心臓に手をあてる時

以前、娘に冗談交じりに「自分が生まれてきた時のことを覚えている?」と尋ねたことがありました。娘は「うん」と言いました。予想外の返事だったので、思わず「どうだった」と聞いてみると、「暗い所にいたのに、突然、明るくなったの」と彼女は答えました。「本当かい」と思ったのですが、おそらくどこかで聞いてきたことを、話していたのだと思います。いまだに事の真相は分かりません・・・。

マック

今日、礼拝でお話したメッセージです。                                                     よかったらどうぞ!

心臓に手をあてる時 【Podcast】

心臓に手をあてる時                            2008年1月11日                          詩篇139篇13節‐18節

今日から「わたし物語」というメッセージ・シリーズが始まります。私達はそれぞれが自分という物語の中を生きています。この物語は人の数だけあり、どれ一つとて、同じものはありません。実は私達が神様の存在を信じ、イエス・キリストと共に歩むということは、この自分の物語に神様が関わっているのだということを、その生涯、確認して生きていくことなのです。ですから、このシリーズを通して、人生のそれぞれの時に、神様はどのように関わっていたのか、関わってくださっているのか、関わってくださることになるのかということを見ていきたいのです。

この「私達の物語」を見ていく時に、当然、私達は誰しもがもっているその始まりの物語から見ていかなければなりません。すなわち、それは私達の誕生物語です。この聖書が記す事実は、はじめて聖書の話を聞きましたという方にとっては、とても新鮮な話しではないかと思います。もしかしたら、そのような方々の人生の見方そのものがひっくりかえってしまうかもしれません。

皆さん、いかがでしょうか。ご自身が生まれた時のことを覚えているでしょうか。以前、娘に冗談交じりに「自分が生まれてきた時のことを覚えている?」と尋ねたことがありました。娘は「うん」と言いました。予想外の返事だったので、思わず「どうだった」と聞いてみると、「暗い所にいたのに、突然、明るくなったの」と彼女は答えました。「本当かい」と思ったのですが、おそらくどこかで聞いてきたことを、話していたのだと思います。いまだに事の真相は分かりません。

しかしながら、確実なことは誰しもがかつて母の胎にいたということです。私は医者ではありませんから、そもそも今は鼻と口で息をしている人間が10ヶ月もの間、羊水という液体の中に浮かんでいたなどということ自体、理解不能です。もっと具体的に言いますと、直系0.05ミリの精子が直径0.2ミリの卵子に受精して、一つの細胞から60兆個もの細胞を持つ人間になるということが私にはよく分かりません。受精の確率ということを考えれば、「私」という人間が生まれる確率というのは1500億分の1だということですが、ますます分かりません。ただ分かるのは、そんな確率で生まれてきたのなら、後の人生、宝くじに外れようが、何かの選抜から外れようが、そんなのはたいしたことではないということです。

今日の聖書の箇所を読みましょう。命の誕生ということになると、やはりこの箇所になるでしょう。詩篇139篇13節から18節です。

13あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。14わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。15わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。16あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。 17神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。18わたしがこれを数えようとすれば、その数は砂よりも多い。わたしが目ざめるとき、わたしはなおあなたと共にいます。

 

このところから今日は三つのことを見ていきたいと思っています。まず第一に「私達は造られた」ということです。

私達は造られた

13あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。14わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。15わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。

皆さん、今日、私達全てに共通している事実があります。それは、私達の心臓が動いているということです。手を胸にあてれば私達はそこに鼓動を感じます。最近の多くの電化製品は充電すれば何度も使えるようになりましたが、昨夜、教会に行くために充電してきましたという人はいないと思います。今、充電が切れそうです、だから目が閉じていきますという人はいません。これは歴然とした事実です。

今日、医学は人間の知恵は人の命の始まりについて医学的な説明ができます。しかし「どのように」は説明できても「なぜ」は説明できません。なぜ、私達の父と母から自分という人がこの地に生まれてきたのかということを説明できる人はいません。このことについて色々な方が様々なことを考え論じてきましたが、なかなか答えはでてきません。

