恐れよ、恐れるな!

以前もブログに書きました。私達人間にはDeipnophobia(夕飯の会話恐怖症)からSoceraphobiaphobia(義理の親恐怖症)まで、500以上ものPhobia(恐怖症)があるといいます。

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私の手元には、この恐怖症一覧のポスターがあり、眺めているだけでどんなにか私達が恐れというものに縛られているかということに気づかされます。

Nenien C. McPhersonは、生まれたばかりの赤子には「大きな声に対する恐れ」と「落ちることに対する恐れ」しかないと言いました。彼は、それ以外の恐れは後の人生に体得していくものだというのです。ということは、誰も生まれた時から夕食の会話を恐れたり、義理の親を恐れる人間はいないということであり(あたりまえ!)、それらは私達の生活の中で何かの原因によって引き起こされてきたものなのです・・・。

マック

今日、お話した礼拝メッセージです。
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恐れよ、恐れるな
2008年8月24日

皆さんは何か恐れているものがありますか。その恐れに支配されている方いますか。私達の世界には500以上もの恐怖症というものがあるといいます。英語でいうところの「Phobia」という言葉がついている単語です。例えばこんなの分かりますか?全てお分かりの方いましたら、ディナークルーズへご招待します。

Japanophobia
日本恐怖症

Ostraconophobia 
ヒトデ恐怖症 
            
              
Deipnophobia
夕飯の会話恐怖症

Paraskavedekatriaphobia 
13日の金曜日恐怖症  
                   

Soceraphobiaphobia 
義理の親恐怖症

Pteronophobia  
羽毛でくすぐられることへの恐怖症   
                  

Phobiaphobia 
恐怖症恐怖症

Nenien C. McPhersonは、生まれたばかりの人間には二つの恐れしかないと言いました。一つは「大きな声に対する恐れ」。そして二つ目は「落ちることに対する恐れ」。彼は、それ以外の恐れは後の人生に体得していくものだというのです。

すなわち、生まれた時から夕食の会話を恐れる人や義理の親を恐れる人はいないということです(あたりまえですね)。これらは私達が生きている中で何かの原因によって引き起こされていくものです。私達は日常生活で主にどんなことに恐れるのでしょうか。それを挙げたらきりがありませんが、今朝は多くの私達がもつ恐れを3つだけ考えてみました。まず最初に、私達が恐れるもの、それは私達の環境の変化ということです。

環境の変化

人間のストレス度を測る調査によると、私達にとって最も大きなストレスの一つに「環境の変化」というものがあります。新学期が始まる子供にとって、通いなれたクラスルームではなく、新しい先生、新しいクラスメートに出会うことはエキサイティングなことであると同時に緊張する瞬間でしょう。私達が未知の世界に暮らすという時、もしくは、結婚するとか、家族が天に召されるとか、子供が巣立っていくというような家族構成が変化するような状況に私達が向き合う時に、私達は「大丈夫かしら」と恐れを感じるでしょう。

詩篇の46篇1節から3節にこんなみ言葉があります。「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない」(詩篇46篇1節‐3節)。

この46篇を書いた著者は何か、環境の激変というものを体験していたのかもしれません。そして、それこそ天変地異が起きるような環境の激変があっても、私は恐れないというのです。ここには山が海の中に落ち込んでいってもと書かれています。これは地形的な激変を意味する言葉ですが、その言葉には「私達の日常におよそ考えもしなかったことが起きても」ととってもいいかと思います。この著者はそのような変化の中においても主に信頼するということを書いています。

なぜか、そのような中にあっても神は私の避け所(避け所とは逃れることができる場所)であって、環境の激変の中にも自分には逃げ込める場所がある、それこそが我が神なのだとこの著者は言っているのです。そして、その神が「悩める時のいと近き助け」だからだというのです。この神ははるかかなたにいて、助けを求めた時に5日後に来られるというのではない、神は私達のすぐ側におられる、そう神はいつも私達と共におられるのだからというのです。それがゆえに、自分の心にある確信を最後にもう一度確認するかのように、この46篇の最後はこう閉じられます「万軍の主はわれらと共におられる。ヤコブの神はわれらの避け所である」。

それが私達の環境の変化であっても、または私達の立場や状況の変化であっても、神様は私達に語りかけます。私があなたと共にいるのだから、恐れるなと。二つの目の恐れ、それは人に対する恐れです。

私達の恐れの多くは人間に関するものです。私達が恐いと思うものはケチャップや冷蔵庫ではありません(もしかしたら、このようなものにも先にあげたような恐怖症の名前がついているかもしれませんが)。

