「世俗牧師宣言」のガイドラインになるような本がある。このような視点で信仰というものを見ている方がいるということ、本当に嬉しい。
「わが故郷、天にあらず」この世で創造的に生きる。Heaven is not My Home. Living in the NOW of God’s Creation. Paul Marshall著 いのちのことば社
その中で、「こりゃまいった」というような一節をノートに書き写したのでシェアーします。あらゆるクリスチャン・職業人に捧ぐ言葉として。
どんな科学の分野であろうと、その入門書を書けるようなクリスチャンの専門家は、弁証的(伝道的)な本よりも、はるかに大きな貢献ができる。・・・・私達は30分ほどならば、人々の耳をキリスト教的な視点に向けさせることができるかもしれない。だが、その講義が終わり、記事を読み終わるや否や、聴衆は非キリスト教的な世界に戻っていく。
・・・・私達が望むのは、キリスト教についての小冊子が増えることではなく、キリスト教の視点で書かれた他の分野の小冊子が増えることなのだ。この点は逆の立場から見れば分かりやすい。私達の信仰がヒンズー教の本で動揺することはあまりないだろう。しかし、もし地理学、植物学、政治学、天文学の教科書や入門書を読むたびに、それが汎神論的な考え方(全てのものに神が宿っているとしたり、一切万有の全体がすなわち神であるとする立場)と一つとなっているとしたら、私達の信仰も揺らぐ可能性が生まれる。
現代人が唯物論的(物質を根本的実在とし、精神や意識をも物質に還元してとらえる考え)になるのは唯物論を教える本によるのではなく、ありとあらゆる書物の背後にある唯物論の影響を受けていくからなのだ。同じようにノンクリスチャンが動揺するのは、キリスト教についての本を読むからではない。どんな分野の科学でも、その一番の入門書がいつもクリスチャンによって書かれていたら、その人は動揺することになるだろう。(上書P227,228) 例えばこんな人、あんな人。
そして、これは特に自分を含め、世界に点在するパスター達へ。
典型的なクリスチャンというのはどちらかというと意固地で、恐ろしいほどに退屈な人物だという印象を、私達は善意ではあったにしろ世に与えてしまった。しかも、この世界を燃える炎のようにして巡り、その33年の生涯で、ただの一人として退屈させなかったお方の名によってである。(上書P235)
マック
