にいたるような罠から助けられるというのです。

皆さん、これはすごいことです。神の知識に生きるならその心の内に平安を得ることができる。人生に起きてくる様々な問題に対して逃れる場所が与えられる、私達を本当に生かすことができる命の水が与えられる、私達を取り巻く諸々のトリッキーな危険から私達は守られるというのです。

皆さん、これからの時代、私達は神の与えてくださるどんな力が具体的に必要となるのでしょうか。この問いに対して色々な人たちが色々なことを言っていますから、その数は幾十にもなるでしょう。でも、その中で一つ、最も大切なことは、これからの時代、私達は、私達の子供達は「目に見えない世界を見ていく力」が必要となるのではないでしょうか。これまでは人の後についていれば、それなりに安定したゴールにたどりついたのです。しかし、これからの時代はそのような姿勢で生きるには大きな危険が伴うということが私達に明確になってきました。

皆がやれ投資だ、やれ今こそ家を買う時だ、あの人も、この人も、だから私もと熱狂していた数年前のなれの果てを私達は今、刈り取っています。もはや大勢がそうしているから正しいということはなく、どの道を選びとっていくのかということに対して、私達は自分自身で決断していく力が必要となり、それではそれはどのように得られるのかということが問題となるのです。そして、その時にこそ「目に見えない世界を見る」ことが必要となるのです。

前にもお話したと思うのですが、神様はいつも抽象の領域、すなわち私たちの目に見えないお方として存在しています。ユダヤ民族は、幼い時からこの目に見えない存在を意識する教育を受けています。そして、その結果、周知の通り危急存亡とも思われるような度重なる逆境や困難、それらは全く先の読めない、先が見えない世界に身を置くことであり、彼らの歴史はまさしくそれらを乗り越えてきた歴史なのです。そして、ただ息も絶え絶えそれを乗り越えてきたということだけではなく、彼らは高い抽象的能力を要求される学問やビジネス、そして芸術の世界に他民族を圧倒するほどのおびただしい数の人間を輩出しているのです。

彼らが向き合った世界は手に取って見比べることができるような世界ではなく、それらは全く目に見えない世界の中から、ある決断や思想を創造していく世界です。迫害を受けて見知らぬ土地に移り住み、ゼロからその生活をしていかなければならなかったこと、全く予測もできない彼らの未来はこれらの彼らの「目に見えない世界を見つめる」教育によって支えられていったのです。別の視点で眺めれば今日の金融や流通というような実際に手にとって見ることができないようなお金や物の流れに関わるビジネスの成功者にユダヤ人が多いということにも頷くことができます。

ユダヤ人は一切の目に見える、手に取ることができる偶像崇拝を拒否し、常に形にできない神を考える訓練を受けています。これが物事を論理的、抽象的に考えるきっかけになっていると思われるのです。特に子供達にとって、目には見えないけれど存在する神について思いをめぐらせることが、大きな知的刺激になっている点は見逃せません。そのことが彼らがいかなる分野に進むにしても、他者を圧倒する大きな底力となっているのです。

ユダヤ人の子供に対する教育はまずトーラーと呼ばれる書によってなされます。これは旧約聖書の最初の五書のことですが、子供たちは繰り返しその聖書の物語を聞かされます。

そして、その物語の中にはアブラハムという人の人生が書かれています。アブラハムは幼い頃、目に見える神の像を拝む家庭環境で育ったと言われています。そんな彼が人の手の中におさまってしまうような木や石で彫られた神ではない、この天地万物を支配されている神を知り、神というものは目に見える姿で表現することはできないということを知ったのです。このアブラハムはユダヤ人の父祖だと言われていますが、ユダヤ人の生き方は偶像という目に見える世界に生きた一人の彼らの祖、アブラハムが、目に見えない世界に目を向けたことから始まっているのです。

今まで私たちは人の後をついてくればよかったのです。その先に何が待ち受けているか分からずとも、そこにいればそこそこ生活は保証されていたのです。しかし、これからはそうではなくなります。99%の人が右と言っても、左に行かねばならないというような決断と独創性がこれからは必要となるでしょう。そして、得てしてその時にどちらに行けばいいのかというようなことは、目で見て判断などはできないのです。しかし、その時に見えない神を信じ、その神に思いを寄せている私達は、信仰によって、自らの決断と共に歩みだすことができるのです。

私は子をもつ親として思うのです。これからの時代、子供達をどう育てたらいいのだろうか。彼らは何を学ぶべきだろうか。もちろん彼らが好きな学びをしたらいいと思います。しかし、たとえそれがとても高度なものであっても、特定の分野の特定の学びだけでは限界があるということを私は確信します。その分野のことを学んだからといって、そのまま世界に出て行くということは、彼らは全く無防備のまま世界に彼らを送ることになってしまう。もし、彼らが神を知らなければ先にあげた「未回答の問い」の重圧に押しつぶされてしまうことでしょう。そして、何が起きるのか皆目検討もつかないこの激動の時代、彼らはその道を迷ってしまうかもしれません。

ですから、彼らに見えない神の存在を教えること。そこから全ての教育・学問は始まるということ、それをまず彼らに知って欲しいのです。そして、その思いは私自身の思いなのです。皆さん、これぞ教育、これぞ学習なのです。

あなたはこの教育を受けてきましたか。受けたいと思いませんか。子供達にこのことを学んでもらいたいと願わないでしょうか。今からでも遅くはありません。今日からその第一歩を共に踏み出そうではありませんか。

主を恐れることは知識のはじめである。

お祈りしましょう。

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