ある動物園には「世界一恐ろしい生きもの」という張り紙が貼られて窓があるそうです。その中に世界一恐ろしい生きものがいるというのです。そこを通り過ぎる人はおっかなびっくりその窓を覗きこむのです。そうしましたら、そこには一枚の鏡が掲げられていて、自分の顔が映るのです。

コヨーテが私達の玄関のドアの鍵をこじあけて入ってくることはありません。リスが私達を解雇したり、イグアナの一言で私は傷つきましたという人はいません。人間関係に悩み、その関係を恐れますが、誰も家で飼っている金魚との関係がうまくいかないからカウンセリングを受けているという人はいないのです。先日も祈祷会でお化けについての話をしたのですが、私はお化けよりも生きている人間の方がよっぽど恐いと思うのですが、いかがでしょうか。

聖書の中に記されていますヘブル人への手紙を書いた著者は、多くの人間的なしがらみや、時に迫害を受けるような状況を通ったのでしょう、そのような中、何度も心が揺れるようなこともあったのでしょう、それらの経験を通して自分の心の内を書き記すことによってその決意を表明するかのようにこう言いました。

主は「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。だから、わたしたちは、はばからずに言おう、「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」へブル人への手紙13章5節、6節。  

私達は人間同士、互いに敬意を表すべきです。しかし、聖書は人を恐れる必要はないというのです。人間は本当にやっかいです。人は生きていても人の恐れの対象になりますし、それだけではなく人は死んでも人の恐れの対象になる。亡くなられた、祖父母がお墓の石の方角が悪いから怒っている、孫につけた名前の字画に怒っている。おじいちゃん、おばあちゃん、生前はとても優しくて、方角のことも字画のことも何も興味なかったのに、どうして亡くなったら、そのようなことで私達を怒るのでしょうか?恐がらせるのでしょうか?

皆さん、それが生きている人でも、亡くなられた人であっても私達は人を恐れる必要はありません。なぜか、ここにも書かれている「主はわたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」お方だからです。3つめのこと、それは私達の間にある風評ということです。

風評 

これも人から生まれるものですが、私達は悪い知らせを恐れます。噂というもの、人の口から出てあたりを風のように飛び回るものです。生涯、人の視線に振り回されて、たった一度の人生、自分の前に自分で描くことができる白紙のキャンバスがあるというのに、自分という主体性を何ももたずに、人の視線を気にして、キャンバスに遠慮しながら自分が書きたくない絵を書いている人がいます。

ダビデは詩篇112篇7節‐8節でこう書きました。「彼は悪いおとずれを恐れず、その心は主に信頼してゆるがない。その心は落ち着いて恐れることなく、ついにそのあだについての願いを見る」

ダビデは一国の王です、リーダーです。いつの時代もリーダーは孤独です。この箇所に記されている「悪いおとずれ」とは英語の聖書には「Bad News」と書かれていました。ダビデの元には日夜、色々な悪い知らせが届いたことでしょう。敵国からの攻撃だけではなく、気になる噂や批判が聞こえてくる。それがどの世界であっても、この類の知らせというのは良い知らせよりも、悪い知らせが多いものです。しかし、ダビデはそれらに惑わされてはいませんでした。どうしででしょうか。その心が主に信頼してゆるがなかったからです。

ダビデの後に生きたヤコブは信頼するということについて、こう書いています。「ただ疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。そんな人間は、二心の者であって、その全ての行動に安定がない。(ヤコブ1章6節‐節)。

ヤコブは主に信頼しない人を揺れ動く波のようだと言いました。私達が諸々の悪い知らせを恐れているならば、私達は常にその風のような言葉に揺れ動いて一喜一憂するでしょう。なぜダビデは恐れることなく、動ずることなくいることができたのでしょうか。彼は主が彼と共にいるということを知っていたからです。この主は信頼できるお方だと知っていたからです。

いかがでしょうか、今お話してきました私達を恐れさせるものは?どれかに該当する方いますか。聖書はこれらのことについて私があなたと共にいるのだから、私を信頼して恐れるな、いや恐れるに足らないと言っているのです。

有名な精神科医であるDr. William Sadlerという人が人間の恐れを研究してある結論を出しています。彼はその結論としてこういっているのです「恐れに対する唯一の治療法は信仰だ」(The only known cure for fear is faith)。恐れの中にいる方、神様をその心に迎え入れましょう。

ここで、今度は私達が「恐れるべきもの」について聖書の言葉を見ていきたいと思います。私達は環境の変化も人をもその噂話をも恐れる必要はなと見てきましたが、それは一歩誤ると何をも恐れない傲慢な、傍若無人な人間ともなります。そうではなくて、私達には恐れるべきものが一つあると聖書はいうのです。ルカ12章4節‐5節を読みます。