「なぜ」の問いかけに対して私達はしばしば「なぜなら」と答えます。英語では、この「なぜなら」は「because」であり、それは「Be cause」すなわち、そこには原因となるものがあるからです。そして、その誕生の原因になるものについてこの詩篇139篇は明確に書いています。すなわち、13節にあるように「あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました」ということです。

先日「MIP」という言葉を聞きました。何の略だか分かりますか。「Made In Japan」です。そうであるなら、私達は刻印こそ押されてはいませんが、誰しもがMBG」、すなわち「Made By God」なのです。

このことについてその先の15節には「わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされた時、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった」と記されており、この「つづり合わせる」という言葉は「縫い物を縫い合わせる」というような言葉なのです。すなわち、このことは私達の物語の最初の時は神と共にあり、私達は神によって命が与えられたということです。

ある人が「人間は賢い、賢いと言ったって所詮、どこから来て、どこに行くのかも分からないのだ」と言っていますが、その通りです。国民的な歌でもあります、美空ひばりさんの「川の流れのように」という歌を私達は好んで歌います。

ああ 川の流れのように おだやかに

この身を まかせていたい

ああ 川の流れのように 移りゆく

季節 雪どけを待ちながら

ああ 川の流れのように おだやかに

この身を まかせていたい

ああ 川の流れのように いつまでも

青いせせらぎを 聞きながら

この歌は私達日本人の心をしっかりと掴みます。日本の田舎で悠々と流れる川を見れば、この歌を思わず口づさんでしまうのが日本人です。「川の流れのように、私も身を任せていたい」。「あぁ、いいなぁー」と私達は思います。でも、この歌のトリックは、その川がどこから来て、どこに行くのか分からないのです。「私も川の流れに身を委ねていたいです。でも、そんな私がどこから来て、どこへ流れていくのか」ということを知ることができたらもっと、この川の旅はきっともっと楽しくなる。

こんなことを言いますと、「国民的な歌になんということを」とか「お前は空気が読めない奴」と言われて黙殺されてしまいそうです。しかし、本当にそうでしょうか。今、この世界で起きていること、私達の家庭や職場で現実に起きていることは、私達が何か情緒的になって「なんだかいいわー、気持ちいいわー」と言っているような世界ではないのです。自分が何者なのか、どうして今、ここにいるのか、どこから来て、どこに行くのかということが分からないがゆえに、様々な深刻な問題が起きているのです。このことに対して、誰かが「王様は裸じゃないか」と叫ばなければならないのです。

皆さん、ですから私達が何を差し置いても、まず知るべきことは、神様がその意志をもって私達を造られたということです。その物語を語らずして、私達の人生に起きる諸々の出来事の意味づけは成り立ちません。あなたも私も「MBG」なのです。

私達は熟知されている  

14わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。15わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。16あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。

皆さんは自分を一番、よく知っているのは誰だと思いますか。親兄弟、伴侶、言うまでもなく自分と一番、長く付き合っているのは自分自身です。しかし、その自分ですら、私達が自分の後姿をいつも眺めることができないように、自分のことが分からないのです。なんでこんなことをしているのだろう、自分は何を考えているのだろう、誰の心にも時にわいてくる思いです。

しかし、今日の箇所において聖書は「父なる神こそが、私を最も良く知っておられるお方」だと言っています。そりゃそうです、私達が母の胎でつづり合わされる時からこのお方は私達を見つめておられたのですから。その時のことを当の本人である私達ですら知らないのですから。そして、驚くべきことにこのお方はそれらの私の日々をことごとくその書に記されたというのですから。そんじょそこらの育児日記とは違うのです。育児日記は何を食べた、歩き始めた、話し始めたということを書くのでしょうが、神様は私達の生がまだ始まるかどうかという、その瞬間から私達を知っていてくださるというのです。