本当に恐れるべきお方 4そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。5恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。

ここにはまず恐れるなという言葉が書いてあります。どんなことを恐れるなと言っているのか。一言で言いますなら、私達の命を脅かす者を恐れるなというのです。そうは言っても、これは私達が一番、恐れることです。すなわち私達の命が脅かされるということです。この恐れは就職して環境が変わりましたとか、顧客からクレームをいただきましたというような恐れとは一線を画すものです。なぜなら、命あっての就職であり、命あっての労働だからです。しかし、聖書はそれらをも恐れるなというのです。そして、それには根拠があるというのです。

それは、その人達は私達の体を殺してもそれ以上、何もできないからだというのです。確かにそうです、しかし、聖書は人はその肉体の機能が止まったら、それで終わるのではないというのです。その後に、私達の人生を裁かれるお方がいるというのです。

時々、「心地よい説教」というトピックについて牧師たちの間で取り上げられることがあります。すなわち、聴く者がいつも心地よい内容の説教、すなわちそれは「ありのままのあなたを神は愛しています」とか「神を信じるなら、経済も祝福されます」というような内容の説教であり、確かにそれらも聖書のメッセージの一つなのでしょうが、それだけでは聖書のメッセージを言い尽くしてはいません。

聖書が語る最も大切なメッセージは、「私達は死後、私達の全ての言動を知っておられる神の前に立つ」ということなのです。よく学者達は人間の心の中にどういうわけか、自分が生前にしてきたことが全ていつか明るみになり、裁かれるのではないだろうかという恐れがあり、それこそが私達の恐れの源なのだと言っていますが、それは確かに動物が持ち合わせていないものだと思いますし、聖書が言うように私達、人間が神に似せて造られ、その心には神に対する残像があるとすれば、十分うなづけることなのです。

皆さん、よくよく考えてみて下さい。この裁きの権威を持っている方というのは、お化けが怖いとか、これからの不況が恐ろしいとか、あの人が恐いとか、そのような恐れの比ではないのです。それらのものは私達の肉体を害したり、あるいは殺すこともできるかもしれない、しかし、それ以上のことはできない。しかし、神はその後に私達を地獄に投げ込むことができる権威があるというのです。聖書は私達が本当に恐れる存在はこの神だけなのだというのです。もっといいますと、本当に恐れるべきお方を見極める時に、私達は恐れる必要のないものをむやみに恐れたりすることはなくなるのです。

ユダヤ人賢者がお金について興味深いことを書いています。つまり、お金には二通りの使い方しかないと言いました。すなわち「お金を支配するのか、お金に支配されるの」ということです。この言葉はそのまま恐れにも適応できます。すなわち「私達は恐れを支配するのか、恐れに支配されるのか」ということです。そして、多くの私達は諸々の恐れに支配されています。

しかし、この聖書のメッセージは、今までお話してきた諸々の恐れを恐れる必要はないといい、ただ一つ、神を恐れなさいというのです。今まで諸々の恐れに支配されてきた、しかし、今まで5つの恐れに縛られていた自分はもはや主なる神が私と共にいるので、それらを恐れない。「私はあれもこれもではなく唯一、神だけを恐れて人生を歩んでいく」、これは私達の人生を革命的に変える解放のメッセージであり、このことは確実に私達の人生を祝福します。そして、さらに驚くべき事に、このルカ伝の後半には、こんな驚くべきことが書かれているのです。

恐れる必要のない方 6五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。7その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。(ルカ12章4節‐7節)

今、お話しましたように前半には「神を恐れよ」とイエス・キリストは言いながら、しかし、後半には「恐れることはない」と書いてあります。なぜか?、なぜなら五羽のすずめは2アサリオンで売られているではないか、しかもその一羽も神のみ前で忘れられてはいないからというのです。何かトンチのような話です。

これにはイエス様のウィットが含まれています。このアサリオンという貨幣単位は同時のユダヤにおいてはとても価値の低い貨幣でした。今日でいうならペニーでしょうか。ここにはその五羽の雀が2アサリオンだと書かれています。しかしマタイ10章29節などを見ますと、それが2羽で1アサリオンと書かれているのです。ですから、本来は4羽で2アサリオン、しかしここでは5羽となっている。すなわち、1羽はおまけ Buy four, get one freeということです。イエス様は、そんなタダのような雀さえも神様は覚えているのだというのです。そうであるなら、あなたという一人の人間が私の目にはどのような存在であるか分かるだろうというのです。