私達を母の胎で作られたお方は、その後は私達と何ら関わりがないかと言えばそうではないのです。この詩篇139篇の1節から10節にはこう書かれているのです。

①主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。②あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。③あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。④わたしの舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとくそれを知られます。 ⑤あなたは後から、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます。⑥このような知識はあまりに不思議で、わたしには思いも及びません。これは高くて達することはできません。⑦わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。 ⑧わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。⑨わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、⑩あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます。

皆さん、このお方は私達を知り尽くしている方です。私達がまだ一言も言わないのに、私達の思いをことごとく知っておられるというのです。そして、このお方は私達がどこに行っても、そこにおられるのです。まさしく地獄のどん底を見てきましたという時にも、神様は離れることがありません。

私は米国に牧師として10年となりますが、その時に神様はこの10節のみ言葉で私を励ましてくださいました「わたしがあけぼのの翼をかって海の果てに住んでも、あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます」。この10年という年月は、確かにこのみ言葉の約束が本当なのだという確信を与えてくれた10年でありました。そして、この言葉は海を渡ってきた私達全てに語られるものです。「たとえあなたがあけぼのの翼をかって祖国日本を離れ、海の果てのこのアメリカ合衆国に住んでも、神様よ、あなたは確かに私達と共におり、あなたのみ手はこのサンディエゴで私を導き、あなたの右の手は私を支えられます」。

このお方に完全に知られ、このお方が私達と共にいらっしゃるのなら私達は大丈夫です。

私達は思われている                                      

17神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょうか。その全体はなんと広大なことでしょう。18わたしがこれを数えようとすれば、その数は砂よりも多い。わたしが目ざめるとき、わたしはなおあなたと共にいます。

 

皆さん、日本語では分かりにくいのですが、この神の「もろもろのみ思い」というのは誰に対するものなのかということですが、それは私達に対するものなのです。すなわち「あなたが私に対してもっていてくださる、もろもろの思いは私になんと尊いのでしょうか」というのです。その全体は広大だというのです。そして、それを私は数えることが出来ないというのです。

井の中の蛙」という言葉がありますが、私達はとかく自分の回りの世界が全てだと思い勝ちです。自分で最近思っていることが全てだと思いがちです。私達が追い詰められる時というのは、大抵、視野がとても狭くなっています。しかし、神様は私達をその全体の中で見ていてくださるお方です。

先週もお話したましたように、私達は何の収穫もなく、全ての働きが止まってしまったような冬のような季節を生きなければならないことがあります。そして、私達はその季節のまま自分の人生は終わるのだと思います。しかし、神様が私達に抱いている計画は異なるのです。すなわち、その全体の中では冬は全てではなく、新芽が出るために必要不可欠な季節なのです。春の新芽が生き生きと目を出すために、冬は必要なものなのです。私達がもう万事休すと、自分の人生にピリオドを打とうと思っても、神様の目にそれはピリオドではなく、コンマなのです。そこから次のことが始まるのです。あの偉大なユダヤ人神学者、A.Jへッシェル「本当の知恵とは、あらゆる事物を神の見地から眺められる能力」なのだといったのです。

私の大好きな話しです。ある夫婦がこれ以上、進めない壁にぶつかった。その夫人は夢を見た。とても乗り越えることができそうもない高い壁が彼ら夫婦の前に立ちはだかっている夢だった。その時、二人の体が宙に浮いた。そして、どこまでもどこまでもその壁伝いに登っていった。その頂上に着いた時に初めて、彼らはその壁は実は四角い形をしていたことに気がついた。そして、その箱には大きなリボンがつけられていた。

私達には超えられない壁に見える出来事が人生にはあります。しかし、私達はその時に、私達を造られ、私達を誰よりも熟知されているお方を思い起こすのです。

思いもしなかった、その壁があなたからの巨大なギフトであるということを知るのです。このお方の私達に対する思いはなんと尊いものなのでしょうか。その思い全体はなんと広大なのでしょうか。その背後にある諸々の私達に対する父なる神様の思いを私達は数えることができないのです。

お祈りしましょう。

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