そして、さらにこのお方は私達の髪の毛の数すら知っているというのです。いったいイエス様は何を言わんとしているのか。神は私達一人一人を知り尽くすほどに私達を愛しているということです。「どれだけ相手のことを知りたい」かということは「どれだけ相手を愛しているか」ということに比例します。誰かを好きになったら、その人のことを知りたくならないでしょうか。それこそ彼、彼女の好きな食べ物から野球チームまで知りたくならないでしょうか。神様は私達の髪の毛の数までも知っている。どんなに誰彼を愛しているといったからといったて、その相手の髪の数まで数えた人は人類史上誰もいません。

聖書は言うのです。「神だけを恐れなさい。でも、恐れるな」。矛盾しているような言葉です。でも、こういうことです。すなわち、神は確かに私達を裁く権威がある。だから、恐れなさい。でも、神は私達を愛している、だから恐れるな。そして、その神の愛というものは髪の毛の数を知っているというような受動的なことだけでは終わらない、神は私達を愛するがゆえに、その一人子イエスの命を私達に与えてくださった。そのキリストを私達がおのが人生に受け入れるのであるならば、私達を裁く権威のあるお方は、私達を決して裁かない、だから恐れるなと聖書は私達に語りかけるのです。

ヨハネ3章16節‐21節にこんな有名な聖書の言葉があります。

「16神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。18彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。19そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。20悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。21しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである」。

ここに興味深いことが書かれている。すなわち、19節以降にこの世界にイエス・キリストという光りなるお方が来られたのに、私達はその行いが悪いためにその光りを憎んでいると書かれている。いいや、その光りによって自分が明るみにされることを恐れている。

創世記に記されている最初の人アダムとイブは神によって禁じられた実を食べました。そして、その時に彼らは神を避けて園の木の間に身を隠しました。人はその時から隠れる者となりました。神は彼らに尋ねました「あなたはどこにいるのか」彼らは答えました「園の中であなたの歩まれる音を聞き、私は裸だったので、恐れて身を隠したのです」。人の心の中に初めて恐れが入り込んだ瞬間です。そして、私達の諸々の恐れの根源はここにあるのです。

先ほど、恐れに対する治療には信仰しかないという精神科医のことをお話しましたが、まさしくその言葉はこのことを言っているのです。そして、信仰しかないという、その信仰の内容とは「神が私達を愛しておられる、その愛とは実に神がその一人子を私達に与えられるほどのものであった」ということを信じることです。私達がその神を信じるなら私達の心の恐れは取り去られます。

そのことをヨハネという人は端的にヨハネの第一の手紙第4章18節に記しました「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである」。   

愛には恐れがない。愛されるに価しないこんな私達のために、一人子を与えるほどに私達を愛してくださった神の完全な愛は私達から恐れを取り除く。私達の恐れには常に懲らしめが伴う、しかし、神はそのご自身の懲らしめを、ご自身の一人子イエスの上に全て注がれた。もはや私達が恐れに支配されることのないように。

横井庄一さんという方を知っていますか。彼は第二次世界大戦、グアム島において米軍と戦った日本兵です。彼は戦後28年間、グアム島のジャングルの中で暮らしていた人です。彼はそこでカエルやネズミやデンデンムシを食べながら生きていました。彼は木の皮などによって自らの身につけるものを作っていました。横井さんは空から蒔かれた通知によって戦争は終わったということは知っていたそうです。ただ、自分が見つかると裁かれるのではないかという恐れがあり、出てくることができなかったそうです。しかし、二人のハンターが彼を見つけ、あなたはもう隠れる必要はないと告げたのです。彼は自由となり食事をとり、真新しい服を身につけ、飛行機で帰国しました。 

彼は出て行けば裁かれると恐れていた。ということは彼の日常は恐れで満ちていたということです。少しの物音で恐れ、自分が捕まった時のことを思っては恐れていた。そういう意味で、彼は人を、風評を、自分が暮らす日々の環境の変化を恐れていました。しかし、実際には戦争は終わり、世の中は新しい時代になっていた。出てくれば、彼はカエルやネズミを捕まえて食べる必要はなかった。話し相手もいないような洞窟で28年を一人で過ごす必要はなかった。

皆さん、キリストは2000年前にあなたが恐れる必要がないために、十字架にかかられたのです。それは、あなたが暗闇の中、諸々の恐れと共に生き続ける必要がないためです。光なるお方は既に私達と共にいるのですから、私達はただそのお方を心にお招きするだけなのです。そして、その時に「完全な愛は恐れをとり除く」と聖書が約束しているように、私達は恐れから解放されるのです。

お祈りしましょう。

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